第二十一話 遭遇接近、そして邂逅(1)

 仰向けになった途端、こらえていたものが一気に溢れだしてくる。


「ぶはぁっ!」


 盛大に息を吐くと、それがスイッチとなっていたかのように荒い呼吸が激しく上半身を揺さぶり始めた。

 ぜぇはぁという呼吸音以外の音声を口から出すことができない。

 同時に疲労感と倦怠感も頂点に達し、幾筋いくすじもの汗が、未だ春先の顔や首元を伝う。

 視認できるはずのない脳の中で、ショートした電線がバチバチとスパークしているかのような感覚が頭をさいなみ、意識が明滅している。気を抜くと意識が寸断されそうだった。

 おれはそれを全力で落ち着ける作業に入る。

 あまりこんな姿を長時間晒していたくはなかった。

 周囲を見回す余裕もないが、こちらを訝しんで通り過ぎる客が何人かいるような気がした。

 警察を呼ばれるのも救急車を呼ばれるのも御免だった。

 おれは経験則と照らし合わせ、冷静に身体の状態を分析する。

 負担を掛けていた時間は比較的長かったとはいえ、強制停止には至らなかったし、最悪の事態は免れたんじゃないかと思う。昔はあれだけ身体に負担を掛けていたらすぐに全身に疲労感と倦怠感が揃って急襲し、意識はどこかへと喪失していた。

 それを踏まえて考えてみると、うん、このくらいなら大事には至らないはずだ。あと数分もこーしてりゃ回復すんだろ。

 そんな身体の脆さにうんざりしながらひたいに腕を乗せ、瞑目めいもくして自己診断していると、瞼の向こうに影が差した。

 それはいつまで経っても過ぎ去ることはなく、おれは何者かがそこに立ち止まったことを確信する。

 できれば放っておいてほしいという願望も虚しく、荒い呼吸を整えるおれに声が降ってきた。


「何やってんの? もしかしてヤバイ? 大丈夫?」


 少し高い、幼い少年のような声。潜めた中に気を使うような色が感じられる。

 もう思考もボヤけていてイマイチ判然としないが、その声はどこかおれの記憶に引っ掛かっているような気もしていた。

 そろそろ声を出せなくもないくらいに落ち着いてはいたが、そうするにも体力を使いそうだったので、おれは追い払う意図も兼ねてその声を無視した。

 ところがその声の主は根気強かった。


「ねぇ、大丈夫?」


 ついにはとうとう、おれの目の前でしゃがみ込み、この忌々しい童顔を覗き込んできた。声の発生源が近づいたのでわかる。

 仕方なく、おれは目元を覆っていた腕をずらし、薄目を開けてその姿を確認した。


「なんでおまえがここにいんだよ……」


 ベンチに横たわっている無様なおれを見下ろしていたのは、私服姿の日和沢那由ひよりさわなゆだった。サイドテールと瞳を揺らして、おれの全身に忙しなく視線を走らせている。


「友達と遊びに来てたらミコトくん見かけたから、何してるのかなって思ってちょっと後つけてみようかなって」

「……どっからつけてたわけ」

「えと、非常階段のトコから女の子背負って出てきた辺りから」


 ほぼ見られていたその事実に全身から力が抜けたどころか、感覚さえ抜け落ちたかのような錯覚に見舞われた。おれはまぶたを下ろし、逃げるように視界をシャットダウンした。


「ねぇ、もしかしてヤバいの?」


 今度は先ほどよりも気遣うようなニュアンスが強くなる。

 薄目を開けて反応を窺うと、日和沢は以前におれが吹き飛ばしたスマホを取り出し、どこかへと電話を掛け始めた。病院かと思って制止しようとしたのも束の間、すぐに相手と繋がってしまう。


「あ、もしもしナギっち? 今モールに来てるんだけど」


 連絡先交換してたのかよ……。一週間もしない内に担任教師と連絡先交換とか、コミュ力高たけーなぁ。


「なんかミコトくんがハァハァ言いながらベンチに倒れてるんだけどさ」


 しかもなんか違う意味でアブナイ人みたいな状況説明だしよ。


「うん、なんかちょっと、結構かなり辛そうにしてる。うん、近くには……誰もいないっぽい。……え? お姉さん……ってあの生徒会長さんだよね? いないよ? うん、わかった」


 話の内容はおれには知りようもないが、何事かにそう頷いた日和沢は通話状態をそのままにおれに向き直った。


「ミコトくん、もしかしてお姉さん撒いた?」


 バレてるし。

 まぁナギなら簡単に当りをつけちまうか。

 付き合いなげーんだし。

 おれは仰向けのまま首肯した。


「うん、やっぱ撒いたって。うん……うん…………」

「だんだん、回復して、きたから、だいじょう、ぶだ、気にすんな……」


 こちらの首肯を受けて通話に戻った日和沢に、おれは割り込んで身体の平常さをアピールする。

 日和沢は目線だけをくれてからその旨を送話口に返した。


「回復してきたって言ってるけど……え? うん、うん……わかった。了解ナギっち」


 それを最後に通話を切った日和沢は改めておれに向き直り、しゃがんだまま何故か小さく敬礼した。


「ミコトくんの監視をおーせつかりました」


 えぇ……。嘘だろ……。


「お姉さんどこ?」

「……知らね」


 いくらか喋れるほどに回復したとはいえ、まだまだ一息に発せられる言葉は少ない。自然、返答は短くなる。


「えと……、ケータイ貸して?」


 さてどーしよーかと逡巡している内に諦めてくれないかという希望も同時に抱いてとりあえず無言を返す。

 しかしこのサイドテールもなかなか強情で、おれが返答を決めあぐねている間に勝手におれの身体をまさぐり始めた。

 今は全身の感覚がなくなっているのでくすぐったいとかそういうのはないが、家族でも医療関係者でもない同年代の異性にこの身体を自由にさせてしまっている。慣れないその距離感が居心地の悪さを感じさせた。

 そんなおれをよそに日和沢が早々にスラックスのポケットからガラケーを発見する。

 そして寸分の躊躇もなく他人のそれを開いた。


「うわ、なんかすごい着信来てるし……。しかもロック掛けてる……」


 たぶん美夜だろーな。ナギからも掛かってきているかもしれない。

 子ども一人背負って歩くので精一杯で全然着信に気付かなかった。


「ミコトくん暗証番号は?」

「教えるわけねーだろ」


 よし、何とか淀みなく話せる程度には回復してきた。身体に自由が戻るまでもう少しか。

 おれの顔の近くでカチカチと解除を試みているらしい音が聞こえてくるが、できるはずがない。何通りあると思ってんだ。

 動けるよーになったらすぐにケータイを取り返してこの場を離脱しよう。

 やがて日和沢はロック解除を諦めたような溜め息を漏らすと、向き合う先をケータイからおれへと移した。


「ねぇ、さっきさ、何で他の人に助けを求めなかったの?」


 その声色には決して少なくない神妙さが感じられて、答えを返すのにいくらかの間を要した。

 さっき、というのが、あの子をインフォセンターへと背負って連れていった時のことだというのは容易に察しがついた。


「無理しないで誰かに手伝ってもらえば良かったのに」

「要らなかったからだな。助けも手伝いも」

「でも結局こんなんなってんじゃん」


 その声はどこかむくれていて責めるような色さえ感じられた。

 でもおれにとってそんなのは……慣れっこだ。


「それがどーした? 大した問題じゃねーよ」

「ナギっちはすごく焦って心配してたけど」

「あいつが心配性なだけだな」

「……嘘つき」


 想定外の断定的なリアクションに、おれは思わず目を見張って日和沢を見た。

 気のせいか、じっとこちらを見据えるその瞳は僅かに湿っているように見えた。


「今ナギっちに聞いたもん。ホントは心臓が悪いんだって」

「あいつ……」


 そこは重くなるから伏せとこうって、星名家とナギとの協議で満場一致したはずなのに。


「そんなこと気にする必要ねーよ。だんだん治ってきてるんだし、成人する頃にはほとんど良くなる見込みだしな」

「それって今回みたいな無茶をしなかった場合でしょ!? 無茶すると昔みたいに戻るかもしれないってナギっち言ってたもん! あたし、ミコトくんの昔のこととか知らないけど!」

「…………」


 散々述べてはいるが、おれの身体――心臓は、完治することはない。ただ、それに比して身体が成長してくれば、欠陥品の心臓による身体への弊害も収まってくるというだけの話だ。便宜上、おれも“治る”とかそういった言葉選びをすることはあるが、それも正確じゃあないわけだ。

 ……あんまりなぁなぁに相手するのも良くなさそーだな。

 おれはサイドテールを揺らして語気を荒げる日和沢の様子からそう判断する。

 回復してきた身体にやや無理をさせて起き上がり、ベンチに座り直して、おれのケータイを手にしたまましゃがんでいるクラスメイトと向き合った。


「あのな、今も昔もおまえが思ってるほどヤバいわけじゃないんだよ。ちょっと負担を与えると壊れちまうよーなガラスの心臓ってわけじゃない」


 確かに昔は、まだそれに近い状態だったんだろーけど。

 

「心臓に難があるって言うと、大抵は命の終わりと隣り合わせ、みたいな印象を抱かれるけど、実際、“おれ”と“命の危険”にはガラス二枚分くらい存在してるイメージだな」

「何それ全然わかんない。大丈夫なの? 大丈夫じゃないの?」


 日和沢ははなをすすりながらも的確に突っ込んできたが、そんなのおれだってよくわかんねーよ。ぶっちゃけ何となくだ。

 しかし、それでもおれはこの純粋なクラスメイトを最大限まやかすことなく、可能な限りの不安を取り除けるような言葉を組み立てる。


「心臓が悪いって言ってもホントにもう大したことはないから。前にも言ったけど、本格的にヤバくなる前にまず身体が動かなくなる。強制的にな。今回は最後まであの子をあそこまで送り届けられたんだから、そこまでも行ってないくらいだ」


 まぁ、その一歩手前くらいだったけど。

 経験則で言うと、あの重労働をあと五秒くらい続けていたら、冗談抜きで救急車が必要になっていたかもしれない。

 そんなことはおくびにも出さないが。


「今はちょっと疲れたから休んでただけだよ。誰にだってあるだろ? そんなことは」

「でも、ないわけじゃないんでしょ、命の危険」

「まーな。けど、さっきみたいに怒鳴るほど身近ってわけでもねーよ。おまえが思ってるよりは、もう少し遠い」


 おれがそう言っても、日和沢の面持ちは晴れないままだった。

 まったく、何でこいつはつい最近知り合ったばっかのどこの誰とも知れないクラスメイトにそんな顔するんだ。

 仕方ないので、もう少しだけ、この疾患に関する知識を伝授してやる。


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