34.

 荒れ狂う毛並み。剥き出しの牙。鼻息と共に鳴り響く不協和音。それは爆走する火の車といっていい。


「ガッギャァァァァァァッ!ギァァァッ!」


 僕は膝から崩れ落ちた。

 あの時と同じだ。縛られて、無力で、理解に苦しんで、ひたすらに懇願こんがんするしかなかったあの時と。僕はただ死を待つだけの存在なのか──?


 僕は項垂れた。同時に右手が腰のホルダーに触れた。震えた片手でナイフの鞘を抜くと、銀色の刃が僕の顔を写した。


 ──いや、違う。僕はただ困惑していただけなのだ。少年少女らが口にした『現実』という言葉。そう、全ては現実なんだ。受け入れられなくてもいい。信じられなくてもいい。


 身体の奥底で何かが叫んだ。

 ──だが、忌避きひだけはするな。せめてもの反抗を、抗いを示して見せろ!


 「……ッ!」


 声と判断は同時だった。僕はナイフを抜き取ると、路地へ向かって走り出した。猛犬は三匹。正面から挑んでは勝ち目がない。選択肢は一つ。追手を振り切ること。


 間近に迫る恐怖に耐えながら全力で走る。路地という路地を曲がり、姿を晒す時間を短くしていく。


 水溜りを蹴り上げる。

 飛沫が上がる。

 透明な粒子が流星が如く後方に流れる。

 味わったことのない加速感。背中を風で押されているようだ。僕は僕自身の俊敏さに驚いていた。


「ぐッ……」


 体勢を崩しても立ち上がる。諦めない。

 五つ目の角を曲がった所で怪物の気配が途絶えた。どうやら巻くことに成功したらしい。


「ハッ……ハッ……」


 息が上がっていた。これ以上、走れそうもない。体力は現実世界と同様に低いままだった。頃合いを見計らって、いち早くこの場所を離れよう──


「ガッギギギ……」


 獣の声がした。気のせいではない。

 突然、ゆっくりとした足取りで姿を現したのは猛犬である。一匹は前方に、他の二匹は後方に現れた。挟み撃ちにされた。


 体毛から蒸気を発しており、息が荒かった。かまみたく鋭利な牙を剥き出しにすると、鼻先を敏感に動かして徐々に近づいてきた。その光景を見て僕は頭打ちにあう。【嗅覚】が発達していたのである。高所に逃げるべきであった。


「……そんな」


 僕は再び動けなくなった。景色が歪む。世界に色がなくなる。


 この世界は夢幻であると、どこか現実世界と切り離していた。しかし、どうだろう。この世界は圧倒的なまでに、理不尽に、過酷に、現実を突きつけてきた。


 猛犬の一匹が遠吠えを上げると、それを合図にして狂乱が二つ襲い掛かった。


 「なんで……なんでまた……こんな事に」

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