第25話 神護景雲三年十月 豊前国 草野津にて
官人の籍がなくなると、多くの不具合が生じる。
まずは、
海路といえば、瀬戸の内海くらいしか知らない。こんなに強い波や風を予想していなかった。船室にいても、右に左にと身が揺さぶられる。何かにしがみ付いて居なければ、座っている事すらできない。
船は
窮屈な船室から出て海風に当たる。十月の始め、筑紫ではまだ冬の気配はない。天気はあまり良くないが、暑くも寒くもなく過ごしやすい。水主は空模様を見て、雨が近いから、補給を早めに済ませたいと言う。船を下りても、港から離れなければ大丈夫だろう。周りには兵士も水主もいる。この気のゆるみが、禄でもない事態を招く。
揺れる舟板ではない、しっかりとした地面を踏みしめる。西の空を見上げれば、低い位置に黒い雲が広がる。雨が降り出すまで、あまり間もなさそうだ。
伴った二人の家人は、着替えやら間食になるような食べ物を調達したいと言い出す。港に併設された市には、一緒にやって来た兵士らの姿もある。気晴らしも兼ねて、少しくらいは構わないだろうと、私も市に足を踏み入れる。
この先の
少しばかり見回せば、女に声をかけられ、考えもない様子でついて行こうとしている。商人には見えない、
嫌な予感ほど当たるのではないのか。この年まで生きていて思う。勝人が女と共に曲がって行った路地に、少しばかり入り込んだ途端、人気がなくなり、市の賑わいからも遠ざかる。そして、取ってつけたように、数人の男が物陰から現れる。男どもは勝人の前に立ちふさがり、女は男どもの背後に消える。
私と狛麻呂が、勝人呼び戻そうと歩み寄れば、何人かが背後に回り込む。
「船に戻るぞ」
勝人に声をかければ、男どもは無言で間合いを詰めて来る。前に二人、後には三人。それ程、不利な人数差でもない。ただ問題は、私たちは武器らしい物を寸鉄も帯びていない。おまけに、二人の家人には武術の心得がない。
男どもは相変わらず無言で
「狙いは俺だ。
「俺は
その言葉が終える前に、私はわずかに首を捻って背後を伺い、狛麻呂に咄嗟の体当たりをする。二人して倒れ込んだすぐ脇を白刃がかすめる。大刀を振り下ろした相手の肘を取ろうと身を返すが、別の刃が向かって来るのが目の端に映る。
あらぬ方に身をひねってかわしたが、左の太腿の辺りが一瞬熱を持つ。体勢を立て直すが早いか、熱は徐々に鈍い痛みに替わる。傷の様子を検める間はない。
市の方向に、勝人の走り去る後姿が見える。逃げ足だけは速い。それを二人の男が追いかける。
こちらは二対三、丸腰対帯刀でとにかく不利だ。目の端の狛麻呂は尻餅をついたまま動かない。切られた様子はない。抜き身を前に動けないのか、腰を抜かしているのか。いずれにせよ、その方が私としても動きやすい。
いつの間にか、遠くに見えていた黒い雲が上空を覆っている。眼前の男らの上に光が走ると、間髪無く雷鳴が轟く。
私は腰を落とし、家人から身を離すように斜めに後ずさる。ふと、耳の辺りを水滴が打つ。更に大粒の雨が、頭と言わず肩と言わず打ち付ける。地面では音と砂煙が上がり、雨の染みが広がる。
あまりに突然降り出した雨の向こうで、
左の者の目にでも雨が当たったのか、動きがわずかに止まる。考える前に体が動き、その男の踏み出した脚に飛びついて引き倒す。これに右の男も間合いを崩され、大刀を引いて構え直そうとする。私の手は今度こそ、倒した男から大刀をもぎ取り、闇雲に右手方向に突き出す。
右の男は既に次の動きに移り、大刀を振り下ろそうとする。そこに私の切っ先が付き出されたのだから避けきれない。男の勢いも手伝って、切っ先は無防備な脇を大きくえぐる。
しかし、反撃はここまでだった。大刀を奪われた男が、私の肩を捕まえ引きずり倒す。そして前に立つ主格は、顔にかかる雨を煩わしそうに払い、引きつるような笑い顔で歩み寄る。手にした大刀を大きく頭上に振りかぶる。私は視線を動かせないまま息を止める。
雨の音に紛れて、硬い物が地面にでもぶつかるような鈍い音がする。目の前の男の側頭から何かが飛び散る。男の笑い顔と頭上の大刀が横ざまに傾き、体もそのまま横へと倒れ込む。
肩を捕まえる男の手が緩む。咄嗟に肘鉄をその腹に食わせ、大刀を杖にして何とか立ち上がる。脇を切られた男は、驚いた様子で周囲を見回す。その横面に小さな影が飛来して食い込む。
傍らでは、ようやく正気に戻った狛麻呂が、残った男に馬乗りになって殴りつけている。この家人は武術の心得こそないが、腕っぷしは強く、ケンカに負けた事はないと自負する。
飛礫の飛んできた方向から、歩み寄る人影に気付き、大刀を構え直す。背後からも水を蹴る足音が複数、近づいて来る。
「殿、狛麻呂」聞き覚えのある声が後ろから呼ぶ。
横から来た人影は一旦立ち止まり、背後に向けて手を挙げる。私は後ろを向き、歩いて来る三人の内に勝人の顔を確認する。様子からして、追いかけて行った男たちに捕まった訳ではなさそうだ。助けを呼んで来たらしいと悟り、ようやく大刀を下ろす。
膝の裏から一気に力が抜け、そのまま切っ先を地面についてしゃがみ込む。思い出したように、左脚の腿の辺りが熱を持って痛む。右の足首もひどく捻ったようで、力を入れる事が出来ない。さて、これで船に戻れるのだろうか。小降りになって来た雨に打たれつつも、私は少しばかり心配になる。
勝人が連れて来た三人は、若い主と同世代らしい従者だった。三人は港に船が入ったのを聞き、私を訪ねて来たのだと言う。水主から市を覗きに行ったと聞き、そちらに向かったところで、無頼者に追いかけられる勝人に出くわした。
追いかけて行った二人がどうなったのかは、大方想像できる。そして、飛礫に頭を割られた男は、絶命しているように見える。顔に受けた方と、狛麻呂に殴られた者を従者二人が手早く縛り上げる。
「
そうだと答えると、若主は
「藤原式家の
思いがけない名前が、
背は人並みに高いが、細身で少女にも見える優し気な顔立ちだ。それなのに、低く籠り気味の声で話す。
「船主には、御身様らを私どもの館に案内すると、伝えてあります。この者らの始末は、市の者らに任せ、早急にお出で下され」
市の者らとは商人ではなく、市の運営に当たる楉田氏の配下の者だろう。豊前国府の膝元とはいえ、港の市は国府ではなく地元出身の郡司が管理運営をしているようだ。
楉田の若主は従者らに、人を呼び、馬を用意しろと命じる。港の方に向かった従者らが、数人の者と人数分の馬を曳いて戻って来た頃には、雨はほとんど上がっていた。行為に甘えようとしたものの、狛麻呂も勝人も一人では馬に乗れない。そもそも都では、家人のような無位の者が、馬に乗るような機会はほとんどない。それを納得したのか否かは分からないが、楉田の従者二人が、後ろに乗れば良いと快諾してくれたので、そちらも甘える事とする。
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