第28話 宝亀元年 親王たちの立場

 高千穂たかちほの峰々が紅葉する頃、都への帰路に着く。達者な船乗りならば、日向ひゅうがから出て四国の南側を通り、熊野に着いた後に難波へと向かうのが近道だという。しかし、外海ともなれば潮の流れも速く、遭難すれば命の保証もない。定石通りの日数をかけて、内海を行く航路を取る。

 懐かしい島影を見つつ、難波津に着いた時、畿内は紅葉が終わりかけていた。そして年の改まる前に都に入り、妻子にまみえる事もできた。何処いずこの神仏に例を言い祈るべきか、とにもかくにも有り難い。


 屋敷に戻った翌日、兵部省と近衛府の者が訪ねて来た。近い内に天皇すめらみことの名代として、人が遣わされる。それまでは自宅で待機し、不用意に出歩かないようにと沙汰された。

 それにしても、天皇の名代とは何とも大袈裟だ。大隅国でもらった帰国の命令は、皇太子ひつぎのみこの名前で出されていた。即位の礼は、私が筑紫を出る少し前の十月一日に行われた。神護景雲じんごけいうん四年は宝亀ほうき元年に改まり、皇太子は既に高御座たかみくらいている。

 私のいない間の家は、決して侘しい状態ではなかったようだ。一年程度の不在で済んだので、貯えを食いつぶすような事はなかった。なにしろしつが仕事に復帰しているので、それなりの収入もある。

 更には、警戒を兼ねて船守ふなもり種継たねつぐが、度々人を寄こしたり、自らも訪ねてくれた。そのためか罪人の家という雰囲気もなく、室の同僚らも気軽に顔を出していたらしい。私自身が地方赴任の気分で過ごしていたのだから、それはそれで大いに結構な事だ。このような能天気な遠流も滅多になかろう。


 そして天皇の名代は、翌日にやって来た。思いがけない人の名前を聞いて、自ら家の門に出迎える。

「そうか、種継でも船守でもなく、私が最初か」何故なのか満悦気味に、侍従の山部親王やまべのみこは言う。

 この人は十一月六日、みことのりを受けて四品しほん親王となった。宮内で会ったのなら、親王の濃紫の朝服を着ていただろう。しかしこの日は、内舎人うどねり時代よろしく、真っ黒な衣で現れた。おまけに土産だと言って、女子供の喜びそうな菓子や果実を一抱えも帳内とねり(皇族に就けられる公的な従者)に持たせている。これでは天皇の名代というよりも、殆ど個人的な訪問だ。

 賜り物は家人らに任せ、自ら主殿へと案内して庭へと回る。

「本当に親王みこ様が、このような下々の屋敷に御出でになられたのですか」

 女部屋の方向から大袈裟な声が聞こえ、室が息子や乳母めのとを連れて姿を現す。私や宅司いえつかさと共にいる客人に気付くと、口を開けたままの顔で立ち止まる。まさか本人と鉢合わせになるとは思わなかったのだろう。我が伴侶ながら、容姿は人並みだと思う。しかし、この時の顔は相当に間抜けていた。

「御内室にあられますか」親王は余所よそ行きの言葉で問う。

 室はといえば取って付けたように狼狽うろたえ、三歩も後ずさって深々と頭を下げる。供にいた乳母らも、女主人に合わせてぎくしゃくと低頭する。

「申し訳ありませぬ、落ち着きのない者らで」取り繕うように言ってしまって後悔する。絶対に後で室に怒られる。

「一年ぶりのあるじの帰京ともなれば、家の者、誰でも喜ぼう。そのようなところへ押しかけて、こちらこそ申し訳ない」

 相変わらず、平気で頭を下げる。親王になったとはいえ、内舎人からの官人生活が長かったため、年長者や目上の者にへりくだる事に違和感を持たないのだろう。社交辞令など、日常会話のように造作ない。

「このような庭先で御引止めしては、何の持て成しも出来ませぬ。室も後ほどに改めて挨拶に参ります。どうぞ、奥へと御通り下さい」

 こう言っておけば、室も恨みがましい事は言うまい。

「ああ、そうさせて頂こう」

 私などが相手なので気が楽なのか、この人の立ち居振る舞いは、近衛少将の頃と変わらない。


 私に対して、今はまだ具体的な沙汰はない。身分や官職への復帰は、遠からず必ず行うと約束し、ねぎらいの言葉を置いて山部親王は帰って行った。

 更に同じ日の夕刻、紀船守きのふなもり藤原種継ふじわらのたねつぐが揃ってやって来た。平城ならは筑紫よりも寒かろうと、従って来た資人とねり(公から上位官人に配される従者)には酒壷を抱えさせている。

 酌み交わしながら留守中の様子を二人から聞き、適当に上機嫌になったところで、私の奇妙な遠流譚となる。

「しかし知らなんだ、御身の伯父上という御方は、筑紫では英雄なのだな」

 草野津かやのつで危機に遭遇し、楉田しもとだ氏に助けられた事に話が及ぶ。

「そのように思うてくれる者は、少数派やもしれぬ。むしろ、悪人極まりないという者の方が多かろう。楉田氏と式家は持ちつ持たれつの関係だ。むしろ筑紫では世話になっている。何らかの形で恩を返したいと、叔父上らも思うているのだよ」少しばかり複雑そうな表情で種継は言う。相変わらず、酒が顔に出ない男だ。

「御身ならば、豊前守ぶぜんのかみ大宰大弐だざいのだいににでもなって、直接に例を言いに行けば手っ取り早い」船守は相当に酔った目つきと上機嫌で提案する。

「豊前守か。俺もいずれは望めそうな役職やもしれぬな」私は横から言う。

「地位が回復すれば、そう遠い話でもなかろう。御代も替わり、我々にも日の当たる時が来る」種継は大真面目な顔で言う。

「そうだな。若翁わかぎみなどは、四十になる前に参議入り間違いないと、もっぱらの評判だ」船守はやはり機嫌が良い。

 二人とも中央の権門出なので気軽そうに言うが、地方出身の私にはそれほど容易い事には思えない。

 ところで近衛府の者らは、山部親王を若翁とあだ名で呼ぶ。親王が近衛府に着任した時、乳母子でもある種継が、人前でその呼び名を連呼した事に起因すると聞く。

「しかし、難波に着いた時に多少とも詳しい状況を聞いたが、驚く事ばかりだ。本当に女帝みかどの遺勅で、この度の即位となったのか」

 私の能天気な苦労話は途中だが、酒も回って語るのも面倒になった。平然と話の腰を折って、現在の状況を聞く方に戻す。

「遺勅なのは間違いない。左右の大臣おとども口をそろえて言うておるゆえ」今度は神妙な口調で種継が言う。

 今、高御座に即いているのは、山部親王でも他戸親王おさべのみこでもない。二人の父親である、六十二歳の白壁王しらかべのみこだ。それを聞いた時、私は驚くよりも何となく納得した。

御方おんかたは崩御の前日、大殿おおとのを枕辺に召して、個人的な話をされたそうだ。その時に共にいたのは尚蔵くらのかみだけだった。その後、左右大臣を呼んで遺勅を賜れた」

 種継の言う御方とは女帝、大殿は白壁王、尚蔵とは右大臣の娘の吉備朝臣由利ゆりの事だ。

「これはもしかして、くだんの神託とやらに基づくのか」船守がさりげなく問う。

「済まぬが、俺の口からは言えぬ事だ」しかつめらしく私は答える。

「まあ、そうだな」常識のある友人はうなずく。

井上内親王いのえのひめみこ皇后おおきさきになられたのは道理だ。ゆえに、今の流れでは皇太子ひつぎのみこ他戸親王おさべのみこになろうな」種継の表情が硬くなる。しかし、と言い添えたい言葉を飲み込んだのだろう。

 白壁天皇しらかべのすめらみことが誰を皇太子に望んでいるのか、この男にして知らないはずもない。

粟生江女王あおえのひめみこが皇太子妃か」私は聞く。

「それが最も確実だろう。だが、他戸親王が十五歳になった時点で、あちらこちらの家が息女を妹御をと、名乗りを上げて来ような」

 他戸親王を皇太子に選び、粟生江女王を妃とし、行く行くは皇后にまでしよう。かつて女帝が、山部親王にした口約束だと聞いた。この事も遺勅に含まれているのだろうか。

「実を言えば、我が式家もその内に入る。叔父の媛御ひめごで、他戸親王と同年代が何人かおる。それどころか南家や北家も、手薬煉てぐすね引いておろうよ」

「藤氏に限った事ではない。我が紀氏きうじとて、年頃の娘のいる家は、何やかやと色めきだっておるわ」

「そうなると山部親王の立場は、権門にとってはかなり微妙なのだな」

「ああ。いずれは親王との外戚争いが起きても不思議ではない。しかし、叔父御にしても俺にしても、それは避けたい」

 種継の言う叔父御とは、雄田麻呂おだまろ改め百川ももかわの事か。確か他戸親王と年の変わらない娘が二人いる。

 式家の家長、伯父の宿奈麻呂すくなまろも白壁天皇から良継よしつぐという、当世風で垢抜けた名前を賜った。種継の言うには、本人も周囲の者も、未だ呼びなれなくて戸惑い気味らしい。

「だが、他戸親王が成人するのは四年後だ。それ以前に別の争いが起きぬとも限らぬ」種継は独り言のように言う。

「左右大臣らは、他戸親王以外の立太子は視野に入れておるまい。紀氏としても、この後の皇統の安定を願うているゆえ、争い事は望まぬ。とは申せ、俺個人としては御身おみと同じ考えだ」

 そして二人は、揃えたように私に顔を向ける。やはり二人とも、宇佐八幡神の神託の内容を知りたいのだろう。大方の高官は、神託が皇嗣に関わる事だと気付いているはずだ。

「御身らが誰を推したいのか、天皇が実は誰を望んでおられるのか。俺も分かっているつもりだ。ここだけの話で済ませるのなら、俺としても十一歳の親王よりも、遥かにふさわしい年齢の親王を望んでおるよ」

 船守はうなずいて苦笑し、種継も小さく笑ってあらぬ方を向く。我ながら、つまらぬ誤魔化し方をしたと思う。



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