5−24 ちったぁ報いに

 あの日、テントの中にいた獣人が――自分が、もっと賢ければ。


「タルトト! あの娘の用意はできておりますの? まもなくお客様への“お引き渡し”よ」

「……はい。バネディットさま」


 路地裏で彼らの用心棒たちに捕らえられ、遠い遠いこの街へ連れ去られることもなかっただろう。

 泣きじゃくりながら家族に、“良い仕事が見つかった。住み込みで働くので心配しないでほしい”と嘘の手紙を書かされることもなかっただろう。


 そして――。


「ねえ、あんた! なんであんなヒトたちに加担してるのよ!? 助けてよ、同じ獣人じゃない」

「同じにしないでください。わたしは夫人付きの獣人。あなたのようにただ売られゆく“商品”とは違う」

「裏切り者ッ! 呪ってやる」

「……んなコトする自由なんか、この先ないでやんすよ。きっと」


 泣き喚くキツネの獣人娘に背を向け、タルトトは地下牢への扉を閉めた。ひどく引っ掻かれたが、なんとか彼女を“商品”へと昇華させる装いは整えられたはずだ。


「!」


 昏い目を前方へ向けると、上等な靴音を響かせてこちらへ向かってくるヒトだかりが見えた。血の滲む腕をさっと隠し、タルトトは胸に手を添えて一礼する。


「いやあ実に楽しみだよ、夫人。私はキツネに目がなくてね」

「わかりますわぁ。少々跳ねっ返りですけれど、そこは残したほうが“お好み”かと思いまして」

「ははは! まったく、貴女には敵わない。お察しの通り、自分でいくのが主義でね。首輪も鞭も、より丈夫なものに新調したんだ」


 反吐が出そうな会話をしながら、外道たちはタルトトの前を通り過ぎて行った。キツネの獣人がいる部屋に入ると、すぐさま彼女の長い悲鳴が響いてくる。


 その甲高い声に追いつかれないよう、タルトトは湿った床を蹴って走り出した。


「……っ、すまねえ、すまねえでやんす……っ!」


 息を切らせて階段を駆け上がり、地上への扉に強く額を擦りつける。しかしこの扉の先では、無様な泣き顔をさらすことは許されない。少女は大嫌いな使用人服の袖で涙を拭き、冷たい目に戻って扉を開けた。


 豪華なだけで趣味の悪い調度品がならぶ廊下を抜け、機械じみた動きで広間へと入室する。



「――バネディットさま。次の“商品”の選定は、いかがいたしましょうか」




 大市場から連れ去られた日から、あっという間に1年が経過した。


 頭の回転が速いタルトトはバネディット氏に気に入られたらしく、“商品”として売られることはない。それどころか裏市場に必要な教養を叩き込まれ、夫婦の商い――獣人専門の人身売買――の経営補佐になるよう育て上げられたほどだった。


「……今日は2件か。少ないな」


 夫婦に手を振られながら館を出発していく、黒塗りの馬車。あの中に乗せられているだろう獣人は、はたしてどんな見目だったか。最近ではもっと格下の者が彼らの世話をしているので、タルトトが直接哀れな同族を目にする機会は減ってきている。


「とことん堕ちたな。わたしも」


 私室からその光景を冷めた瞳で見つめ、少女は呟いた。胸に抱いた書類には、最近さらってきた獣人の情報が詰まっている。彼らの特徴や性格を把握し、足りない素質を補い、そして必要とする“お客様”に向けて提案する――それが今の役目だ。


「これもひとつの商いってやつだ。事実、途方もないカネが動いてる」


 私的な話し相手を持たない少女はひとり、曇ったガラスに向かって語りかけた。知らずとその肩は強張っていたが、目は小さくなっていく馬車に釘付けのままだ。


 途端に煮えたぎった感情が身体を駆け上がり、少女は手にした書類を窓へと投げつける。


「……ッ、何やってんだ、は!!」


 けたたましい音はすぐに静かになり、自分の荒い息遣いだけが室内に漂う。


「誰かを――家族を喜ばせる、そんな大商人になるんじゃなかったんすか、タルトトッ! こんな真っ黒な世界で、同族を売って汚ぇ金を握って……お前はそんな、腐った商人が何よりも嫌いだったじゃねえすか!!」 


 涙が舞い散り、重要な書類にシミを作っていく。あとで夫人に鞭で打たれるだろうが、そんなことを憂う余裕もなかった。

 廊下から何やら騒がしい物音が聞こえる。部屋の前を通りかかった者が、誰かを呼びに行ったのかもしれない。゚


「いっそ……いっそ、こんなことを続けるくらいなら……!」


 激情のままに窓に駆け寄り、震える手でガラスを押す。両腕を広げた女神のように優しく窓が開き、暮れの風がふわりとオレンジ色の髪を揺らした。


 がくがくと上下に揺れる顎にかまわず呟き、タルトトは窓枠によじ登る。


「こっ……こんなことしても今さら、なんの精算にもなりゃしねえでしょうが……! あいつらの事業に少しの穴でも開けられりゃ、ちったぁ報いになるかもしれねえ」


 頼りない窓枠は、自分の小さなブーツがようやく乗せられる程度の細さだ。そして使用人の私室にバルコニーはない――少女の部屋の遥か下には、植木のひとつもない硬い地面だけが待ち受けていた。


 にじんでゆらめく視界の端に、見慣れぬ馬車が数台停まったのが見えた。駆け足でたくさんの人々が降りてくる。急ぎの客だろうか、ご苦労なことだ。皮肉っぽい、そして晴々とした顔で笑い、タルトトは深く息を吸い込んだ。


「父さん、母さん……最後まで不出来な娘で申し訳ねえ。けどあっしは、心まで畜生にはなりきれなかった。だから理性のあるうちに、まだマシな道を選ばせてほしいんす」


 その選択に抗うように、どくんどくんと心臓が吠える。身体中が震え、手は今にも汗に滑りそうだ。


 しかし荒ぶる呼吸を鎮めていた矢先、背後のドアが前触れもなく開かれる。


「動くなッ!! ゴブリュード騎士隊だ!」

「っ!?」


 尻尾の毛の一本までびくりと飛び上がり、タルトトは慌てて身体を捻った。鎧に身を包んだ物々しい一団が、厳しい表情で自分を見つめている。


「き、騎士隊……!?」

「抵抗するな。バネディットとその配下たちが行ってきた非道は、すでに我らが誅した! 君にも話を聴かせてもらおう」


 鈍色のかぶとの中からこちらを見る目には、正義の光が浮かんでいる。タルトトは部屋の高さも忘れ、かかとをじりりと後退させた。


「あ、あっしは……!」


 どう釈明しろというのだ――自分は被害者で、無理に働かされていたのだと。

 しかし、自分の命欲しさに同族を犠牲にした。それもまた真実だった。


「さあ、ゆっくりと床へ降りろ。馬鹿な真似はよせ」

「い、いやだっ! あ」

「おいっ!!」


 狼狽した騎士の声を耳にした時には、少女の身体は支えのない宙空へと滑り落ちていた。あらゆる臓腑が浮き上がり、血の一滴までが凍りつく。


「――ごめん、なさい」


 走馬灯というのだったか。たくさんの思い出が落ちていく少女の心を彩った。


 歯痒いくらいにのんびりとしていて、優しかった両親。

 自分の計算術を見て、姉ちゃんはすごいねと手を叩いてくれた弟と妹たち。

 汗を流しながら木材を運ぶ父の大工仲間、その満ち足りた笑顔――。


「ああ、なんてこった……そんなこと」


 あの街で一番気に入らなかったのは、自分で自分を誇れない心だったのだ。

 ようやく短い答えを手にしたタルトトはひとり、微笑んで目を閉じた。


「!」


 刹那ののち、どこからか風を切る音がして少女はハッと目を開いた。

 その目に映ったのは“天ノ国”の花畑でもなく、“地ノ国”で煮える大釜でもない。



「こんばんは。夕陽を眺めるにしては少し身を乗り出しすぎたようだな、お嬢さん」



 自分を覗き込んだのはまるで、群青に染まる空に浮かんだ一番星のような銀だった。


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