第197話 出発の朝
相談を終えた後、速やかに部屋の布団に戻った俺と陸さんは、出発の時間まで少しでも寝ておくことに。車の運転は空さんでもできるので、眠いのであれば車の中で寝ることも提案させてもらったのだが、
『ウチの母さん、高速道路に入ってスピードが上がるとちょっと運転が荒っぽくなるから……』
ということなので、出来るだけ睡眠時間を取らせてあげようと思う。
朝、浴衣から私服に着替え直した俺と海は、陸さんの分もまとめて荷物をまとめて、昨日と同じ朝食会場へ。
すると、俺たち二人に気づいた仲居姿の雫さんが申し訳なさそうな笑顔で近づいてきた。
「おはよう、真樹君に海ちゃん。昨日はりっくんのこと借りちゃってごめんなさい。つい昔話が長くなっちゃって、明け方まで居酒屋で飲んじゃって」
「おはようございます、雫さん。陸さんは出発ギリギリまで寝るそうなので、朝ご飯はいらないと伝えてほしいと言われました」
「うん、了解。昨日はさすがに振り回しすぎちゃったかな……後できちんと謝っておかないと」
陸さんの話によるとかなりお酒を飲んでいたはずなのだが、雫さんはいつもと同じ……いや、それ以上に元気が漲っている気がする。
昨日の深夜、二人がどんな話をしたのかは知らないが、二人にとってはとてもいい時間になったのではと思う。
「そうだ、ねえ真樹君、帰る前にちょっとだけ時間ある? 怜次が『お兄ちゃんに挨拶したい』って言ってて。ご迷惑じゃなければなんだけど」
「怜次君が……はい、わかりました。俺も話したいと思っていたので、全然いいですよ」
「ありがとう。じゃあ、出発前になったらロビーまで連れてくるね」
そう言って、雫さんは他のお客さんへの食事の準備に戻っていく。
「……真樹、なんだかモテモテだね」
「まあ、怜次君のことなら偶然だよ。俺も最初は海に懐くものとばかり思ってたんだけど……海は小さい子供って好き?」
「ん~……いや、別に普通かな。多少の子守ならできると思うけど、他人様の子供だとやっぱり扱いは慎重にしないとだから大変だし、率先してはやりたくないかな。真樹は?」
「俺は正直苦手。中学の職場体験で保育園に行ったとき、俺が抵抗できないのをいいことに、そこの悪ガキどもにボールをぶつけられたり、バットで叩かれたり散々やられたから」
「あ~、そういうの」
なので、怜次君が例外なだけだ。もし彼がその時のような悪ガキだったら、多分、雫さんに対してもお節介なんて焼かなかっただろう。子は親の写し鏡なのだ。
その後はぱぱっと朝食を食べ終えて、帰りの準備をする。空さんのほうも帰り支度は出来たと連絡があったので、後は陸さんを起こして車に乗り込むだけだ。
しかし、俺たちが戻ってきた時、陸さんはすでに起きていた。
「おう、戻ったか」
「アニキ、起きてたんだ。せっかくいい目覚まし方法考えてたのに」
「……お前なあ」
「冗談に決まってんでしょ。真樹もいるし。……で、もういいの?」
「何がだよ」
「それは自分の胸に聞いてみなよ。ね、真樹?」
雫さんに何も言わなくていいのか、と海は聞いてるのだが、陸さんはまだ迷っているようだ。
言うかどうかではなく、何を言うかどうかで。
「怜次君が会いたいそうなので、俺たちは先に行ってます。陸さんも、着替えが終わったら来てください」
「……ああ」
ロビーで待っていることを伝えた俺たちは、自分たちの荷物を持って、1階のフロントへ。
今日、俺たちは休みだが、本来は平日なので怜次君はこれから幼稚園だ。なので、制服に袖を通している。
「怜次君」
「……」
俺のことを見つけてすぐに駆け寄ってくるかと思ったが、周りに人が多くいるせいか、今日は隣の雫さんの後ろに隠れてしまう。
こういうところ、本当に幼い頃の俺にそっくりだ。
「ほら怜次、おにいちゃんに、ちゃんとお礼言うんでしょ?」
「……うん」
雫さんに促される形で、怜次君が俺の前へ。同時に、俺の隣で手を繋いでいた海が、それを察してさっと一歩分俺から離れてくれる。
「おにいちゃん、ありがとう。また、あそぼうね」
「うん、もちろん」
「じゃあね」
それだけ言って、怜次君は通学バスの停留場までさっさと走って行ってしまった。
ちょっとあっさりだが、またいずれ会うことになるので、これで十分だろう。
友達との別れの挨拶なんて、だいたいこんなものだ。
「いつもはあんまり幼稚園に行きたがらなかったんだけど、今日は自分から『行きたい』って……真樹君、本当にありがとうね」
「僕はただ一緒に遊んだだけですよ。一歩踏み出したのは、怜次君自身の力です」
俺ができることは、せいぜい背中を押してあげることぐらいだ。
怜次君だろうが、陸さんだろうが、それは変わらない。
「……真樹、すまん、待たせた」
「いえ。……じゃあ、俺たちは外で待ってますんで」
「いや、お前たちはここにいていい。外はもう暑いから、俺が車を取ってくるまでここで涼んでろ」
つまり、見届けてほしいということなのだろう。
そう言えばいいのに、やっぱり陸さんも面倒くさい性格をしている。
「……素直じゃないんだから、このバカ兄貴」
「うるさい。お前はどっか行け、このバカ」
そして、
「……りっくん、兄妹喧嘩を見せるためだけに呼んだんなら、私もう行くよ? 一応、これでも忙しいんだから」
「! あ、すまんつい……とりあえず、二人とも自由にしてていいから」
ということで、俺と海のカップルは仲良くソファに座って見物させてもらうことに。当然、冷やかしたりはしない。
「……ごめん、しぃちゃん。昨日は、変な話しちゃって」
「別にいいよ。だって、私はりっくんの幼馴染なんだから」
「そうだな。幼馴染、だもんな。俺たち」
やはり、二人とも『幼馴染』のまま行くらしい。
それは当然、俺もわかっていたが、それで終わりなら、こうしてわざわざ仕事中の雫さんを呼び止めてまで、俺たちを見届け人にまでさせて、改めて話すようなことはない。
つまり、続きがあるということだ。
すう、と小さく息を吸って、陸さんが口を開く。
「しぃちゃん……あのさ、お願いがあるんだけど、話、聞いてくれるか?」
「うん。なに?」
「俺って、今、無職だろ? 自衛官になるって夢叶えたのに、環境に馴染めなくて、しまいには体壊して辞めちゃってさ。もうずっと実家に閉じこもって、ゲームばっかりでさ。体もなまっちまって」
「うん、そうだね。りっくん、ちょっとだらしない」
「っ……ちょ、いきなりお腹触るなって。くすぐったい」
「え~? でも、本当にぷにぷになんだもん。触っちゃうよ、これは」
くすくすと笑って、雫さんが陸さんのお腹のぜい肉をきゅっとつまんでくる。
だらしない、と言っていても、雫さんの表情は柔らかい。
「とにかく、本題に戻るけど……俺だって、このままじゃダメだってのはわかってるんだ。だから、なんとか職探しはしてるけど、前の仕事を辞めた後、結局何をやっていいのかわからなくて、それで今までずるずると」
辞めた経緯を聞いているから、俺としてはそれもやむなしかと思うが、だからといって、いつまでもこのままの状況が続くのも良くない。
だからこそ、ここで一歩踏み出す――じっと様子を見つめる俺には、陸さんの顔がそう言っているように思えた。
「しぃちゃん……俺のこと、ここで働かせてくれないかな?」
「え?」
陸さんからの予想外の申し出に、雫さんが口を半開きにさせて驚いている。
そして、それを隣で聞いていた俺たちも。
……陸さん、そう来たか。
「もちろん、こういうのはご両親に言うべきことだし、無理なお願いっていうのもわかってる。でも、まず先にしぃちゃんにそのことを伝えたかったっていうか……」
「う、うん、それはとりあえずお母さんに相談してみるけど……でも、ウチで働くってなると、住み込みか、みぞれお婆ちゃんの家にお引越ししないとだよ? 今のお家より随分不便になっちゃうし、お給料だって全然少ないし……それでもいいの?」
「構わない。……しぃちゃんと一緒に、ここで働きたいから」
「っ……」
それが、陸さんの悩んだ末に出した答えだった。
目をぱちくりさせて顔を赤くする雫さんをよそに、陸さんは、さらに続ける。
「俺、やっぱりしぃちゃんのことが好きだ。俺のバカのせいで一度はダメになっちゃったけど、それでも、やっぱり忘れられなかった。昨日の夜も言ったし、でももう戻れないよねって結論になったけど」
「そ、そうやろっ。りっくんがそう言ってくれるのは、私だって嬉しいけど……でも、私には怜次がいるんだよ? 私一人じゃないんだよ?」
そう、何度も繰り返すことになるが、やはり二人が恋人になるのに、切っても切り離せないのは怜次君の存在だ。
当人同士がよくても、怜次君にとって、陸さんは初めて顔を合わせた人で、まったくの他人だ。それでいきなり雫さんの恋人です、となっても、きっと戸惑うだけだ。
陸さんは、そのことを一体どうとらえているのか――それに対する陸さんなりの答えが、今しがたの『ここで働きたい』という申し出になる。
「多分、俺たちには時間が必要なんだと思う。10年以上離れてた気持ちを戻して、元の仲の良かったころの『幼馴染』に戻るためにも、そして、しぃちゃんと怜次君に信頼してもらって、その先に進むためにも。そのために、ここで一緒に働いて、時間をかけて俺のことを理解してもらいたいって……そう思って」
「つまり、りっくんは、私と怜次の両方のことを背負うってこと?」
「今はまだそんな器じゃないけど……いずれは」
雫さんの問いに、陸さんは頷きつつそう言った。
ふと、俺の隣のいる海が『ヘタレ』と陸さんに向かってぼそりと呟くが、しかし、口元のほうは綻んでいるように見える。
俺も、陸さんらしい答えだと思った。
「……どうして? どうしてりっくんはそこまで優しいの? 私、ひどいんだよ。りっくんのこと好きだったはずなのに、ちょっと優しくされたからって、他の人とあっさり……その、」
「言わなくていい。それは俺のせいで、しぃちゃんのせいじゃない」
「私だよ。りっくんが悩んでることなんて気づきもしないで、身勝手に告白して、傷ついて、結局何もかも失敗して、家に戻って……怜次だって、きっとこんなダメな母親――っ」
「――だから、言わなくていいって。本当にしょうがないやつだな」
今までの感情があふれ出しそうになっていた雫さんを、陸さんがそっと抱き留める。
「いいよ、別に。お前が本当はダメなヤツだったとしても、子供がいたとしても、そんなの関係ない。それでもいいから、俺はこうして頼み込んでるんだ」
「……いいの? 自分で言うのもなんだけど、本当にきついよ? 怜次、まだ夜に寂しくて泣いちゃったりするよ? 大泣きだよ? おちおち寝てられないよ? その状態で朝早くから仕事なんだよ? たまに問題起こして幼稚園から呼び出されたりするよ? それでも私たちのこと、背負ってくれるの?」
「うん。だって、俺たち『幼馴染』じゃないか。もちろん、『ただの幼馴染』じゃない。たった一人の『大切な幼馴染』なんだから」
「……りっくんの、ばか」
陸さんの腕に抱かれたまま、雫さんがすすり泣き始める。
雫さんも雫さんで、人知れず辛い思いをしてきたわけだから、それが溢れてしまえばこうもなってしまうだろう。
大人でも、俺や海といった『子供』のように泣きじゃくることだってあるし、それでいいのだと思う。
「なあ、海」
「……うん。あとは二人きりにさせてあげなきゃね。お母さんにもちょっと遅くなるって連絡しておかないと」
二人で手を繋いで、俺たちはロビーをあとにして外の空気を吸いにいく。
……あの場にいると、なんだか俺たちまで泣いてしまいそうだから。
「しかし、あのヘタレの兄貴があそこまで男を見せるなんてねえ……真樹、朝さ、トイレ行くふりして兄貴と話しに外出てたよね? なんて言って、あのバカの背中を押してあげたん?」
「本当に大したことは言ってないんだけど……」
そう前置きして、俺は、陸さんの背中を押した一言を、大好きな彼女に向けて告げる。
「――好きな人といると毎日楽しいです、って」
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