2−29 真面目だな、そなたは
セイルの提案に身を乗り出したのは、意外にも王その人であった。
「なんと! それはまさか……“アーガントリウス・シェラハトニア”殿では!?」
「知ってるのか」
緑の瞳を子供のように輝かせ、ラビエルは整った髭を有するアゴをさする。
「もちろんだ。“大賢者”、“仙竜”、“生ける書物”――かつては多くの弟子を持っていたという、世の魔法に精通する偉大な竜の名であろう」
「そうだ。詳しいな」
「亡くなった妻が熱を上げていた存在でな。その聡明さにあやかるべく、娘の名にも入れさせて頂いたほどだ」
王は柔らかく微笑み、杯から滴った水を指先で机上に伸ばした。流美な字で“シェラハ”と綴ってみせる。
「お力を借りれぬかと、余も何度も捜索隊を出したものだが。噂を聞いて駆けつけるも、いつも煙のごとく去っていかれる……。しかし本当に、かの
「確約はできないけれど。テオさんは彼の弟子だったんですって。それにいつもは世界中を旅しているけど、どうやら今はこの近くの拠点に滞在しているらしいの。テオさんには分かるのですって」
エルシーの補足に、ますます王は表情を明るくした。
「まさに
「死んでないぞ」
「黙ってて、お兄ちゃん……」
こめかみを押さえて呻く妹にセイルは小首を傾げたが、話を進めることにした。
「賢者によると、そいつは誰かの呼び出しに応じる存在じゃないらしい。だからこちらから、王女本人を連れていく必要がある」
「それもごく少人数で、です。気まぐれな竜の元へ見知らぬ騎士隊が大勢押しかけるのは、まったく得策ではないと」
自分たちの提案を聞いた王は、心配そうに顔を曇らせた。
「彼の拠点までは遠いのか?」
「アセンビア湖だ」
「ふうむ。王都の水源にして、“世界樹”を抱く湖か……」
ラビエルは年季の入った天井を仰いで思案した後、隣席に目を遣る。
「そこまで距離はないが、カイ……どう思う? 娘は長旅など経験もないが」
まるで友のように話しかけられても、騎士隊長は恐縮していない。側付とあって日頃からかなりの信頼を寄せられているらしいカイザスは、わずかに目を伏せたのち答えた。
「容易くはないでしょうが、不可能ではないかと。フィールーン様は日頃たくさん運動されているわけではありませんが、不思議と身軽な一面があります」
「“竜人”の力が、筋肉を衰えさせない。……運動はしておいてほしかったが」
「許せよ。あやつを書庫という名の牢に押し込めているのは、余なのだ」
胸が痛むといったため息を落とし、ラビエルは暗い杯を覗き込んだ。
「運動だけではない。本来であればたくさんの出会いを経験するはずの時期を、薄暗い場所で過ごさせてきた。同年代の者と外界へ赴くことは、娘にとって最良の経験となるのではないか?」
「仰る通りですが、警護の長としては安全面を最優先したいところです」
カイザスの当然の意見に、ラビエルは肩をすくめて言った。
「真面目だな、そなたは。余も15の齢には一人旅をしたものだぞ」
「家出という記録になっておりますよ」
おどけた顔を引き締め、カイザスはてきぱきと進言する。
「湖は深い森に取り囲まれていて、馬車は使えない。例の襲撃者たちのことも考慮すると、馬か徒歩の旅となるだろう。それに……」
「もちろん、お城の方が王女様の護衛についてくるのは構いません。さすがに、侍女さんが何人もってわけにはいかないけれど」
エルシーの申し出に感謝するように笑んだ騎士隊長――妹は杯を倒しそうになった――だったが、それはどこか苦笑めいたものであった。
「その点は安心してくれ。丈夫な身体を持ち、武芸に秀で……さらには、姫様に信頼されている男がいる」
「なら、そいつで問題ないだろう」
「うむ……そうなのだが、少々“堅物”な側付でね。私の義弟で、名をリクスンという。他の者を推薦しようが、あいつは這ってでもついていくはずだ」
王女の側付を務める者が堅物であることに、セイルはさして疑問を呈さなかった。
それが“度を超える”ものだという事実を、数刻後に知ることになるのだが。
「オレたちはそいつで構わない。他に問題は?」
「旅荷は秘密裏に用意させよう。そうだな、あとは……君たちは、湖への道をよく知っているのか?」
「知らん。旅をするのは今回が初めてだ」
正直に申告したセイルに、妹も暗い顔でうなずく。
地図が頭に入っているテオギスがいようと、陸路を往くのはやはり容易ではなかった。竜人になり妹を抱えて飛べば早いのだが、彼女は断固拒否した。木の上などは平気だが、自分の足がつかない状況はご免なのだという。
「休息のために道中立ち寄るだろう町には、抜け目のない者もいる。路銀を尽かさぬようにするには、旅慣れた者が必要だ」
「けど、あまり部外者は……」
「城の者ばかり同行すると、目立ちやすい。ルナニーナ殿の件に与した者を引いてしまうことも避けたいからな。そうだな……私が信頼する商人に頼んでみよう」
「商人?」
危険だと言っている旅に商人を連れて行くことなど想定外だった。
セイルの表情を見たカイザスは、穏やかに笑んで付け加える。
「心配せずとも、役に立つぞ。まだ若いが頭の回転は早く、口も手もよく動く。最適な宿の手配や物資の補給なども一任できるだろう」
「戦えるのか?」
「非力な獣人だが身のこなしは軽く、有事の際に己の身を守るくらいはできるはずだ。簡単な手当てや解毒なども器用にこなし、地図にはない抜け道も多く知っている」
セイルはちらと妹を見たが、彼女はコクコクと頭を上下させて熱烈に同意を示していた。
それもそうだろう――ここまでの旅路も割と散々だったのだ。
適正価格だと思った料理屋が“ぼったくり”の店だったり、やけに良い宿を勧められたりして大幅に路銀を削ってしまった。
セイルは承知のうなずきを落とす。
「わかった。そいつも連れて行く」
「大事な問題を忘れておるぞ、騎士隊長」
どこか固い声で切り出したラビエルは、ため息まじりに側付を見た。
「我らが頼れる大臣にして、王国一の“石頭”――レイモルドはどうするのだ」
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