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2020年11月18日 16:40
はじめまして。 興味深く読ませていただきました。 一般的に言って文章とは特定の読者を想定して書くことが多いものなので、小説であっても、誰に向けて書くかを考えるのは良いことだと思います。 ねおさんと同じ悩みを持つ人は過去にもいたようで、これまでに試みられたいくつの形式に心当たりがあります。 以下、長くなりますが、思いつくままに失礼します。 たとえば、『シャーロック・ホームズ』はホームズの友人ワトソンが書いた本という設定で、作中世界でも出版されたことになっています。この場合、ワトソンは虚空ではなく同時代のイギリス人に向かって語りかけています。作者のコナン・ドイルは、物語の語り手(ワトソン)に「自分は今、(不特定多数に向かって)話をしている」という意識を持たせることで、語り口が独白のようにわざとらしくなることを回避しようとしたのかもしれません。 ライトノベルの『生徒会の一存』シリーズも、主人公が生徒会の出来事を物語風にまとめたものという設定です。第1巻のあとがきにあたる部分で主人公が本作について「どうせここの生徒にしか売れねーんだろうし」と書いているので、ここで想定されている主な読者は主人公と同じ学園の生徒ということになります。 ちょっと古いところだと、『若きウェルテルの悩み』は本文のほとんどが主人公による手紙(を集めたもの)という設定になっており、ご丁寧にも手紙のそれぞれに日付が書いてあります。この場合、主人公が想定している読者は手紙の宛て先となっている友人です。現代だと、主要な登場人物たちのメールやLINE、Twitterのツイートをそのまま引っ張ってくるような感じでしょうか。 そう言えば、夏目漱石の『こころ』も、「下」はずっと先生の手紙で構成されていますね。『少年の日の思い出』も(手元に本がないので確認できませんが、記憶が正しければ)エーミールとごちゃごちゃやった人物が何年も経ってから「少年の日の思い出」を(語り手に向けて)話しているという形式だったと思います。どちらも、形式上は登場キャラが別のキャラに語っています。ライトノベル『バッカーノ!』の第1巻も大部分は“人から聞いた話”だったと思います(よく覚えていませんが)。 『アンネの日記』は言うまでもなく日記ですが、キティーという架空の友人に宛てた手紙のように書かれています。アンネは最初の部分に、「ただ日記をつけるより、こういう書きかたのほうがずっとおもしろいと思いますし、おかげさまでいまでは、つづきを書くのがほとんど待ちきれないくらいです」と書いています。 ちょっと変則的なものだと、重松清の『きみの友だち』という連作短編は(これも本が手元にありませんが)出来事の中心となる人物に語りかける形式で書かれています。つまり、「あのとき、きみは○○したね。そしたら××くんが~したから、きみは……と言った」というような書き方になっています(なっていたはずです)。読みながら、よくこんなトリッキーな形式で書けるなぁ、と思った記憶があります。 変則的なものをもうひとつ挙げると、星新一の『セキストラ』は、雑誌の切れ端やハガキ、何かの書類を集めた形式になっており、地の文がないばかりか、明確な主人公も存在しません(存在しなかったはず)。この場合、読者に見せる前のデータの寄せ集めという設定で、作中の位置付けとしてはそもそも読者を想定していない、ということになると思います。 探せば他にもあるかもしれませんが、とりあえずパッと思いつくものはこんなところです。 いくらかでも、ねおさんが小説を書く際の助けになってくれれば良いのですが。 長文失礼しました。
作者からの返信
あじさい様応援コメントありがとうございます。しかもこんなに詳しく書いていただいて、感激しております。また、あじさい様の読書量の多さと知識の深さに、感服しております。「こころ」や「少年の日の思い出」は昔学校の国語の教科書に載っていた文章を読んだことがありましたが、確かにそういう感じだったなぁ、と朧げに思い出しました。(話がそれますが、「少年の日の思い出」は、主人公がエーミールのクジャクヤママユの標本を壊してしまって、「君はそんなやつなんだな」みたいな言葉を言われるのは強く印象に残っています。)劇の人物が、同じ劇の人物に向けて語りかける手法は、書きやすそうですね。思えば、私もそういう感じで作った作品もありましたし、文章が書きやすかったなぁと感じました。今度、そういう書き方を意識して、作品を作ってみたいと思います。ありがとうございました!
はじめまして。
興味深く読ませていただきました。
一般的に言って文章とは特定の読者を想定して書くことが多いものなので、小説であっても、誰に向けて書くかを考えるのは良いことだと思います。
ねおさんと同じ悩みを持つ人は過去にもいたようで、これまでに試みられたいくつの形式に心当たりがあります。
以下、長くなりますが、思いつくままに失礼します。
たとえば、『シャーロック・ホームズ』はホームズの友人ワトソンが書いた本という設定で、作中世界でも出版されたことになっています。この場合、ワトソンは虚空ではなく同時代のイギリス人に向かって語りかけています。作者のコナン・ドイルは、物語の語り手(ワトソン)に「自分は今、(不特定多数に向かって)話をしている」という意識を持たせることで、語り口が独白のようにわざとらしくなることを回避しようとしたのかもしれません。
ライトノベルの『生徒会の一存』シリーズも、主人公が生徒会の出来事を物語風にまとめたものという設定です。第1巻のあとがきにあたる部分で主人公が本作について「どうせここの生徒にしか売れねーんだろうし」と書いているので、ここで想定されている主な読者は主人公と同じ学園の生徒ということになります。
ちょっと古いところだと、『若きウェルテルの悩み』は本文のほとんどが主人公による手紙(を集めたもの)という設定になっており、ご丁寧にも手紙のそれぞれに日付が書いてあります。この場合、主人公が想定している読者は手紙の宛て先となっている友人です。現代だと、主要な登場人物たちのメールやLINE、Twitterのツイートをそのまま引っ張ってくるような感じでしょうか。
そう言えば、夏目漱石の『こころ』も、「下」はずっと先生の手紙で構成されていますね。『少年の日の思い出』も(手元に本がないので確認できませんが、記憶が正しければ)エーミールとごちゃごちゃやった人物が何年も経ってから「少年の日の思い出」を(語り手に向けて)話しているという形式だったと思います。どちらも、形式上は登場キャラが別のキャラに語っています。ライトノベル『バッカーノ!』の第1巻も大部分は“人から聞いた話”だったと思います(よく覚えていませんが)。
『アンネの日記』は言うまでもなく日記ですが、キティーという架空の友人に宛てた手紙のように書かれています。アンネは最初の部分に、「ただ日記をつけるより、こういう書きかたのほうがずっとおもしろいと思いますし、おかげさまでいまでは、つづきを書くのがほとんど待ちきれないくらいです」と書いています。
ちょっと変則的なものだと、重松清の『きみの友だち』という連作短編は(これも本が手元にありませんが)出来事の中心となる人物に語りかける形式で書かれています。つまり、「あのとき、きみは○○したね。そしたら××くんが~したから、きみは……と言った」というような書き方になっています(なっていたはずです)。読みながら、よくこんなトリッキーな形式で書けるなぁ、と思った記憶があります。
変則的なものをもうひとつ挙げると、星新一の『セキストラ』は、雑誌の切れ端やハガキ、何かの書類を集めた形式になっており、地の文がないばかりか、明確な主人公も存在しません(存在しなかったはず)。この場合、読者に見せる前のデータの寄せ集めという設定で、作中の位置付けとしてはそもそも読者を想定していない、ということになると思います。
探せば他にもあるかもしれませんが、とりあえずパッと思いつくものはこんなところです。
いくらかでも、ねおさんが小説を書く際の助けになってくれれば良いのですが。
長文失礼しました。
作者からの返信
あじさい様
応援コメントありがとうございます。
しかもこんなに詳しく書いていただいて、感激しております。
また、あじさい様の読書量の多さと知識の深さに、感服しております。
「こころ」や「少年の日の思い出」は昔学校の国語の教科書に載っていた文章を読んだことがありましたが、確かにそういう感じだったなぁ、と朧げに思い出しました。
(話がそれますが、「少年の日の思い出」は、主人公がエーミールのクジャクヤママユの標本を壊してしまって、「君はそんなやつなんだな」みたいな言葉を言われるのは強く印象に残っています。)
劇の人物が、同じ劇の人物に向けて語りかける手法は、書きやすそうですね。思えば、私もそういう感じで作った作品もありましたし、文章が書きやすかったなぁと感じました。
今度、そういう書き方を意識して、作品を作ってみたいと思います。
ありがとうございました!