4−22 それは大いに間違っている

「ホワード! まさか、湖へ落とされたのか!?」


 湖面に広がる波紋を見て叫んだ側付に、フィールーンは急いで問いかける。


「リン! か、彼はあの後」

「……空中での戦闘は、奴が圧されていました。やはり水上では普段通りに動けないようです。あのような翼を持ちながらまったく、不甲斐ないッ!」


 激昂するリクスンだが、ここからでは剣を差し向けることができない己に歯噛みしているようにも見える。


「そ、そんな……!」


 フィールーンは焦りを強めたが、先に行動を起こしたのは精霊に身体を拘束されているはずのエルシーだった。


「この……っ、いい加減、離しなさい――よぉっ!!」


 少女が緑髪を振り乱して身を捻ると、光の粒がたまらずといった様子で離れていく。肩で息をするエルシーに、ひゅうと口笛を送ったのは知恵竜だ。


「ありゃりゃ、力尽くか。あとでしっぺ返し喰らっても知らないよ?」

「知ったことじゃないわ! 家族の命がかかってるのよ、こっちは!」


 吠えるように言い返し、エルシーは太い根の上を走る。向かう先が湖だと知ってフィールーンは少女の名を呼んだが、即座に飛び出したのは大きな背だった。


「待て、ホワード妹ッ!」


 ブーツを脱ぎ捨て飛び込みの態勢へと移行していたエルシーの腕を掴み、騎士は怒鳴った。


「落下地点まで泳いでいくつもりか!? 遠すぎる上に、防護壁の外だぞ」

「離してよ、リンさん! だって、お兄ちゃんが」

「待つのだ!」


 主君じぶん以外に危険が迫った時、この騎士は案外冷静を保てることが多い。フィールーンは祈るように側付の言葉を待った。


「この湖はさほど深くない。世界樹の根が盛り上がっているところが見つかれば、奴の背丈なら顔が――」

「無理よ、きっと気を失ってる」


 まるで自身が水に呑まれたかのように蒼白な顔をし、エルシーは茶色の瞳を潤ませて声を絞り出した。


「あたしの、せいなの……」

「何?」

「お兄ちゃんが水を苦手になったのは、あたしのせいなのよ。だから――あたしが助けなくちゃ」


 少女の告白に滲むのは、深い後悔の念。吸い込まれるかのごとく湖へと歩を進めようとするエルシーを、毅然とした声が打ち据えた。


「それは大いに間違っている」

「なっ……! 何も知らないくせに」

「ああ。俺は君たち兄妹について、そう多くは知らん」


 リクスンは少女の細腕を引き、代わりに根の先端へと躍り出る。強い光を浮かべた琥珀の目が、呆然とするエルシーを見下ろした。


「だが同じように、君も俺のことを知らん。違うか?」

「だ、だから何だって……!」

「このリクスン・ライトグレン。栄えある“ゴブリュード湖競泳大会”において、3年もの間――首位の座を譲ったことはない。騎士隊長あにうえにもだ」

「!?」


 風除けの外套を外し、逞しい足がグリーヴを脱ぎ捨てる。

 およそ騎士には見えない格好になった青年は、コキリと首を回して宣言した。


「俺が行こう。どの道、水中から奴の体重を引き上げられるのは俺だけだ」

「リン……さん」

「君は精霊との仲を回復し、アーガントリウス殿に協力しろ。姫様と世界樹を守り抜け」


 リクスンは胸板を膨らませて深呼吸したあと、フィールーンに向けて金髪頭を垂れた。


「フィールーン様。不躾ながら――しばし、お側を離れる許可を頂きたく」

「は……はいっ! た、頼みます、リン!」

「はい。必ずや」


 頼もしい笑顔でうなずき、リクスンは木の根を蹴って飛んだ。見事な弧を描いて湖に飛び込んだ側付は、まさに魚のごとき速さで水中を遠ざかっていく。


「ずっと水の中を行くつもり? 滅茶苦茶だわ」

「だ、大丈夫ですよ。リンは、とても長く息が止められるんです! なんでも“心配するたびに呼吸がよく止まっていた”から、なんだそうで――」

「それってほとんどあなたのせいじゃない!?」


 心配そうに湖面を見つめるエルシーと共に、フィールーンも側付の無事を祈る。大きく息をして気持ちを整えると、意を決して大魔法使いへと振り向いた。


「アーガントリウス様」

「え、何? もしかしてこんな局面で“そういう話”? やだなあ姫ちゃん、そんな急がなくても」

「あ、改めて――私たちと一緒に、来てくださいませんか?」

「!」


 フィールーンの申し出を耳にしたアーガントリウスは、おどけた調子を薄めて頭を振る。


「可愛いカオして、結構押しが強いねえ。そゆのも嫌いじゃないけど、やっぱ俺っちは」

「わ、私……気を失っている間に、視てしまったんです。アーガントリウス様の、今までのこと」

「!」


 褐色の掌の上に浮かぶ虹色の光が一瞬、大きく揺らめく。彼の心中に動揺が走ったのを見て取ったフィールーンは、大樹を見上げて続けた。


「おそらく……この世界樹が、そうしたのだと思います」

「それって、どういうこと? 夢を見たってわけじゃないの、フィル」


 油断なく外野の動向を見守りながらも、エルシーが不可解だという声を投げてくる。フィールーンはうなずき、逸る心を抑えて答えた。


「その体験中、私は透けた身体をした存在になっていました。自分の意思で移動はできず、私はアーガントリウス様に追従する形で……」

「それで俺っちの人生を渡り歩いてきたってこと? 魔法使いが言うのもなんだけどさ、姫ちゃん。そりゃいくらなんでも――」

「“メケナーデ”」

「!?」


 咄嗟とはいえ、どうして自分でもその場面を選んだのかはわからない。それでもフィールーンは、肩を強張らせたアーガントリウスへと一歩踏み出して言った。


「あ、貴方様とアイリーン様が長年可愛がっていた、猫の名前です。竜であるアーガントリウス様のことも恐れず……よくお腹の上で、お昼寝していましたね」

「な、なんで……んな昔のコト」


 彼の活躍が記されたどんな書物にも、その小さな生き物の名は載っていないのだろう。私的な思い出を突きつけられた知恵竜は、今度こそ驚愕に目を丸くしている。


「アイリーン様の花嫁衣装、とても綺麗でした。魔法で大きくした薔薇が裾を飾り、腰から伸びるリボンはまるで天使の翼のようで……お美しかったです」

「な……!」

「アーガントリウス様が道中で助けた、迷子のドワーフ。あの方は、のちに名匠となるローアン・ティトフ様ですね? 名付け親だったなんて、驚きました」

「あいつのことまで? あーいや、けどやっぱりどこかの本に載ってても」

「で、では!」


 まだ疑いの色を捨てていないアーガントリウスに、フィールーンは身を乗り出して付け加える。


「繰り返される“侍女漁り”がついにアイリーン様のお怒りを買い、風紀を乱した罰として地元漁師たちの手伝いを命じられた時のことは?」

「ん? あっ! ちょ、ちょっとま――」

「地引網を空から引き揚げるという役目を任されたのに、あまりの大漁ぶりにアーガントリウス様は耐えきれずに……魚の網の中へと突っ込んでしまったのですよね。と、とっても冷たそうでした」


 ぶ、とエルシーが小さく吹き出す音が聞こえ、フィールーンはハッと我に返った。目の前には、悲しそうなため息をついて頭を掻く竜の姿がある。


「はあ……俺っちの負けよ、姫ちゃん。自分でも忘れかけてた悲劇をそこまで詳細に語られちゃ、疑う余地なしだわ。そのあと1週間、魚の匂いが取れなかったことも思い出したよ」

「す、すみませんっ!」

「ま、不思議体験ご苦労さん。けどだからって、俺っちがキミらの旅についていく理由には――」

「わ、私たちの旅は!」


 もっとも苦しい場面を脳内に再生しつつ、王女は切り出した。



「私たちの旅は、きっと――“黒い鱗”を持つ竜人へと、繋がっています!」

 

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