54 犯人の名が明かされる
市川家から西に進むと、川にぶつかる。区域を南北に横切る小さな川だ。川はさらに南で一級河川と合流し、海へと注ぐ。
――結論を述べよう。
川の流れに沿うようにして強い風が吹き付けてくる。向かい風だ。知佳は歯をがたがたと震わせながら、ペダルを漕ぎ続けた。北へ、北へと向かう。
――夢路さんが最初に依代と交信し「神託」を下す前から、彼女は
やがて橋を見つけると、知佳は川を渡って区域の西部を目指した。
――尤も、これを読んでいる君たちには信じがたいことかもしれない。僕は夢路さんの存在を確信できるが、君たちは違う。夢路さんの霊魂が実在することを前提とした結論には鼻白むだろう。君たちの誰かが依代となって夢路さんを宿すなら別だけどね。
区の西側には、どこか昭和の雰囲気を感じさせる町並みが残っている。むかしのドラマで見るような古い一軒家やアパート、銭湯……
――信じろとは言わないさ。その資格があるとも思わない。これまで散々、嘘と真実の境界線で戯れてきたんだ。いまさらどれだけ尤もらしいことを書いたところで、新作の小噺と受け止められるのがオチだろう。
森野家はそんな町並みの一角に埋もれるようにして居を構えていた。
――だけど、それでいい。この文書に最後まで目を通してくれるならそれで。いつものように半信半疑で眉をひそめてくれればそれで。この《KK文書》は僕の、
何軒か並んだ一軒家の、ひとつ。青い瓦が目を引く二階建ての一軒家だった。
――巫女や依代の仕組みは一九五〇年代にはすでに確立されていた。詳しくは、この文書に記したOGたちの証言に目を通してほしい。遡れたのは一九五七年までのことだが、その頃には巫女や依代の仕組みが存在したことがわかっている。
知佳は森野家が見えるギリギリの距離で自転車を止めた。水筒の蓋を開け、ココアを注ぐ。息を吹きかけながら、ちびちびと飲む。
――さて、オリジナルの夢路さんがそういう仕組みを作ったとして、どういう意図があったのだろうか。彼女が神隠しみたいな特別な力を持たない、ただの亡霊、地縛霊みたいなものとして――なぜそんな仕組みを作る必要があったのか。
手袋を外し、スマートフォンのロックを解除する。寒さでうまく指が動かない。森野家も気になった。天気予報をチェックして、ふたたびスリープモードに移行する。
――僕はこう考えてる。夢路さんは本物の神様からみんなを守ろうとしたんだって。夢路さんが作ろうとしたのは――その本物の神様の怒りを鎮めるための祭祀のシステムだったんじゃないかって。これ以上、誰も神様に拐われることがないように。自分や婚約者、消えた親友みたいな思いをさせないように。自分が神隠しを引き起こす怨霊であるかのように振る舞うことで恐怖を煽り、その仕組みを定着させようとした。
知佳には予感があった。だから待ち続けた。
――夢路さんは自分が霊的な存在となったことで、神様の存在も確信したのだろう。だけど、自分はその神様そのものじゃない。幸いにして、依代を通して現世の少女たちとは接触することはできたが、それ以上のことはできない。自分とはまた別の神様が存在することを証明するのはむずかしかっただろう。
やがて、森野家のドアが開いた。小柄な影が姿を現す。カーキ色のモッズコートに身をくるんだ、少女だ。
――だから、自分が存在するという事実を最大限利用することにした。自分を神様に仕立て上げ、別の名前を用意した。りんご様という名前を。夢路さんであって夢路さんではない、神様の名前を。
知佳は徒歩で跡をつけはじめた。
――巫女の仕組みは――おそらく、なり手が途絶えることがない程度のバランスで考えられたものなんだと思う。それにどの程度効果があるのかは夢路さんもわからなかっただろうけど――夢路さんがよく語るように、大切なのは気持ちなのだということなのかもしれない。実際、その気持ちが神様にも通じたのか、巫女が存在する間に神隠しらしき事件は起こらなかった。
影は道中で何度か辺りを見回すような仕草をした。寒風に身を縮め、くしゃみを漏らす。
――そして、それが途絶えたときUFO事件が起こった。だから、掟は本当のことになった。少なくとも反証がない限り仮説として成立するようにはなった。
影は西へと向かっていた。区の西端へ。彩都市の西端へ。隣市との境となる一級河川が流れる方角へ。
――推論ばかりだが、夢路さんとは別に《神様》が存在するという根拠がないわけじゃない。僕はその神様の有力な候補にまで見当をつけている。
影は途中で猫を拾った。どこからともなく現れた黒猫を一瞬で手懐けたのだ。何か餌をやったようにも見えた。足にすり寄ってきたところを抱え上げて、西へと歩を進める。
――歴史の授業で習ったと思うけど、近世までは神仏習合の考え方が支配的だった。本地垂迹と言って、日本古来の神様を仏様の化身とする考え方もあったくらいだ。それが明治の神仏分離令によって両者は厳密に区別され、引き離された。民衆を巻き込んだ廃仏毀釈運動によって寺院や仏具が打ち壊された。多くの神仏が家を失ったと言える。りんご様もそうした神様の一柱だった。僕はそう考えている。
影は土手の階段を登った。一級河川の脇にある貯水池の畔へと降り立つ。
――近代化にあたって、明治政府は同時に教育機関の整備も急いでいた。だけど、人口が密集する地域ほどまとまった用地を見つけるのが大変でね。よく、学校の怪談のオチであるだろう? この学校はもともと墓場だったんだって。あれも、あながち創作ばかりとも言い切れないんだ。墓場の広大な土地を学校に用地に転用することも当時は多かったから。
影は猫を離した。猫は戸惑ったように辺りを見回す。そして、影を見上げる。
――僕は図書館でこの街の古い地図を見つけた。コピーしたものを添付するので確認するといい。見づらいかもしれないけど、中高が建っている辺りにお寺があるのがわからないだろうか。
猫が見上げた先にいるのは、一人の小柄な少女。癖のあるマッシュウルフの少女――
――学校の南側に《稲荷坂》という急勾配の坂道がある。あれは、そのお寺が名前の由来だったようだね。廃仏毀釈運動によって打ち壊されたお寺の。
知佳は地面を蹴り出した。
――稲荷と言ったら、狐だろう? 何を隠そう、この文書の正式名称も《Kitsune Kon-Kon文書》なんだ。そのお寺で祀られていたのも、狐と縁深い神様でね。狐に騎乗する形で描かれることも多かった。仏教の神様だが、狐を介して稲荷信仰と結び付いていったらしい。そして本地垂迹の思想では、五穀豊穣を司る神、
影はしゃがみこみ、猫の頭を撫でていた。そしてもう片手を猫の首に回す。そのまま持ち上げ――
――仏教には、インドの神話に由来する神様が多い。阿修羅や迦楼羅といった、いわゆる八部衆の面々もそうだし――、その神様も元はインドの悪鬼羅刹の類だったと言われている。
知佳は息を切らしながら、影の名前を叫んだ。
――仏典『大日経』の注釈書である『大日経疏』によると、その悪鬼は人間の心臓を喰らい、人黄と呼ばれる生命力の源を糧に呪術を行い、自由自在に移動し、意のままに望みを成就することができたという。人を支配し、病気で苦しめることもできたようだ。そんな悪鬼が大日如来に諭され、仏道に帰依した。
影は猫を手放した。猫は一目散に逃げ去る。影の曇った瞳が知佳の方へと振り向く。
――その神様は密教においても重要な役割を担うとされている。また、近世以降は、民衆に広く信仰される庶民的な存在となった。
見つかっちゃったな、と影は呟く。
――その神様の名前は――
知佳は影に言った。
――
「カナちゃんだったんだね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます