第26話 神護景雲三年九月 豊前国京都郡 大領の屋敷
広い敷地だ。
道の先には更に門が見えて来る。この先が主の
「先ほどの輩に見覚えはありますか」馬首を寄せて来た楉田
「いいや。しかし、ただの不逞の輩ではないだろう。衛府とは言わぬが、ある程度の訓練を受けているように見えた」
「案外、
宇佐八幡宮からは離れているが、この
宇佐宮と国府、大宰府も癒着し、更には
雨は既に上がっている。若主の到着に気付いた門番が、急いで開門する。
中心となる大きな
裏手の少し小さな棟の一つに案内され、体を拭いて着替えも用意してもらう。更には、多少とも医術の心得のあるらしい老女が、傷の具合まで見てくれた。
「怪我の方は、それ程の深手でもないようですね」使用人らの片付けを横目に、宅守が言う。
「刀傷はかすり傷の範疇だ。むしろ、捻った足の方が痛い。まあ、動かしてみて、歩くには
私とて武官だ。怪我の具合くらいは自分で掌握できる。
「少し腫れているようです。冷やした方が良いやも知れませぬ」
使用人らの言葉は、土地の訛りが強く、時々何を言っているのか分からない。しかし、この若主はしっかりとした中央の言葉を話す。もしかしたら、少し前まで都にいたのかもしれない。
「時に、ここは
「はい。私の
土地の名士ともなれば、何人かの子弟を都に送り出してもいるだろう。宅守も私のように、父親の赴任について、都に上ったとも考えられる。
「先ほど、藤原式家の者より、私の事を依頼されたと言われたが」
「はい。式家の
我々が因幡国にいる間に、都での動きを察知した式家の面々が、ここまで使いを走らせたのだろう。かつて
「そうか。幾重にもかたじけない」
「我々は式家様に、先代より御恩に与っておりますゆえ、当然の事です」
「ああ。先代の
「そして誰よりも、
使用人らが遠慮するように、黙って部屋を出て行く。それを目の端で見送りながら、私は少し戸惑い宅守の顔を見る。
「負い目とは」
「広嗣公が
「それは、少弐が起こしたのではないのか」
確か天平十二年の出来事だ。私が八歳の時だから、宅守は生まれてもいない。
「最初は都に反発する者らの、小規模な騒動から始まったと聞いています。それに各地の大領や
父祖から聞かされている話だろう。しかし、私の知っている状況とはかなり違う。
「都では、その様な経緯は聞いた事がない。あくまでも、大宰少弐が兵を起こしたゆえ、討伐の軍が向けられたと」
子供だった私は、大人たちから聞かされたままに信じていた。それ以前に、あまりに遠い地での出来事を物語のように思っていた。
「そうでしょう。
「それが巧く行かず、かえって裏目に出た。挙句に少弐は謀反人とされた……」
大宰府の参戦を見て、蜂起をした勢力もあっただろう。
「
よくある手だ。元来、地元にある派閥争いという火種に、報酬という油を注いで燃え上がらせる。
「それを知った少弐は、皆に官軍に下れと命じ、自ら進んで謀反人の汚名を着たのです。我が先代もその言葉に従い、五位の位を得た。領民らは安堵された。しかし、我々を理解しようと奔走された少弐を見捨てた。その罪悪感は、生涯、付きまとうていたと聞いています」
「恩義と負い目か……」
「今は疫病や軍隊は、この地を去りました。しかしまた、別の脅威を受けようとしています」
宅守の表情が、先程よりも引き締まり険しくなる。
「神仏の教えを笠に着て横車を押す、その様な者らの横暴です」
「宇佐八幡宮か」
「御身様はそこで、大宰府から送り込まれた者らに会われたのでしょう。あの者らは、本来の
かつての挙兵は、あくまでも父祖に聞いた昔話だ。しかし、宇佐宮と大宰府の癒着による騒動は、大領の家に生まれた宅守にも関わりが出て来るだろう。
「俺が会うた
「あの者は
「重ね重ね、かたじけない。初めて会うたというに、何故、ここまで私に」
「礼を言うべきはこちらです。これ以上、あの者らを大宰府と結託させてはならない。先の神託騒ぎで、帥一派の都での信頼は、多少とも失墜しました。幸いにして今の少弐は、帥や宇佐の神人との結びつきはない。そちらの派閥が力をつけて行けば、我々も抵抗する余裕ができます」
女帝や法王の前で演じたはったりが、宇佐宮の膝元では意外な効果をもたらしているようだ。もしも馬鹿正直に、阿曾麻呂が寄こした文言を奏上などしていたら、どの様な結果になっていただろうか。宇佐宮も大宰府も、都や弓削氏からの多大な見返りを受け、さらに増上していたかもしれない。この期待を反古にしたのは、私の奏上だろう。
「私のした事が役になったのなら、こちらとしても報われた気分だ。ともあれ今は、御身らに命を救われ世話にもなっている。やはり例を言うべきは私の方だ。重ね重ね、有り難く思う」
私が頭を下げれば、宅守も戸惑い気味に低頭する。言葉も態度も頼もしい若者だが、年相応の可愛げもある。
この後、屋敷の主からも歓待を受ける。やはりこの楉田氏も、一族から何人も衛士や
現在の所、宅守の父親も衛府で官職を得ている一人だという。宅守も二十一歳になれば、都に上るかもしれない。
地元に根を張る大豪族が重視するのは、中央との関係だけではない。殊に港を押さえる一族は、筑紫周辺のみに留まらず、西国や東国、大声では言えないが異国との取引も私的に行う。これらの繋がりで得た財力が、中央との関係をより深いものにして行く。私の一族も規模は違え、同様の事を昔からしている。地域に根ざした者は、その地の特権を大いに生かす。こうして我々は長きに渡り生きて来た。
そして翌日、私たちは再び船上にいる。
豊前国からの船路は、別の波乱に見舞われる。筑紫の東岸は、とにかく波が荒い。海流の変化も目まぐるしい。
今まで、船酔いらしき状況に陥った事のない私でも、吐き気で言葉すら出ない。畿内育ちで海になれていない家人などは、腹の中身を全部、海にぶちまけて伸びている。
それでも船は無事に日向国の津に入る。ここから陸路を行く方が、目的地には近いと、案内に立つ楉田氏の者は言う。その者に従い、川沿いに敷かれた道を行く。やがて天孫の下り立ったという高千穂の峰々が遠くに見えて来る。
私の行く先は大隅国府だという。流刑だか左遷だかは知らないが、建前では員外の
国府の役人の大半は、豊前や豊後の辺りから移り住んだ秦氏の人々だと聞いている。機内では蛮勇と言われる隼人の人達も、付き合ってみれば陽気で豪快な働き者が多い。決して悪い土地ではなかろう。
国府は高千穂の山脈を望む盆地にある。南に目を向ければ、海に浮かぶ煙を吹く山も見える。猛々しくも美しい山々だ。大和とも吉備とも違う風景に、我ながら感動を覚えている事に気づく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます