星空の匣

 もう何軒目か分からない不動産屋の出口で頭を下げて、扉を閉めた。もう夕方に近いというのに日差しは容赦なくうなじを焼き、後頭部でひとつに結んだ髪が首筋に張り付いて不快感が募る。やはり駄目だったか、という落胆と焦りが彼女の頭を支配していた。

 オートロック、防犯カメラ、駅近でなるべく明るい道に面した建物で部屋は三階以上。それに希望の家賃額を伝えると、途端に営業は広げていた資料を片付ける。心底うんざりした顔をして「うちではそのような物件は今ありませんね」そう言われ、終了。彼女は次の店へと足を運ぶ。

 それを何度も繰り返しているうちに、陽は傾き黄昏があたりを包み始めていた。影が長く伸びて地を這う。

 貴重な休日が終わる。またあの部屋に戻るのか。真夜中のチャイム、部屋の周囲を歩き回る人の気配、カーテンの隙間からの視線。終わらない、気が狂いそうなほどの恐怖。

 一刻も早く出て行きたいのに、行く場所もない。

 この辺りの不動産屋はひととおり回ったはずだし、次のエリアに向かうには時間が遅すぎる。夜の帳が下りるまえに帰宅しなくてはならないことを考えると、今日はもう諦めるしかないようだ。

 重い足取りで帰路につこうとしたその時、住宅と住宅の隙間から『不動産』の文字が目に入った。立ち止まり覗き込むとプレハブ造りの小さな建物が、周囲のコンクリート造のビルの隙間で息を潜めていた。まるで何かから隠れているかのよう。招かれるように、足がそちらへ向いていた。薄暗い路地を、室外機を避けながら縫うように進む。どこかの部屋から密やかな声が漏れ出している。

 そうして辿り着いたそこは、聳え立つビルの間で時が止まっているかのように存在していた。不可侵の領域のように思われたが、すんなりと彼女は足を踏み入れた。相当古いその不動産の看板は錆び付いて名前がうまく読めないし、引き戸の磨りガラスには苔なのか汚れなのかわからないものが付着している。だが深く考えなかった。ここなら『なにか』がありそうな気がして、その根拠など何もないのに確信に近い感情を抱きながら彼女は建て付けの悪い扉を引いた。

 ひゅう

 彼女が足を踏み入れるより先に風が吹き込み、夕陽を浴びながら埃が舞い上がる。むせ返りそうになるのを、口元に手をあてがい堪えていると、霞む店内の奥の方から声がかかった。

「いらっしゃい」

 嗄れたその声は老婆とも老爺とも判別がつかず、彼女は目を瞬かせた。薄暗いその店内に目が慣れてくると、そこが思った以上に狭い場所だということがなんとなく分かってくる。

 入り口はいってすぐ右手にカウンター。その向こう側に、つみあげられた箱になかば埋もれるようにして小さな老婆が座っていた。物がないのはカウンターの上と座ったら壊れてしまいそうな古びた椅子だけで、それだけを残して室内のそこかしこには箱が山積みになっていて、中でがさごそと何かが動き回る音がしていた。

「ま、お座り」

 促されるまま店内に足を踏み入れて、カウンター前のオフィスチェアーープレハブには似つかわしくないそれはおそらく購入されたものではないーーに腰掛けると錆び付いたそれが鈍い叫び声をあげた。老婆は彼女よりずいぶん小さく、白髪をぴっしりと撫で付け、後頭部で鞠のようなお団子が揺れる。

 細められた双眸が彼女をひたと見据えて、彼女はたじろいだ。視線を下げて、カウンターに敷かれた昔は透明だったはずのデスクマットに裏写りした、知らない誰かの文字を見るともなく見つめた。

「あの、部屋を探してて……でも希望が多すぎて……」

「大丈夫、あるよ」

 即答された。

 思いもよらない言葉に「え」と顔をあげると老婆は深く頷いた。

「アンタ、寄せ付けやすいんだろうね。色んなモノを。たまにいるんだよ、呼んでもないのにやたらと寄せ付ける体質の人間が」

 けったいなもんだねえ、呟きながら老婆はくるりと椅子を回転させて、背後の小箱を漁り始めた。大きさも色も形も、どれひとつとして同じものはないそれらをおもむろに手にとっては、蓋に手をかけてしかし開くことなく適当に投げやる。

 彼女は先ほど言われた言葉がうまく飲み込めないまま、揺れる白い鞠を見ていた。希望通りの部屋がある。あの抜け出せない悪夢のような部屋から、ようやく解放されるのだ。老婆がどうして知っているのかなんて、どうでもよかった。彼女はこういったことには慣れている[#「慣れている」に傍点]。

「さて、どの部屋にしようかねえ」

 老婆は小声でぼやきながら、箱をいくつも手に取っては放り投げていった。床や他の小箱の上に着地したそれは、小さく震えたり微かな声をあげては沈黙する。

 それは終わりの見えない作業だった。おもむろに小箱を手に取り、投げる。特に目的もなく選ばれているように見えるこれが、なんの意味を持つのかわからず彼女はじっと座ったまま待つ他なくて、居心地の悪い沈黙の中で老婆の聞き取れないほど小さな独言と箱たちが発する声ともつかぬ音だけが部屋に充満していた。

 待つという作業は存外疲れるもので、そして余計なことを考えがちになる。次第に窓の外が仄暗くなっていくのがくすんだ窓越しにもよく分かって、夜が来るのだという事実に恐怖心が否応なく持ちあがってくる。


 早く帰らなければ、早く……

 

 焦燥感が喉の奥でじわりじわりと大きくなって、そうしてそれが目の前で揺れる白い鞠とおなじくらいになり、ああもうダメだ帰らなければと立ち上がろうと床を踏みしめた時だった。かさり、かすかな音が背後から聞こえたかと思うと、振り向くまもなく何かが床を叩く音が続いて、彼女は踏みしめた足を椅子を回転させる事に使わざるをえなくなった。振り向いて黒く煤けた床に視線を落とすと、そこに転がっていたのはひときわ小さな、指輪が入るくらいの小箱だった。濃紺の箱の上で、白い絵の具をつけた筆をひと振りしたような小さな飛沫が散っていて凝縮された星空を思わせる。

「あ、」

 小さく震えているように見えるそれに手を伸ばし、掌に乗せると見た目に反してほんのりと温かくいやにしっくりと手の中におさまった。どこから落ちてきたんだろう、見上げてもそれが本来あった場所などとうにわからず、そこには他人の顔をした箱たちが沈黙を続けるだけだ。老婆に元あった場所に戻してもらおう、そう思い椅子を再び半回転させる。と、老婆の顔が目の前にあって思わずあげそうになった悲鳴を彼女は必死に飲みこんだ。さっきまで背を向けて箱を探していたはずなのに、いつのまに椅子に座ってこちらを見ていたのか全くわからなかった。

「ようやく選んだね」

「これ、いきなり落ちてきて。選んだわけじゃ……」

 老婆は小さく首を振り「アンタはこれを選んだんだよ」とだけ告げて目を細めた。

「宵ヶ丘か、良いところを選んだね。部屋は1LDKでオートロックはないけど、まず間違いなく安全だよ……アンタが今住んでるところよりはね。家賃は、」

 聞いたこともないほど破格。

 にんまりと笑う老婆の顔は善人なのか悪人なのか判別できない上、告げられた町名とおぼしき場所にも心当たりがない。しかし彼女は今すぐに引っ越しをしなければならなかったし、聞いたこともない街と部屋に住む不安と今の部屋に住み続ける恐怖を天秤にかけた結果、拮抗することもなくそれはあっさりと答えを出した。


 頷いた彼女に老婆は箱を開けるように促す。

 開くと、切符が一枚と、鍵が入っていた。不動産の最寄り駅から乗車できるその切符に印字された値段は擦り切れていて判別できない。

「引っ越しは今夜だよ。部屋の荷物はうちのスタッフが運ぶからアンタは先に部屋に行っておいて。アパートは向こうで駅長に訊いたら教えてくれるからね。敷金礼金は、そうだね、うん」

 老婆はすっと指差した。

「髪をもらおうかね」

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宵の住人は振り向かない 久慈川栞 @kujigawa_w

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