12. 恋のから騒ぎ、の後
白い光に包まれた後、視界がぐにゃりと歪んで、ふと気がつくと、そこはエルの家の居間だった。戻れたのだ、と安堵する間もなく、自分を抱いていた腕から力が抜け、大きな体がその場に崩れ落ちる。
「ロイ!」
倒れたその頭を膝に抱えたが、顔色は蒼白で意識がない。口元に耳を寄せると、かろうじて息はあるようだったが、脈は弱く、今にも途絶えてしまいそうだった。
「ロイ……ロイ!」
「落ち着け」
穏やかな声に目を上げると、アルがこちらを見下ろしていた。その顔には呆れたような表情が浮かんでいる。
「だから言わんこっちゃねえ……」
「アル、どうしよう⁉︎ ロイが……!」
「……これを」
そう言ってアルは小さな緑色の小瓶を放り投げてきた。手のひらに収まるほどのそれには、何かの液体が入っている。飲ませろということだろうが、ロイは完全に意識を失っている。アルをもう一度見上げると、どうしてだか面白そうに笑う。
「口移ししかねえだろ。俺は嫌だからな、お前がやれ」
肩をすくめてそう言う様子はどこか緊迫感がなくて、エルは思わず憤慨しかけたけれど、それどころではないと気づいて、思い切ってその小瓶の中身を口に含む。凄まじい苦味で吐き出しそうになるのを必死で堪えて、ロイの顎を引き寄せて、鼻をつまんでその液体を流し込む。何とかその喉が動いて、飲み込んだのを確認して唇を離すと、すぐにその目が開いた。
「エル……?」
「ロイ、気がついた⁉︎」
安堵したのも束の間、ロイは胸を押さえて急に苦しげに呻き始めた。半身を起こしたまま、縋り付くように回された腕がきつくエルの肩を抱く。苦しげな呼吸と続く呻き声にアルを見上げたが、ただ肩をすくめるばかりだった。ロイも、エルに視線を向け、歯を食いしばりながらも小さく首を横に振る。
どれほど経った頃だろうか。やがて、呼吸が落ち着き、エルの肩にその額を預けてくる。触れた額は冷や汗でぐっしょりと濡れていたが、その顔色には血の気が戻っていた。不意にぐいとその体が後ろに引っ張り上げられ、そのままアルが雑な動きでロイの肩を抱えると、客間となっている寝室へと入っていた。慌てて後を追うと、ロイは寝台の上に横たえられていた。
「本当に、懲りないな。あんたも」
アルの呆れたような声に、ロイはどこかバツが悪そうに視線を逸らした。アルはもう一度ため息をついて、一度部屋を出て水差しとグラスを持ってくると、枕元のサイドテーブルに置く。それからエルに向き直ると、その頭をくしゃりと撫でた。
「怪我はないな?」
「う、うん」
柔らかい金の眼差しに安堵して見上げていると、強く抱きしめられる。それで、彼にも心配をかけていたのだ、とようやく気づいた。
「ごめんなさい」
「お前が謝ることじゃない。あんなものを放置しておいた俺たちが悪い」
何かを悔いるような声音に、目を上げるとアルは珍しく苦笑を浮かべる。
「あいつが妙なものに好かれるのは、珍しいことじゃなかったからな。何かをもらってきたと聞いても、とりあえず身につけるなとは伝えておいたが、処分しろとは言ってなかった」
まあとりあえず、無事で何よりだ、とそう言ってアルは腕を解く。それから後ろを振り返って、ニヤリといつもの癖のある笑みを浮かべた。
「そいつの慌てっぷりも見せてやりたかったけどな」
「うるせぇ……!」
まだ弱々しげな声で、そう毒づいたロイに肩をすくめて笑って見せて、アルは部屋を出ていった。パタンと扉が閉じられると、あたりに沈黙が下りる。枕元に腰をかけて、そばにおいてあった布で手を伸ばしてロイの額の汗を拭くと、穏やかな青い瞳がエルを捉えた。
「あれ、瞳……戻った?」
「……自分じゃ見えねえが、変わってたか?」
「さっき見た時は、青紫から、濃い紫に変わってた気がする。今は、青いよ」
そう言うと、ロイは一つため息をついてから、寝台の端にもたれるようにして半身を起こす。ほんのわずか、その瞳が迷うように揺れ、それからエルを見て何かを諦めたように笑って両腕を広げた。エルはすかさずその首に腕を回して縋り付く。
「……怖かった」
「まあ、そりゃそうだろうな。あんなでかい化け物……」
「違う。ロイが倒れたのが」
来てくれたことは何より嬉しかったけれど、倒れて蒼白な彼を見て、エルの心臓も止まりそうだった。
「私のせいで、ロイがあんな目に遭って、もし何かあったら——」
一生後悔しただろうと思う、そう呟いた彼女に、ロイは少し驚いたように目を見開いて、それからまた視線を逸らす。背を抱く腕は優しいけれど、いつもよりどこかぎこちない。
「……俺みたいな年寄りより、お前やジークの方が大事に決まってんだろ」
「ロイ、お年寄りなの?」
「ああ」
「何歳?」
「三百と二十……いや、もっとか」
「……え?」
思わず体を離してまじまじと見つめると、どこか楽しげに笑う。
「言ってなかったか?」
「知らなかった」
言いながら、ぺたぺたとその頬や胸を触るとその手を掴まれた。
「……何やってんだ?」
「全然おじいさんぽくないな、と思って」
森の中で過ごしている間には気づかなかったが、学び舎に通うようになって、ほとんどの人は年をとると腰が曲がったり、白髪になったり、皺が増えたりするのだと学んでいた。ロイは無精髭はあるものの、皺は少ないし、白髪もない。せいぜいがカイの父親と同じか少し上程度に見える。
「俺たちは、あまり外見が変わらないからな」
「そうなの? じゃあ……その、もう長く生きられないとか?」
「わからんが、まあまだそうすぐにお迎えがくるって状況じゃないとは思うがな」
「そっか」
ほっと息を吐いてもう一度その首に抱きつくと、また少し間があってからやんわりと抱きしめられる。
「もう、本当に大丈夫……なの?」
「ああ」
先程の様子は尋常ではなかった。改めてその頬を両手で包むようにして顔を寄せて見つめたが、顔色はほぼ戻り、真冬の空のような青い瞳も穏やかだ。それでも少し、その瞳が揺れる。
「……あんな真似は二度とするなよ」
「あんな真似?」
「腕を、あの灰色狼の口に差し出して、犠牲にしようとしただろう」
そう言って左腕を掴まれる。こちらを見つめる瞳はやや険しい。エルとしてはただ必死で、ただ、どこかであの青年はエルを傷つけることをよしとしないだろうと思っていた。だから、犠牲にしようとしていたというのは正確ではないけれど、怒りを感じるほどに真剣に気遣ってくれるその想いが、嬉しいと感じてしまう。
ふわりと微笑んだ彼女に、ロイは惚けたように目を見開いて、それから、ゆっくりとその手がエルの頬に触れる。小さな頃から見慣れていたその顔が近づいて、少しだけ傾いて、唇が重なる。驚いて目を見開いた彼女に、笑う気配が伝わって、何かを言いかけて開いたそこに舌が入り込んでくる。
食らいつくように深く、何度も角度を変えて繰り返されるその口づけに、息が止まりそうになって目を閉じると、強く抱きしめられた。それでも口づけは止まらず、思わずその胸元を掴むと、ようやく唇が離れる。
目の前の青い瞳は、面白そうな、それでも見たこともないような熱を浮かべていた。
「お前が言っていた『お嫁さん』はこういうこともするんだぞ」
その大きな手が、エルの腰のあたりにすべり下りてきて何やら妖しい動きをしている。その手を慌てて掴むと、くつくつと笑う声が降ってくる。
「な、なんで急に……⁉︎」
「さあな」
だが、と不意にその青い瞳が強い光を浮かべてエルを捉える。
「さんざん俺を煽っておいて、今さら逃げられると思うなよ」
その獰猛な獣のような眼差しに、射すくめられたように見惚れていると、ロイはふと呆れたように笑った。
「そんなに隙だらけだと、本当にこのまま襲っちまうぞ?」
「え……っ」
慌てて身を離して扉まで下がると、今度は腹を抱えて笑っている。もしかしてからかわれたのだろうか、と首を傾げると、だがゆっくりと寝台から起き上がり、こちらに歩み寄ってくる。
「どうする、エル?」
扉の前で追い詰めるように頭の両脇に手をついてそう問いかける顔は、ずっとエルが見てきた優しい父親のようなそれではなく、完全に男のそれだった。
「え……と」
壁際に追い詰められたまま、見上げた青い瞳は穏やかに、けれど、今まで見たこともないような甘い光を浮かべている。
だが、あまりに突然の事態に戸惑うエルは、半ばその精悍な顔に見惚れ、ただ見つめ返すことしかできなかった。
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