4−3 それが魔法というものよ
「う……ん……」
フィールーンは自身の喉から出た声に、ハッと空色の瞳を開ける。
「! え、エルシーさん」
目の前に横たわる少女の顔を見、一瞬息が止まる。しかし彼女の穏やかな寝息を耳にし、だんだんとこれまでの経緯が蘇ってきた。
ここは湖のほとり、大魔法使いの小屋――気づけば自分たちが寝転がれる幅になっていた、広いベッドの上だ。
「……」
家主に断りなく横になるのは気が引けたが、側付や木こりの青年に強く勧められ折れたのである。
エルシーも気を遣ってか「あたしも隣で寝るから」と言い、結局は毛布の中へと引っ張り込まれてしまった。
それでも余程疲れていたのか罪悪感はすぐに薄れ、溶けるように眠ったフィールーンだったが――
「夢……?」
生々しいあの戦場の光景は、とても儚い夢だとは思えなかった。今も細部まで思い出せるその夢を思い返すと、フィールーンの身体に震えが走る。
「……っ」
どくどくと早鐘を打つ心臓を鎮めるため――いつも城でひとり、そうしていたように――夜空の星を観察することに決めた。
「きゃっ!」
しかしベッドから下ろした素足が触れたのは、木の床ではなかった。
漆黒が支配する部屋の中に、王女の驚きの声が響く。
「みっ――水!?」
耳を澄ませば部屋のあちこちで水がうねり、跳ね返る音がしている。状況が呑み込めないフィールーンはしばしの間凍りついたが、なんとか声を張った。
「リン、み、みなさんっ! いらっしゃるんですか!? 部屋に、水が!」
「……」
相変わらずつっかえ気味な喉だが、狭い室内で聞き取れない声量ではない。だというのに、仲間の誰からも返答は得られなかった。
王女は慌てて隣の少女の肩を揺さぶる。
「エルシーさんっ! お、起きてくださいっ!」
「……めよ」
「え?」
「だめ……おにいちゃん……。お肉、まだ……半ナマぁ……」
どんな夢を見ているのか、エルシーは呻くような寝言を漏らしている。寝坊しない少女がこれほど深く眠っているのを初めて目にし、フィールーンは驚いた。
「そ、そうだ、明かり! お願いします、明かりをつけてくださいっ!!」
小屋に入った時のことを思い出し、フィールーンは闇へと叫ぶ。すると数時間前と同じく、部屋の隅に柔らかな明かりが灯った。
映し出された室内を目にし、黒髪を跳ねさせたままの王女は絶句する。
「これ、は……!」
部屋は見事な浸水状態であった。くるぶしほどの水深にもなった水が、隙間なく小屋の床を満たしている。木のスプーンやカップが、渦を巻いて揺られていた。
しかしもっとも異様な光景は、その水の中でも平然と眠りこける2人の男たちだ。
「り、リクスン!? セイルさんも……ど、どうしたんですか!」
長椅子を幼い商人に譲ってしまった2人は、数時間前と変わらず床で眠っていた。
「……」
絨毯があるだけ快適ですと笑っていた側付だが、もちろん水の中で眠り続けられる神経などあるはずもない。
それに水を苦手としているセイルなど、この状況にいち早く飛び起きてもおかしくないはずである。
「そ、そんな……何が、起こって……?」
王女の当惑した声に答える者はいない。それぞれ壁に背を預けて眠る男たちはごく静かに寝息を立て続けており、長椅子で尻尾を抱えている商人も同じだった。
「……っ」
焦りを強めながらも、頭を働かさねばとベッドの端へにじり寄る。
「と、とにかく、外の状況を……!」
『あらあら? 夜更かしさんがいるのね』
「!」
突如部屋に響いた女の声に、フィールーンは文字通りベッドから転がり落ちた。ばしゃりと水を跳ね上げつつ、雑多な室内を見回す。
『さあさあ、思い切り“わたし”を吸い込んで。眠りの国へ赴く時間よ』
「お、お香……?」
声の主は、窓辺でカタカタと音を立てている陶器の香瓶であった。薄い桃色の煙を立ち昇らせ、魔法がかった道具は歌う。
心地よくも甘ったるいその匂いに気づき、フィールーンは手で鼻を覆った。
「そ、そうだ……エルシーさんが、良い匂いって。でも、火は点けていないはず」
『野暮な手順は要らないの。それが魔法というものよ』
「み、みなさんが眠っているのは、あなたの仕業?」
『そうよそうよ、おつかれでしょう? 朝までぐっすり、おやすみなさい』
「ね、寝ている場合じゃないんですっ!!」
こうなれば、部屋を満たす水と香りを外に排出するしかない。フィールーンは意を決して立ち上がり、素足で水をかき分けながら戸口へと向かった。
就寝用の簡素な上下服に水が染み込み、寝床で蓄えた熱を奪う。
「うん……しょっ!」
水圧で重くなった扉を体当たりで押し開けると、ざばあと音を立てて水が外へと流れ出した。これで部屋の水位が上がることはない――王女がそう安心したのも束の間。
『どうしてー世界樹はおおきいのー? どうしてー水は尽きないのー? なんでって、カミサマがそう創ったかーらーさぁー!』
お世辞にも上手いとは言えないその調子っ外れな歌は、フィールーンの繊細な鼓膜をびりびりと震わせた。
「な……っ!?」
歌い主は探すまでもない――目前の湖、その浅瀬で巨大な水柱を吹き上げながら転がり回っている竜である。
城の暮らしに合わせて小型化してくれていた竜の賢者夫妻とは違う自然の竜の姿を見上げ王女は圧倒された。
「お、大きい……!」
美しい紫色の鱗は月光と水によって輝き、気持ちよさそうに細められた同色の目も不思議な光を放っている。細身の竜で、あまりごつごつとした筋肉は見られない。
「んー、うまいっ!」
壺のような物体が絶えず竜の周りを浮遊しており、時折ひょいと爪先でつまんでは中の液体を口へと注いでいた。どうやら酒盛りの最中であるようだ。
『ああー、うるわしの大樹よぉー! 月明かりの化粧が見事っだねえぇー!』
「あ、あの……!」
盛り上がりの一途を辿る大音声はもちろん、雷雨のようなその水浴びの音がフィールーンの声を掻き消していく。
竜が上機嫌で寝返りを打つたびに湖から水が溢れ、小屋へと波が打ち寄せた。浸水の原因は彼で間違いないだろう。
「あれれ? なんか可愛い子が俺っちの小屋から出てきた! いいねえ、もう酔っちまったらしい!」
「あっ、わ、私――」
酔っ払いの竜がこちらに気づいてくれたのは暁光だったが、フィールーンは言葉を詰まらせた。
「ほらほらおいで、
「え、ええと……!」
「ん? ――え、マジ?」
軽口を閉じ、急に呆けた声になった竜に王女は面食らう。
しかも大波を立てて彼は湖から飛び出し、こちらへと突進してきた。
「なんで……なんで君がここに!?」
「あ、わわっ――きゃ!」
膝まで打ち寄せてきた水に押し切られ、フィールーンは大きく体勢を崩した。
本日2度目の尻餅をつく覚悟を決めた瞬間、その手がふわりと引かれる。
「!」
「いいや、そうか――! そうなんだな」
地鳴りのような大声ではない、それはヒトの声量だった。
次に王女が見たのは、自分を引き寄せてくれている褐色の男性の手。
そして月光に照らし出されたのは、歓喜に輝く男の笑顔だった。
「ついに帰ってきたんだな――アイリーン!」
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