2−21 なんにも、ちがわないだろ?
ばしゃりと大きく水が弾ける音と共に、苦々しい罵声が広場に響く。
「はあ、はぁっ……! くそ、忌々しいっ」
煤が混じった水たまりの中から立ち上がった襲撃者サリーンは、竜の魔法によって台無しになった一張羅を見て絶句した。
美しいえんじ色だったドレスには醜いシワが刻まれ、上等なレースがまるで下女の着物のように捻じれている。
「く、やってくれたわね賢者ぁ……ッ! ――あら?」
牙を剥いた彼女は、思わず呆けた声を出した。広場の隅に横たわる憎き巨竜――テオギスが固く目を閉じ、岩石のように微動だにしていないことに気づいたからである。
「は……ははッ! なぁんだ賢者様、死んじゃったの? おかわいそうに!」
「……」
もちろんその嘲りは死者へと向けたものではない。竜の膝下あたりに佇む少年へと投げたのだ。
「!」
高揚感に浸っていたサリーンだったが、ふと少年の様子が先ほどとは違ったものになっていることに気付く。
「……お前!? どうしてその姿を」
かつての騎士の息子――ただの木こりの少年。それが今や自分と同じ“竜人”の姿をしているのだ。サリーンの開いた口はすぐに閉じられ、やがてギリリという音を立てて軋む。
「テオギス・ヴァンロード……! ダテに“賢者”って呼ばれてるわけじゃないのね。あれほど弱っていたのに、最後にこんな“土産”を置いていくなんて」
「……」
悔しいが、少年の“竜人”姿は自分よりも様になっている。火傷だらけだった手足は装甲のように鱗をまとい、靴を突き破り生えているのは強靭な竜の爪だ。
全体的に黒々しい少年の格好の中で唯一の光を放っているのは、彼の左手首にぴったりと収まった金色の環のみである。宝飾品に目がないサリーンは、それが亡き賢者の遺品であることにすぐに気づいた。
さらに蒼とも黒とも言えない深い色の角を有する頭は――真夜中の空の色。
「しかもその黒髪! 鱗は蒼いのに、どうして」
紺碧の鱗を有する子供は、気味が悪いくらいの沈黙を貫いている。わずかに背が冷たくなったサリーンだが、一転して上品な笑みを顔に貼りつけた。
「まあ、成り行きはあとで聞かせてもらうとして……お坊ちゃん? まずはおめでとう」
「……?」
やっと反応を示した少年だが、彼の金色の双眸はサリーンではなく巨大な骸へと向けられている。襲撃者は頬を引きつらせたが、ふたたび優しい声音を使って言った。
「同じ“竜人”同士ですもの。もちろん仲良くしてくださるのでしょう?」
「……おまえと?」
「私だけじゃありませんわ。私たちは現在も、水面下で組織化を進めつつあります。それに、あなたほど若い竜人はいない……きっと、“あの御方”も歓迎なさるでしょう」
強大な組織への誘いにも、年頃の少年は微塵の興味さえ示さない。サリーンは笑顔を引っ込め、酷薄さが目立つ素の声へと戻った。
「返事くらいしなさい。……これだから子供は嫌いなのよ」
「おれもだ」
「それは何よりね。おかげで――」
サリーンは魔力を込めた竜の脚で地面を踏みつけた。瞬間、蜘蛛の巣のような亀裂を残して宙へと跳ぶ。
空中で身を捻り、鉤爪が光る足先を容赦無く少年へと振り落ろした。
「手加減なく殺してあげられるものッ!!」
「お兄ちゃん!」
広場の入り口に立っている少年の妹が絶叫する。サリーンが殺気を込めた目で少女を射抜くと、彼女はびくりと飛び上がったあとその場にへたり込んだ。
一歩でも動けば命はない、と本能的に悟ったはずである。
少女の慄いた表情に満足したサリーンは、高らかな声を上げて少年へと迫った。
「さようなら! “むこう”でお父様に会ったら、よろしくお伝えくださいませ!」
「――いいや」
「ッ!?」
予想していたのは、自分の強靭な足が子供の頭蓋骨を砕く感触。
しかし訪れたのは――奇妙な違和感。
なにかが――ズレた、ような。
「おれはまだ“そこ”へはいかない。じぶんで言いにいけよ、このクサレばばあ」
「なっ……あ、あ」
「あ、なんだと? テオ?」
「!」
小首を傾げた少年の顔に、サリーンの血が噴水のように吹き付ける。大人の男でも狼狽するだろう状況だが、少年は至極愉快そうな表情になって笑んだ。
「“父さんと同じところへはいかないだろう”だってよ。ザンネンだったな!」
「――あ」
狂気じみたその笑顔に、思わずサリーンは呆気にとられる。
同時に真っ赤な水が己の足から噴き出していることをようやく自覚し、絶叫した。
「ッああああ!! あ、ああ、脚がぁっ」
「あしぐらいでガタガタいうなよ。ほら、つぎはしっぽだ」
ぎらぎらと満月のように発光する少年の視線を追ったサリーンは、びちゃりと音を立てて水溜りに落ちた赤い尾を見て声を涸らせた。
「ひ、ぁッ――があああ!」
文字通り身を裂く痛みに仰け反り、無様に泥水の中を後ずさる。そこでようやくサリーンは、己の部位を斬り落とした凶器に目が留まった。
「そ、その斧……⁉︎ どうし、て」
「ああ、これか?」
少年が軽々と持ち上げてみせた大戦斧。それは先ほど、自分が背後から奇襲を受けた時に使われたものと同じ得物のはずだった。
しかし明らかに大きさが、そして刃の厚みが肥大している。到底子供が扱える代物ではない。
何よりも不気味なのは――まるで血脈のように、刃が紅く輝いていることだった。
「やっと“つかえる”ようになったらしい。……おせえっての」
棄て吐くように言葉を落とした少年を見上げ、サリーンは恐怖した。
どこか芝居がかったため息をつく彼は、どう見ても先ほどまでの寡黙な少年とは“別人”である。
「お、お前……?」
自分を含め、他の竜人たちにもそのような変化など見られない。その得体の知れなさが、ますます彼女の畏怖を増大させた。
加えて少年の“竜人化”の見事さといえば、やはり嫉妬する余地もないほどに完璧ときている。
“また、成り損ないか”
その幻滅した呟きを思い出した瞬間、サリーンは大量に血を失ったはずの身体にカッと熱が宿るのを感じた。
「ちがう……違う違うちがうッ! 私は、他とは違うんだッ!!」
浮浪孤児として過ごした惨めな半生。
飢えることはなくなったものの華のない、城での侍女仕え。
持ち主がこの世を去ってもなお輝く、美しい髪飾り――。
「こんな終わり方、私じゃない! 私にはもっと、華やかで、きれいな」
「おまえはここでおわりだよ。“ヒゲキ”だな?」
「ッ」
ぬ、と自分を上から覗き込んできた“異形”。
その手にある大戦斧が静かに振り上げられるのを見、サリーンは言葉を失う。
代わりに開かれたのは、小さくも鋭い牙を有する口。
「それに――なんにも、ちがわないだろ?」
「!?」
自分よりも明らかな力を持った“竜人”は、サリーンへと紅い煌めきを落として呟いた。
「おれもおまえも、ヒトゴロシの“バケモノ”だ」
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