5−19 あたしは高いわよ?
獣人に覆いかぶさるようにして、ずるずると地にすべり落ちていくリクスン。フィールーンの目に、その光景はやけにぼんやりと映り込んだ。
「り……リク――」
「リンさんッ!!」
痺れたような感覚の足をよろりと踏み出した途端、となりから人影が飛び出す。見慣れた緑頭に、まだ見慣れぬ紅いドレス――。
「エルシー」
妹を追って身を乗り出した木こり青年の前に、すばやく黒服の男が回り込む。
「動くな、斧野郎。おいてめえ、小娘ひとり見張れねえのか?」
「わ、わるい。あんな格好してやがるくせに、すばしっこい娘で……」
「同じことが夫人の前で言えるのかね」
青ざめる用心棒を横目に、フィールーンは自身の見張りの脇から首を伸ばした。足の疾い少女はすでに、闘技場の中央へと駆けつけているようだ。
血塗れで意識を失っているリクスンのそばに屈み、近くで呆然としている相対者へとするどい声を投げつける。
「どいて! まだやるって言うなら、あたしが相手よ!」
「……するかよ、ばか」
狼の獣人少年はどうやら戦意を喪失してしまったらしい。エルシーまで危険にさらされるのではという恐怖が消え去り、フィールーンはしばし忘れていた呼吸を取り戻した。側付の肩は小さく上下しており、まだ彼に息があることも確認できる。
しかし安堵の時間は、数秒と続きはしなかった。
「何をしているのです、狼ッ! まだ勝負はついておりませんわよ」
バネディットの叱咤に、ふたたび観客たちも声を上げはじめる。どちらかが絶命するまで、という最大のルールが達成できていないことが不満のようだ。
耳を塞ぎたくなるような野次の中、エルシーはすっと立ち上がる。
「――この人の手当てをさせてちょうだい」
その凛とした声は、彼女が懇意にしている風の精霊を思わせる。どこからか、一陣の冷たい風が通り抜けた気さえした。しかしフィールーンのような繊細さを持ち合わせない夫人はやはり、幅広の顔を不快そうに歪めて問う。
「何ですって、小娘? なぜわたくしが、お前の要求を承諾しなければならないのです」
「いいえ、できるはずよ。なぜって――」
一度目を閉じ、エルシーはゆっくりと自身の胸に手を当てた。そして暗い観客席に並ぶ大人たちへ、見せつけるように両腕を広げる。
「あたしたちは、一流の――“商品”なんだもの!」
「え、エルシーさん!?」
仲間の誰もがぎょっとして目を瞬かせる間に、少女はすらすらと理由を並べ立てていく。
「知ってのとおり、この人は王都の現役騎士よ。彼が護衛しているのは、そこにいる黒髪の美人。もちろん、国にとっては要人ね」
「……」
何百という視線がフィールーンへと突き刺さり、王女はぞわりとして腕を掻き抱いた。しかしエルシーの“紹介”は止まらない。
「先ほど見事な戦いを披露したのは、あたしの兄で木こり。あのとおりの仏頂面だけど、どんな力仕事もお任せよ」
「おい……」
「加えて、御婦人がたにおすすめなのは魔法使いの優男。そうね……喋らなかったらきっと、いい置物になるわ」
「ちょっと、俺っちとセイちゃんの説明ひどくない!? 買い手がつかなかったらどうするのよ」
明後日の方向へ憤るアーガントリウスには取り合わず、フィールーンは不安な気持ちで少女を見つめた。彼女の意図がだいたい読めてきたのだ。
「それから、あたしは――“
「!」
胡乱げな表情をたたえていた夫人が、その一言に顔色を変える。見た目に合わない速度で椅子から立ち上がったため、脇にいたタルトトが飛び上がった。
「“
驚愕に彩られたその顔を見るに、夫人はすでに知識を持っているようだ。フィールーンの頭上近く、最前列にいる観客たちがこそこそと声を交わす。
「なにそれ? はじめて耳にする言葉だわ。希少な人種だとか?」
「知らないのかい、君! いや、それはそうかもしれませんなあ。ボクもお目にかかるのは初めてだ」
質問主の連れらしい男が、気味の悪い興奮を覗かせて答える。
「精霊と運命を共有すると言われている人物さ。あらゆる精霊と通じ、詠唱などもなく魔法めいた奇跡を行使するという。人前で素性を明かすことは非常に稀なんだ」
「あら、どうして? いくらでも使い道のある力じゃない」
「ああそうさ。世のためにも――そして我々のような探求者にも、ね」
「……なるほどぉ。わたし、あの子欲しくなっちゃったかも!」
「ふふん。もし競りになったら、負けませんぞ」
似たようなささやきがそこかしこで広がり、フィールーンの背に嫌な汗をにじませる。しかしエルシーはどこか得意げな顔をし、まっすぐに女支配人を見上げた。
「さあ、これでご理解いただけたわね? タルトちゃんだけじゃない。アナタに、いえ――“お客様”にとって、あたしたちは失いたくない存在のはずでしょう」
「……。オルヴァ」
考え込むような顔をしていたバネディットが呼ぶと、すぐに細面の従者が姿をあらわす。フィールーンは研ぎ澄ました聴力を、2人の会話へと集約させた。
「彼女の言っていることは?」
「はい夫人。たしかにあの娘からは今、言い知れぬ魔力が溢れ出ています。これまでうまく制御してきたようですね」
「!」
相変わらず陶器のように整った笑みを貼りつけたまま、従者は唐突にこちらを――フィールーンへと視線を向けた。盗み聞きに気付いている。
「それに、あの木こり青年や魔法使い。彼らからはとくに異様な力を感じます。何かを隠しているようですね――あの要人という女性も、その例に漏れません」
「ふうん……。なるほど、わたくしの想像以上の魚がかかったということね」
近くでその会話を聞きつけたタルトトが、焦った表情で夫人たちとこちらを見比べる。なにか策を立てようとしているのだろうが、フィールーンと同じく狼狽が先立っているらしい。
「手当てを許可しましょう、お嬢さん」
「!」
「ただし、あなたのチョーカーも“景品”身分とさせていただきますわぁ。それでもよろしくて?」
いやらしい笑みを浮かべて夫人が投げた提案に、エルシーの表情が硬くなる。しかしフィールーンが声を挟む間もなく、少女はふたたびツンと顔を上げて告げた。
「ええ、好きにしなさい。けれど以降は、そちらも扱いに気をつけることね――あたしは高いわよ?」
「生意気だこと」
夫人はつまらなそうに鼻を鳴らし、従者へと二重顎をしゃくった。オルヴァは恭しく頭を垂れたあと、パチンと指を鳴らす。
「だ、だめですっ、エルシーさん!」
「いいのよ、フィル。たくさん心配してくれて、ありがとう」
少女の細い首に巻かれたチョーカーの端が、墨をにじませたような黒へと変色していく。側付も結局『敗者』と見なされたらしく、彼の宝飾品も同じ変化をはじめていた。
「あたしならきっと、リンさんを助けられる。あとのことは、あとでたくさん悩みましょ! ね?」
「エルシー、さん」
「まだお兄ちゃんも、アガトさんもいる――それから、あなたもね」
場違いなほどに可憐なその笑みが、フィールーンの胸にふたたび火種を宿らせる。その細い肩は、遠目に見ても震えていた。怖くないはずがないのだ。
「夫人ッ! た、大変です!」
「何なの、騒がしい」
「じ、実は、ひとつ前の“遊戯”で死んだはずの獣人が」
耳に飛び込んできた会話に、フィールーンの身体から血の気が引く。見ると、さきほどウサギの獣人を運び出した従者が土気色の顔で喚いていた。
「あの者が息を吹き返した……ですって?」
「は、はい! 血まみれですが全部あの青年のものだったようで、傷ひとつ付いちゃいません。信じられねえ、あんなデカい斧で斬られたってのに」
縮こまっている従者に下がるよう手で示したあと、夫人は怒りに満ちた目をフィールーンたちへ向けた。
「まさか、あの斧に細工を? 謀りましたわね、木こりッ!」
観客たちとフィールーンをびくりと竦ませるようなその糾弾を、当人はいつもの無表情でもって迎える。
「ああ……たしかにあの斧は、少々斬れ味が悪い。古いからな」
「せ、セイルさん……!」
実直に答えただけなのか、彼なりに煽っているのか。フィールーンが危惧した時にはすでに遅く、女支配人は怒り狂って唾を飛ばす。
「なんという――なんという侮辱! このわたくしの“遊戯”に対する冒涜行為です! 反則の代償として、すぐさま全員“黒”に染めてさしあげましてよ!!」
「なっ……!」
夫人の暴虐発言を聞いたフィールーンの頭の奥で、なにかがプツンと切れる音がした。
「なにを……言ってるん、ですか……?」
エルシーの身を呈した取引を覆すかのような、一方的な宣言。それはフィールーンにとって到底、納得できるものではなかった。
「貴方は――いや、“お前”は、どこまで傲慢なんだ……!?」
フィールーンの身体が燃え上がらんばかりに熱を高めたのを感じたのか、どこからか師が「こりゃだめだわ」と小さく声を落とすのが聞こえた。
「う――ああぁッ!!」
「なっ、何ですの!? だれか、あの娘を取り押さえなさい!」
仕様がない。
先に約束を破ったのは――この女だ。
「ふざけたことばかり抜かすなッ! この――クサレババア!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます