第51話 1杯の珈琲。その1

……コトン。


「……どうぞ」

「ありがとうございます」


由樹の弟さんが、お茶と茶菓子をテーブルの上に置いた。

そして俺の目の前に座ると、静かに溜め息を吐いたのが分かった。


さっきまでの生活音がパタリと止んで、聞こえるのは時計のカチカチという音のみ。

他に聞こえるのは、時折……外から来る風だけが、部屋の戸を少し揺らして音を立てているだけだった。



「改めてご挨拶させていただきます。私は、お姉さんの由樹さんとお付き合いさせていただいている、桜井蓮斗です」


「ご丁寧にありがとうございます。私は伊藤健太郎です。あの……私が聞いていたのは、桜井さんは姉がお世話になっている、職場の店長だと」


弟さんは、俺が由樹の恋人だということに物凄く驚いていた。

姉に恋人がいると、弟っていうのはこんな反応をするものなのか?

かなり動揺しているのだが……。


それより、師匠が何か先方にそれなりに情報を入れてくれていると思っていたのに……大事な事は知らせていなかった事実に、俺が驚いているけどな。



「申し訳ありません。確かに私は由樹さんが働いている職場の店長をしています。そして、由樹さんとお付き合いもさせていただいております」


俺は真っ直ぐ弟さんの目を見て話した。

だが、俺が話をし終えると……視線を外し、そのまま目の前に置いた自分の湯呑みを見つめていた。


「……姉さんは、今何処に?」


「近くにいます。ただ……」


この土地に来てから、何かに対して恐怖感を抱いていた……とは言えないな。


「この家には帰りたくないと……言っているんですね?」


「……いえ。来た道を戻りたいと言っていました」


半分当たりで、でも少し意味が違う。

由樹は、この家の事は気掛かりだと思う。

何年も帰っていないのだから、そうなるのは当たり前だろう。

だが、何かに遭遇してしまうのを恐れている……そんな気がした。



「はぁ……」


何故、ここに来てしまったのかな……。


見覚えのある景色だったけど、蓮斗さんがこの駅に降りるとは思わなかったから……そのまま黙ってついてきてしまったのがいけなかったんだ。


帰りたくても帰れない場所。


誰かにあったらどうしよう……。


でも、蓮斗さんに待っていて欲しいと言われたから、黙って帰れないし……困ったなぁ。



ここにいたのは高校に通っていた時までだったから、もう何年も経っている。

駅舎が少し色落ちしたくらいかな……変わったところは。


変わらないのは、私の心の中の傷……。

やっと治ってきたのに、ここに来てしまって……また傷口が開いてしまいそう。


ここにいたら、私がどうにかなりそうだった。

だから、逃げ出したのに……。



「……由樹さん!貴女……何故ここにいるの!?」


大声と共に、目の前にいる女性がいる。凄い形相で私を睨んだ。


バシッ……。


突然の事で、思考が追い付いていない。

気が付くと……私の頬が熱を帯び、じんわりと痛みが増していた。



痛い……。

何故、私が頬を叩かれなくてはいけないの?

私、何もしていないのに……。


『オネガイ、コナイデ……!』


私の心が叫んでいた。




「……由樹!?」


「桜井さん、姉がどうかしましたか?」


……今、由樹の声が聞こえた。

嫌な予感がする……。



「すみません。今日はこれで失礼します」


俺は健太郎君に手短に挨拶をすると、玄関を飛び出した。


さっき聞こえたのは、悲痛な叫びだった。

もし……由樹に何かあったのなら、俺は一生自分を許せないだろう。

無事でいて欲しいと願いつつ……俺は必死で由樹の元へと走っていた。



「由樹!」


駅に近づくにつれ、ホームでうずくまる由樹の姿が見えた。

俺の声が聞こえたのか、ピクリと体が動いた。



「由樹、大丈夫か!?」

「……蓮斗さん」


どうしたんだ?

由樹の顔色が、凄く悪い。

ここに居させるべきでは無かったのか……。



「姉さん!大丈夫!?」


「……健太郎さん」


健太郎君は、俺が慌てて出ていったから気になって後を追ってきたらしい。

気付くと、由樹の隣に座っていた。



「とりあえず、待合室に運びます。すみませんが、駅員さんに声を掛けてきてもらえますか?」

「わかりました」


駅員さんならば、何か救護の為のものを持っている筈だ。

たぶん、心身的なものだろうし……。

もし、悪化しそうならば近くの病院で診てもらうしかない。

俺は健太郎君に指示をすると、駅の待合室へと由樹を抱えていった。



「大丈夫か……?」

「はい、ご心配をお掛けしました」


待合室で由樹を寝かせようとしたが、もう大丈夫だと笑顔で言われた。


よく見ると、由樹の頬が赤く腫れていた。

俺は近くに来てくれた、駅員さんに言って保冷剤を貸してもらい、由樹に渡した。


「ちょっと、柱にぶつかっちゃって……」


と苦笑していたが、いくら天然な由樹でもこの腫れ方はあり得ない。

ボーッとしてぶつかっても、ちょっと赤くなるくらいで治まるだろう。


俺は、由樹が誰かに叩かれた……としか思えなかった。



「姉さん、家で休んでいって下さい。顔色も悪いですし……」


「健太郎さん……私は大丈夫です。だから、もう家に帰った方が良いですよ。奈都子さんが心配しますから」


由樹は、弟を名前で呼ぶんだな。

でも、奈都子さんって……弟の彼女か何かか?


「でも……」


健太郎君は、由樹が心配だから側にいたいと言っている。

だが、由樹は健太郎君を帰したがっていた。


俺は……この時、何かを察した。

だが、これは言うべきではないと……もう1人の俺がブレーキを掛けた。



「健太郎君、俺が由樹の側にいます。貴方は待っている方がいるようですし、家に帰った方が良いですよ」

「わかりました。桜井さん、姉さんを頼みます」


健太郎君は由樹に強い眼差しを向けた後、名残惜しそうにこの場を去っていった。


由樹は健太郎君が去った後、声を出さずに泣いていた……。



「もう落ち着いたか……?」


「はい」


俺は由樹が泣いている間、黙って抱き締めていた。

そして、俺は後悔していた……。

自分のわがままでここに来てしまい、そして由樹を傷付ける事になってしまったのだ。


俺ならば由樹も大丈夫だろうと、勝手に変な自信を持っていたんだ。


……最低だよ。



「由樹、ごめん。黙ってここに連れてきて……本当にごめん」


「……良いんです。久しぶりに来て、やっぱり私は来るべきではないと改めて思いましたから」


由樹は俺がした行為を責める事をせず、ただ苦笑していた……。



「由樹、何か食べに行かないか?腹が減っていないなら止めておくが」

「いいえ、落ち着いたら……私もお腹が空いてきました」


そうか、良かった。

せっかくこの土地に来たんだし、何か腹ごしらえでもしてから帰ろうと思っていたんだ。

定食屋なら近くにあるし、そこで良いだろう。

食べ終わったら……一緒に、俺達の家に帰ろうな?



「……あの、もし違っていたらすみません。もしかして、伊藤健二さんの娘さんですか?」


俺達が駅舎から出ていこうとした時、先程お世話になった駅員さんが、由樹の顔を見てそう訊ねてきた。


「はい、そうです。あの……何故、ご存知なのですか?」


由樹は自分の父親の名前を知っているのか、不思議に思って駅員さんに聞き返した。



「やはりそうでしたか。先程一緒に居たのは……息子さんでし、貴女が『姉さん』と呼ばれていたのでもしかしてと思いまして」

「あ、はい。血は……繋がっていませんけれど、先程の男性は弟です」


そう言えば……健太郎君は父親の再婚相手の連れ子だと、師匠が言っていたな。



「健二君が以前……私に話してくれました。再婚して息子が出来たと。これで娘も寂しくないだろうって……」


「そうでしたか……」


由樹は、どんな思いで駅員さんの話を聞いていたのだろう。

長い間離れていた実の親子だもんな、複雑な心境なんだろうな……。

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