第14話 苺って、あの苺?

 ノノに連れられて、廊下の突き当たりの部屋に入る。

 どうやらリビングのようだ。

 暗い色の絨毯が敷かれていて、ロングソファがひとつと、1人掛けのソファが2つ。大理石のローテーブル、木製の花台。部屋の隅には籐のロッキングチェアとサイドテーブルもある。僕が暮らしていた東京のワンルームの倍はありそうだ。


 壁にはいくつもの額縁が飾られている。しかしそこに収められるべき絵画はなかった。本棚や巨大なガラスケースも、中身は空っぽ。


「座ってかよ」というノノの言葉に従って、僕はとりあえずロングソファの右端に腰掛けた。

 続いてノノも座る。

 なぜか僕の隣に。

 すぐに彼女は黙り込んだ。小さなあごに手を当て、正面を向いたまま、何か考えごとをしているようだ。


 逆に僕は何ひとつ考えることができなくなる。


 ノノのお尻はソファに少しも沈み込んでいない。まるで体重がないみたいに。豊かなボブヘアで半分以上隠された彼女の横顔。それを僕はちらちら盗み見る。

 沈黙。ちら見。沈黙。ちら見。沈黙。沈黙。沈黙。ちら見。


「あのー」


 勇気を出して話しかけてみると、くるん、と音がしそうなほどなめらかにノノの首が動いた。

 見つめ合う僕たち。

 可愛い。

 可愛い以外の語彙を奪われてしまった。

 可愛い以外の語彙を奪われている僕は、仕方が無いから空気中に浮遊するさまざまな元素から言葉を錬成し、奇跡的に文章のようなものを組み立てることに成功する。


「さっき言ってたって、人の名前……ですよね?」


 いま聞くことか? と自分でも思うが、僕は適切な会話をこなせる状態にない。

 それに、これだって聞いておかなければならないことの一つではあるのだ。


 蛇に呑まれたというさん。おそらくこの【つつの荘】に住む仲間だったはずだ。なのに、ここに戻ってから誰もさんに言及していない。


はたしかに人の名前だった。でも今は……もはや概念」というのがノノの答えだ。「まあ今のこの世界では、ほとんどのものが概念、て言うてかて思うよ」


 あからさまに意味が分からない。僕の心中を酌んでくれたのか、ノノが続ける。


は、たしかにここで生活しとった。でも、もう誰ものことは覚えとらん。誰かにの事ば聞いてみてん? みんな忘れとるけん」


 どういうことだろう?


「でも僕は覚えてますよ、さんの名前を。さんに会ったことがない僕が言うのも変な話ですけど」

「あんたは普通じゃかけんね」

 普通じゃない?

 僕はそこで、自分がまだ名乗ってもいないことが急に気がかりになる。

「あの、僕は三重野みえのといいます」

「三重野ナル。知っとるよ」ノノは小さく頷く。「あんたば連れて来るように、っていう神託は私が受けたけんね」

「神託」

「そ。私がここに呼んだとよ」

 そして僕は、彼女の名前を正式には知らないことにも、ようやく気づくのだった。

「あの、名前、ノノさん?」

 たどたどしい聞き方になってしまった。


 ノノは一瞬、鋭い目つきで僕を射抜く。あれ? 怒られる? と反射的に思ってしまったけど、彼女は無表情に両頬の上でピースサインをふたつ作った。


「イチゴタニノノでっす」彼女の目以外のすべてのパーツが、一瞬笑った形になる。

「イチゴタニノノ?」

 呪文か?

「よろしくっす」とノノ。ピースを解除し、真顔に戻る。


 イチゴタニノノ


 イチゴタニ・ノノ


「いちごたに? いちごって、あの苺?」

「その苺。それと谷底の谷で、苺谷。ノノは、温暖化の暖に、乃木坂とか乃木大将の乃。どうぞよろしくっす」


 苺谷いちごたに 暖乃のの


「本名?」

「芸名なんてあるわけかでしょ」

 暖乃が吹き出した。彼女が自然な感じに笑うのを初めて見た気がした。

 そのとき、ノックもなしにリビングの扉が開いた。暖乃が笑うと扉が開く仕掛けでもあるかのようなタイミング。顔をのぞかせたのは、風呂上がりの宇留賀まほろだった。

「ごはんできたみたいよ」

 言い終わる前に宇留賀は扉を閉めていた。

 ハト時計みたいな奴だ。

 部屋に取り残される僕たち。

 暖乃が立ち上がった。

 そして僕を睨むように言う。

「食堂ではカレー以外のものを食べんようにして。アレルギーとかなんとか言うて。もし食べてしもたらね、あとで吐きなっせ」

「え、なんで?」


「ここにいる人間で信用しても良いのは、私と、シオだけ。それだけは忘れんごつ。ね?」

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