第16話 別れの冷たい涙と、珈琲の香り。その3

ホテルへまでは、あっという間だった。

運転手さんの気持ちが優しくて、もう少し乗っていたい気分だったのに……。

歩くと時間はかかったけど……車だもんね、当たり前か。

ホテルに着くと、宗助さんが笑顔で出迎えてくれた。


「由樹、濡れちゃったね……着替えようか?」

「ううん、大丈夫。それより、この雨では交通機関が麻痺してそう」


だから、ここで天気の様子を見ないと……。


「うん、そうなんだよね。さっき天気予報を確認したんだけど、あと2~3時間は無理みたいだ」


そっか……。

ここにいるのが長いと、待った分だけここを離れるのが辛くなりそう……。


「天気相手ですもんね、じっと待つしかないですし……」


宗助さんの前では明るく振る舞うけど、本当は泣きたいよ……。

今更だけど、やっぱり皆に挨拶しておけば良かったなって……そう思い始めてきた。


「あそこに……先輩がいる」


……先輩?

えっ、蓮斗さんが!?


「何処ですか?せっかくだから……挨拶しておこうかなって」

「あそこだよ、ニーナさんと一緒にいる。でも、何だか険悪な雰囲気だな……」


あっ、本当だ……エレベーターの前で、真くんを連れた仁奈さんと蓮斗さんがいた。

蓮斗さんは仁奈さんの腕を掴んで、怒りながら引き止めているようにも見える。


「大丈夫かな……」


あっ、ここまで怒鳴り声が聞こえてきた……。


「仲が良くても、喧嘩はするよ。でも、真くんが側にいるのに……良くないよね」


喧嘩なのかな?

仁奈さんが、蓮斗さんを責めている様に見えた……。



「私、止めに行ってきます」


「行ってどうするんだ!?」


宗助さんは私に行くなと言っているけど、蓮斗さんがあんな怒り方するなんて……普通じゃないもの。


きっと、何かあったんだ……。


「わからない……。でも、宗助さんはここで待っていて下さい」


「由樹、行くな!」


私は、宗助さんの言葉を聞かず……蓮斗さん達の所へと歩いていった。



「嫌よ、私はここから居なくなるの!」


ホテルのエレベーターの前で仁奈を見付けた俺は、何処へも行かせないようにする為、仁奈の腕を強く掴む。

側で見ている真は、仁奈の大声に怯えている。

俺は真が恐がらないように、声を落として仁奈に話し掛けた。

だが、それも無駄みたいだ……。

仁奈は全く気が付かないんだよ、呆れるな。


「仁奈、落ち着け……真が恐がっている。光から聞いたが……真を置いていくなんて、可哀想じゃないのか?お前の子だろ!?」

「置いていくなんてしないわ!暫く預かってもらうだけよ!」


はっ!?

暫くって、お前の言う期間なんて当てになるか。

待つ人の身にもなってみろ!


「……仁奈、今までのお前なら勝手にしたら良い。だけどな……生まれてきたこの子は、それで幸せになれるのか?」


置いていかれたこの子は、居なくなった母親を求めて泣くんだぞ?

そして帰ってこないと悟った時、仁奈を……母親を憎むだろう。


「私を捨てた蓮斗には、私の気持ちなんてわからないわ!私は、誰からも愛されないのよ?どうして……私を愛してくれる人がいないの!?」


はぁ……。

ダメだ、全く話を聞かない。

話が噛み合ってないんだよ……。

それに、捨てたって言われてもな……仁奈が勝手にそう思っているだけだろ。

別れたあの日……いや、仁奈が出て行った日、俺は森で道に迷った女性に、道案内をしていた。

その女性の彼の家が、1つ先の道にある隣の森の中だったからだ。

それを他の女性とデートしていたとか、前から怪しかったとか責め立ててきた。

何度説明しても聞く耳を持たず、仁奈は俺の元を去っていったんだよ。

でも俺は、追い掛けなかった。

仁奈のワガママに、疲れていたのかもしれない。



「仁奈……。私、私って……そればかりだな。真の気持ちや、お前の周囲の人達の気持ちを考えた事あるのか?」

「人の気持ちって何よ?私は……いつも独りよ。私には誰も居ないじゃない!」


そうだな……。

仁奈はこういう奴だった。

実家が金持ちで、親が仁奈を姫扱い……欲しがるものは何でも買い与え、嫌がることはさせなかった。

こうしてワガママに育ってしまった仁奈は、関わった人間を振り回し、女王の様な扱いを求める。

それが当たり前になってたんだ。

だから、自分の思い通りにならないと小さな子供の様に暴れて、落ち着くまでどうにも出来ない。

俺がどれだけ大変だったか……。

これさえ無ければ、良いんだけどな。

それから俺は……あのオヤジさんの店で初めて由樹に出逢った。

高校生だったからか瞳がキラキラと輝いていて、何ともいえない愛らしさに目を奪われた。

そして自分よりも他人を思いやり、人に辛いところを見せようとしない健気なアイツに……俺は惹かれた。



「仁奈、よく聞け。この天気では真を連れて外に出られない。お前には真の父親が居るだろ?そいつとしっかり話し合え。それからでも、遅くはないだろう?」


「……真の父親?」


あぁ、そうだよ。

真の父親が、お前を求めているんだからな……。


「本当は、俺じゃないんだろ?」

「な、何を言っているのよ……真の父親は、蓮斗だって言ったじゃない!」


仁奈、本当なら……何故、そんなに焦っているんだよ。

はぁ……。

いつまでその頑固を貫き通すんだよ。


「蓮斗さん、ちゃんと父親だって認めてあげて下さい!ニーナさんが可哀想です!」


「由樹!?」


何故、お前がここにいるんだ!?

仁奈を説得するのに一生懸命だった俺は、由樹の突然の登場に驚いていた。


「ニーナさんは、蓮斗さんに会いたくてここまで来たんですよね?真くんにも、お父さんがいるって教えてあげたかったんですよね?それなのに、酷いです!蓮斗さん……お願いです、ニーナさんを拒絶しないであげてください!」


「由樹ちゃん……」


仁奈は由樹の言葉で喚くのを止め、由樹は綺麗な瞳から大きな涙を流し、その場を動かなかった。


……由樹。

お前がそんなに泣くことは無いんだ。

仁奈の為に、お前のその心を痛めるな……。

俺は由樹の側に近寄り、ポケットのハンカチを差し出した。

だが、それを受け取らず……自分の手で涙を拭い、精一杯の笑顔を俺に向けてきた。


「……私の事は、構わないで下さい。私は……これで失礼します。今日、宗助さんと……故郷に帰りますね」


……そうか、今日帰るのか。

由樹が目の前にいるのに、お前との距離がこんなに遠い。

悲しみで胸がこんなに苦しくなるなんて、俺は由樹にどれだけ惚れていたか、今更だけど実感してしまった。


「由樹、仁奈と真は大丈夫だ。だから、安心して宗助と行け」


そして、幸せになってくれよ……。

そうじゃないと、俺のこの気持ちの行き場が無い。


「本当に、大丈夫なんですか?」

「あぁ、大丈夫だ。由樹は心配しなくて良いから」


だから、これ以上ここに居るな。

俺が……お前を連れ去ってしまいたくなる。



「由樹、天気も落ち着いてきたよ。そろそろ行こう」

「えっ……。あ、はい」


宗助が、由樹を迎えに来てしまった。

本当にこれで……コイツと会えるのは最後か。

俺は無意識に伸ばしかけていた手を……ゆっくりと降ろした。


「宗助、由樹を頼む」

「はい、勿論です」


随分と逞しく、そして男らしくなったな……。

由樹が惚れる訳だ。

由樹は再び涙を拭き俺達に深々とお辞儀をすると、宗助と共に行ってしまった。


ふぅ……。

何だか……ここにいるのも虚しくなってきたな。

だが、仁奈と真の事は解決させないと。

由樹との約束だ……それだけは果たさなくては。


「……仁奈、さっきの続きだ。質問を変えて聞くぞ。……真の父親に会いたくはないのか?」

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