第29話 宝亀二年 姉の憂さ晴らしと摂津行幸の事

 年が明けたが、官人としては身分回復していない。おかげで正月早々の朝賀には参列せず、うんざりするほど続く節会せちえの行事にも出ずに済む。

 地方でも郡衙ぐんが(郡の役所)や大領たいりょう(郡司の長官)の屋敷では、規模こそ違え同様の行事が行われる。私も嫡男として、十を過ぎた頃から父に従ってあちらこちらに出入りした。それゆえ、正月に何もせずに家で過ごすなど、子供の時以来だ。

 正月節会は先帝の諒闇りょうあんを受け、かなり縮小して行われた。先帝の定めた悔過けか法要などは、当然ながら廃止になった。大極殿の高御座たかみくらの周辺から僧衣の姿は消え、官人の列の先頭には、濃紫の朝服姿が目立つようになった。その至極当たり前の光景に安堵を覚える。何年か先には、高官の列の最前線に皇太子ひつぎのみこが立つだろう。様子を教えてくれた知己らは期待する。


 節会の後に顔を見せに来た、元同僚らの話によると、左大臣らの強い賛同により、他戸親王おさべのみこの立太子が確実になったらしい。予定では二十三日に立太子式が行われ、春宮坊とうぐうぼう(皇太子の生活を司る役所)の人事も発表になるという。

 当然ながら無位無官の私は参列出来ない。式の後にやって来た船守ふなもりらの、恒例の愚痴を聞いて様子を想像するだけだ。何にしろ、式自体は滞りなく済んだ。


 家にいると日の経つのが遅い。ようやく二月になった日、姉の広虫ひろむしが訪ねて来た。

 私が大隅国に流罪になった時、還俗を命じられた姉も備後国へと配流先が告げられた。だが、手前の備前で病気だと称し、藤野郡ふじののこおりの実家に留まっていたという。その辺りは、坊主に反発した左大臣の采配に寄る所らしい。

 そして、昨年の九月には帰京命令が出て、戻って来るが早いか、従五位下の位を賜った。井上内親王いのえのひめみこの口利きで後宮勤めに復帰し、正月節会にも忙しく走り回っていた。

 このようにして和気公わけのきみ広虫に戻った姉は、再び尼僧になる気はない。先の女帝みかどの出家に従ったので、女帝亡き後には意味がない。亡き夫の菩提を弔う事は、俗人のままでもできると言う。

 ところで姉が何をしに来たと思いきや、やはり愚痴が目的だった。

 何でも来る二月十二日、難波宮なにわのみやに行幸が行われる。そこで八十島祭やそしままつりを行うのだと、吉備右大臣は張り切っている。実に聖武皇帝しょうむこうてい以来の事だ。ところが、祭りの詳細は住吉社に残されていない。式次第だけはあるので、それに従いはするがと関係者は頭を抱える。識者が寄り集まり、段取りがほぼ決まったところで、日取りが間違っていると右大臣が言い出す。

 古記録によれば、大嘗おおなめ祭の後の春が相応しいの云々。白壁天皇しらかべのすめらみことの即位は昨年の十一月だったので、大嘗祭は今年の秋に行われる。そのような訳で、八十島祭は来年に日延べするべきだ。

 大方の支度が進んでいる、今更、変更する訳にも行かない。北家左大臣が意見を退けようとする。しかし右大臣も折れようとしない。いい年をした最上臈二人の喧嘩が始まる。対応に苦慮した太政官は、次第を天皇に上申した。

「既に神祇官は、住吉の神に祭りを行う旨を報告している。行わぬ方が不吉ではないか」

 このように一喝されたと、姉は我が事のように誇らしげに言う。さすがは太政官出身の御方だけある。一同、安堵した。


「御存知かしら、御身おみ。右大臣が昨年の十月に一度、致仕の願いを出された事」

 何やらうんざりした様に姉は話を続ける。

「いいや、知りませぬ。理由は、先帝崩御に伴ってですか」

 私も内心、辟易しながら話に付き合う。

「表立っては、そうでしょう。既に骸骨を乞う御歳も過ぎておられるし」

「では、本心は別にある。もしかして、今の天皇に何か含む事でも」

「あったとしても、声高に言うべき事ではないと御思いなのでしょう。その類の節度には厳しい方ですからね」

 先帝の遺勅の枕辺には、右大臣もいたと聞いている。即位も決まった今更に、浄御原帝きよみがはらのみかどの末の、近江帝おうみのみかどの末のという問題を蒸し返しはしないだろう。

「でも、その後が傑作というか、然もありなんというか」勿体ぶった視線を寄こす。

「傑作、ですか」

「天皇が直々に、引き留める旨の書状を賜ったそうです。大臣おとどの皇族好きは有名でしょう。我ながら、捨てたものではないとか何とか、内心では満悦しておられるとか。由利ゆり様が言われていたので、確かな情報ですわよ」

「まあ、確かに……」気の利いた返答が思いつかず、曖昧にうなずく。

 確かあの父娘は、昔から仲が悪いと聞く。父親は家族に無関心で、娘が一方的に父親を嫌っているらしい。

「内心は嬉しくて仕方がないのに、口では既に引退したも同然だとか何とか。太政官でも、四六時中零しているそうです。傍から見ると、かなり滑稽に見えるからやめて欲しい。由利様、頭を抱えておられましたわ」

 姉が世間話や愚痴をこぼすのは、別に珍しい事ではない。だからと言って、職務上で知り得た重要事項などを不用意に漏らす事は殆どない。それは身内ながら、大したものだと思う。

「宮中も忙しそうですね。皇后も内裏に入られて、後宮の規模も再び拡大したのでしょう」私は何となく、話の方向を変える。

「ええ。皇后宮職こうごうぐうしきの御偉方は決まっても、組織自体が円滑に動いているとは言えない状態です。若い子たちに仕事を覚えさせるためにも、もう少し習熟した人員が必要ですね。だから、私のような者も早々に復帰できたのでしょうけれど」

 女帝の時代が長かった弊害の一つだ。坊主はいなくなったが、有能な内侍ないし(女官)が足りない。

「人手が足りないのは、衛府も同じでしょう。衛府を牛耳っていた弓削ゆげ氏が一掃されて、兵部ひょうぶ省は人事改正に忙しい最中ですから」

「船守らも同じ事を言うていました。衛府は勿論だが、兵部省や式部しきぶ省、何よりも上に立つべき中務なかつかさ省に、もっと仕事のできる人材を投与すべきだ何のと」

「御身も遠からず、嫌でも復帰させられますよ。皇后宮職こうごうぐうしきも春宮坊も、近衛府や中衛府からの出向者をかなりの数、出していますからね」

 そうなってくれる事を願ってはいるが、もう少しゆっくりしていたい気もする。筑紫の南の端で、責任も負わない暢気な仕事の補佐をしていたせいか、変な怠け癖がついてしまったのかもしれない。


 私としては大きな出来事もないまま、難波宮への行幸の日がやって来る。近衛府にいたなら、家に替える間も惜しんで、準備に奔走しているだろう。近衛将監の紀船守きのふなもり藤原種継ふじわらのたねつぐらは、まさにそういう状況だ。

 姉も皇后おおきさき付きの命婦みょうぶ(上級の女官)として同行する。不慣れな若い者が多くて大変だと、嬉しそうにしていた。しつ女孺めのわらわ(下級の女官)の一人として付き従う。こちらも古強者なので、零す愚痴は姉と同じだ。

 留守官には左大臣の藤原永手ふじわらのながてと、大納言の大中臣清麻呂おおなかとみのきよまろが命じられる。内裏の留守を預かる名目で、皇太子も残るのかと思いきや、その役は山部親王やまべのみこに回って来た。女帝の御代、頻繁に行われた行幸には、親王も侍従の一人として付き従っていた。勝手を良く知るこの人が留守官なのは、難波宮に行くよりも山積した仕事を片付ける方を優先したためらしい。

 行幸の先は比較的近いが、天皇即位に伴う行事なので規模は大きい。多くの者が出払い、平城宮内は静かだろう。

 何にせよ、未だに自宅で蟄居の私には、少しばかり遠い世界の話に聞こえる。


 行幸の列が出かけた三日後の十五日夕方、家の手入れにも飽きたので、宅司いえつかさを伴って散歩に出た。その時に、朱雀大路すざくおおじを早馬らしき二騎が下って行くのを見た。

「あの急使は、難波宮に行くのか」

「宮内で何かあったのでしょうか」宅司はやや警戒気味に言う。

 難波までなら早馬は一日かからない。案の定、翌日の午後、家の者が朱雀大路を北上する早馬を見たという。この時には、私の元にも左大臣危篤の一報は届いている。

 そして二十二日の早朝、またも早馬は都を出て行った。午前中、私の元にも左大臣薨去の一報が届く。

 後に聞いた話では、早馬の使者は生駒の峠を越えた辺りで、都へ戻る行幸の列と落ち合った。行幸に付き従う者らの言うには、帰路の途中にある竹原井行宮たけはらいのあんぐうで不吉な事があった。未明に行宮を出発しようと列を整えた途端、風もないし物が当たった訳でもないのに、御前次第司の掲げる旗の竿が折れた。そして誰からともなく、左大臣が亡くなったのだと言い出す。これを受け、行幸の列は日の出を待たずに帰路を急いだ。


 藤原朝臣永手という人は、藤原氏の最上臈であり、官界での最高権力者だった。白壁天皇とは年も近く、若い頃から懇意にしていたと聞く。この人の薨去が官界に落とす影は、決して小さくはなかろう。

 これより太政官の新たな人事が動き出し、藤原氏の内でも次の上臈を巡っての争いが表面化するだろう。上が動けは下も大きく影響を受ける。この騒動で、私の復帰がどうなる事か、少なからずの不安が頭をもたげて来る。


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