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「クラウディウス、お前はそんなに急いでどうしたのだ」
気だるげな様子で王が寝台の上からクラウディウスに投げかけた。掛けられた布が不自然に盛り上がっており、誰かもう一人がその中にいるのだとクラウディウスは嫌でも気づいてしまった。眉間にしわを寄せたくなるのを我慢しながら、彼は努めて事務的な口調で尋ねた。
「ソフィア様が見当たらないのですが、どこにいらっしゃるのかご存知ありませんか」
「いいや。夕食であったきりだな」
「そうですか。失礼しました」
そうとわかればここにいる必要はない。一刻も早く立ち去ろうと背を向けて歩き始めたクラウディウスを王が呼び止めた。
「ソフィアのことはもう放っておけ」
その一言にクラウディウスは思わず立ち止まる。
「なぜでしょうか」
王は答えなかった。だが代わりにのっそりと起き上がり、その冷たい瞳でクラウディウスを見上げた。彫刻のように整った顔立ちだが、どこかがひどく歪んでいるとクラウディウスはいつも思う。
「なあ、クラウディウスよ。俺とお前はよく似ているな」
何を、とクラウディウスは一瞬王に対してあるまじき感情を抱いた。お前と俺のどこが似ているのだとクラウディウスは言い返したかった。
それを見透かしたように王はほくそ笑んだ。
「似ているとも。お前が昔誰彼構わず抱いていたことは有名だぞ」
「私は付き合う時は真剣に相手と向かい合ってきたつもりですが」
「そうか、それゆえに相手に幻滅して早々に別れを切り出したのだな。実に真面目なお前らしい」
クラウディウスは舌打ちしたくなる自分をどうにか抑えつけ、こんなことをしている場合ではないと王との会話を終わらせようとした。
「王よ、私の過去の過ちについては、また今度じっくりと話し合いたいと思います。なので今はどうか見逃して下さい」
「まあ、そう急くな。ソフィアならおそらく宮廷の中庭にいる」
「なぜ、そう思うのですか」
「聞いたことがあるからだ。俺が他の女と寝ている間、何をしているのかとな」
よくもそんなことがずけずけと訊けたものだ。クラウディウスは怒りを通り越してあきれ果てた。
「王よ、差し出がましいことだとは重々承知の上ですが、もう少しソフィア様の気持ちを慮って下さい」
「俺にそんな優しさがあれば、今ここで女を抱いていると思うか?」
にべも無く王は答えた。
「……そうですか」
クラウディウスはこれ以上話しても無駄だと、ここから立ち去ることにした。背を向けるクラウディウスに王は特に咎めることもなく、その姿を目で追いながら話し続けた。
「お前はかつて絶望したはずだ。その絶望ゆえに誰かを受け入れることを拒んでいる。俺は逆だ。絶望したからこそ、もはやどうでもいいと何もかも受け入れている。ここだけを見れば、確かに俺とお前は真逆の存在だと言えるだろうな。だが」
王はそこで一度だけ目を閉じた。ゆっくりと開いた黄金の瞳にはすでにクラウディウスの姿は映っていなかった。
「俺もお前も、どこかにたった一つの本物があると信じているんだ」
***
王の言うとおり、ソフィアは中庭にいた。彼女は夜空にぽっかりと浮かぶ月をじっと見上げていた。その横顔が儚げで、今にも消えてしまいそうに見えたクラウディウスは思わず焦った声で彼女に呼びかけていた。
その声にソフィアはゆっくりと振り返り、クラウディウスにあのいつもの無邪気な笑みを見せた。それにクラウディウスは安堵の息を吐くものの、すぐに彼女の軽率さに苛立つ気持ちがわいてくる。いくら王宮内だからといって夜更けに護衛も付けず一人でいることは危険すぎる行為だった。
「こんなところで何をしていらっしゃるのですか。今までさんざん探したんですよ」
さあ、早く戻りましょうとクラウディウスはいささか厳しい口調でそうソフィアに言った。だが彼女はそのまま突っ立ったままだった。それにクラウディウスは苛立ちを感じ、もう一度繰り返した。
「ソフィア様、さあ早く」
「私はもう城に帰ることはできません」
クラウディウスはソフィアの静かだが引くつもりのない様子にしばし驚く。彼女は今まで誰かにはっきりと反論の意見を述べることはなかった。
「なぜ、ですか」
「王が、ここを出ていけとおっしゃったので、そうするまでです」
何を言っているのだとクラウディウスはソフィアの言っていることが最初理解できなかった。ここに居たいがための冗談かとさえ思った。
「あの方が、そんなことを言うはずありません」
確かに王は数多くの愛人と関係を築いてきた。だが正妻というソフィアの地位が揺らぐことは決してなかった。王を誑かそうとした愛人の女性たちが、国民や家臣たちの不満や憎しみを一気に引き受けたことで、ソフィアを正妃として認めるべきだという意見が強く出ていたこともある。
だがそれ以上に王がソフィアを手元に置いていたこともまた事実だった。
確かに王はソフィアに愛を向けることはない。ならば私を正妃の座に、と図々しくも頼み込んだ女を王は城から追い出したことがあった。我儘を言わない、人形のようなソフィアの方がなにかと都合がよいと考えたのかもしれない。もしかすると最初からそれを見込んで幼いソフィアと無理矢理婚姻をしたのかもしれないとクラウディウスは考えたほどだ。
それを今さらながらなぜ変えようとするのだ。
「どうしても、手に入れたい女性がいらっしゃるそうです」
「ならば今までどおり、愛人として愛せばいいではありませんか。あなたが今の地位を降りる必要がどこにあるというのですか」
「その女性は、隣国の名のある貴族の娘だそうです」
クラウディウスは息をのみ、ああそれでかと何もかも腑に落ちた。
わざわざ外から嫁いでくる貴族の娘が、愛人という地位では納得できないので正妻という地位を無理矢理空けさせることをおそらく婚姻の条件としたのだ。
「あなたを王妃の座から立ち退かせ、代わりにその娘を座らせるということですか」
ソフィアは何もいわなかった。それが答えだった。
クラウディウスはどうして、と思わず言葉がもれた。ソフィアが心配そうに見上げるのも構わず、彼はぎりっと奥歯を噛みしめた。
「それで、あなたはどこに行くつもりなのですか」
「教会へ、戻るつもりです」
彼女にはそこしか帰る場所はなかった。いったい周囲の人間は何というだろうか。幼くして妻に娶った女が、王の好色のために捨てられたと知れば。
「あなたは、それでいいのですか」
ソフィアはそこでようやく困ったように微笑んだ。怒りもしなければ、嘆くこともしない。その曖昧な態度にクラウディウスはかっとなった。
「なぜあなたはいつもそうなのです。なぜあの王の仕打ちに黙って耐え続ける? なぜ何も言わない? あなたはあの王にこれっぽちも愛されてはいないのに!」
はっとそこでクラウディウスは自分の失態に気づいた。今のは言い過ぎだった。言ってはならないことをソフィアに伝えてしまった。純粋な彼女は、王は今もなお自分を愛していると信じて疑わない。
「申し訳ございません。失言でした。どうか今の言葉は忘れて……」
すぐに撤回しようとソフィアの方を見たクラウディウスは言葉を失う。ソフィアの目は全てを悟っているように穏やかで、悲しげだった。
ああ、とクラウディウスは眩暈がした。
(知っていたのだ。この方は王が自分を愛していないことにとっくに気がついていたのだ!)
考えてみれば当たり前だ。一番近くにいたのはソフィアだったのだから。王を誰よりも見ており、誰よりも愛していた彼女が気がつかないはずがなかった。
だがそうなると一つの疑問が、怒りにも似た気持ちがふつふつと胸の内にわきおこる。
「それであなたは、教会へ戻っても王のために祈り続けるのですか」
「はい」
ソフィアは迷いなく答えた。
「どうして、どうしてあなたは、何も言わない。どうしてまだ……王を愛そうとするのですか」
あんなにもソフィアは王を愛していた。
どこかで報われるはずだと信じていた。少女のひたむきな愛は王を変えるものだと心の奥底でクラウディウスは信じていたのだ。
愛はあるのだと。尊いものがあるのだと。そう、信じていたのに。
ソフィアはクラウディウスの様子に戸惑いながらも、すぐに微笑を浮かべながらささやくように答えた。
「クラウディウス様、私はあの方が誰も愛していないからこそ、その愛を捧げようと思ったのです」
はっ、とクラウディウスは今度こそはっきりと嘲笑した。
「何をいうのです。王はあんなにも多くの女性を愛していらっしゃるではありませんか。そのどこが誰も愛していないというんです」
「いいえ、自身の心が満たされないからこそ、彼は多くの女性を求めるのです」
ソフィアはふっと視線を逸らし、池のせせらぎをじっと見つめながら言った。
「あの人は誰かを愛しても、本当に心から愛することはありません。満たされたと思った心はすぐにまた空っぽになるのです」
ソフィアの言葉に驚きながらもクラウディウスはその通りかもしれないと思った。王はいつも飢えた目をしている。何かを渇望し、手当たり次第にそれを手にして何かが満たされたと思うのも束の間すぐにまた強烈な何かを探し求めるのだった。
そしてその姿はクラウディウスとも重なるのだった。ああ、王の指摘は正しい。自分とあの男は何かを探しながら、それを見つけられないでいる。
(だが、俺は――)
クラウディウスはソフィアを見つめながらこれから自分が取り返しのつかないことを行うことに運命の分かれ道を感じた。
「ならば、私の屋敷へ来て下さい」
クラウディウスはそういってソフィアが自分の屋敷へと来るよう提案した。自分が何を言っているのか、このことが王にばれたらどうなるか、もちろんクラウディウスはよく理解していたが己の行動を取りやめるつもりはなかった。
ソフィアはどうしてとクラウディウスを見つめていた。
「あなたはまだあの王が好きなのでしょう? 教会へ戻れば、王のことは今後一切耳に入らないでしょうし、会えることも一生ありません」
「でも、」
「本当にそれでいいのですか。まだ王を愛していらっしゃるのでしょう?」
畳み掛けるように問うクラウディウスにソフィアはぎゅっと衣服の裾を握りしめた。迷っている証拠だとクラウディウスは目敏く判断し、今度はゆっくりと幼子に言い聞かせるように言った。
「私は王に一番近い側近です。王が今日何を、どうお過ごしになったのか、誰よりも詳細にあなたに伝えることが可能です。あなたにとって、何一つ不都合なことはないと思いますが?」
まるで聖女を誑かす悪魔の誘惑だとクラウディウスは自嘲した。
ソフィアのガラス玉のような無垢な瞳が揺れ、その誘いにおずおずと頷いた時、クラウディウスは弱者を力でねじ伏せたかのような奇妙な優越を感じた。力なきものが生き延びるために許しを請う姿は、ひどくクラウディウスを満足させたのだった。
ソフィアは、本当にこれでいいのかと迷いながらも、半ばクラウディウスに押し切られるようにして屋敷へ連れて来られた。王から褒美として賜った屋敷だがめったに帰ることはなかった屋敷にだ。ここならば、王宮から遠すぎず、近すぎる距離でもないので何かと都合がいいだろう。
失ったものに王が興味を抱くことはもうない。これまでの女性と同じようにソフィアも過去の女性として忘れられていくだけだろう。あとはクラウディウスの方でうまく他の者たちに言い繕えばよかった。王の側近として実力も信頼も勝ち取ってきたクラウディウスには難しいことではなかった。
落ち着かなげに周囲を見渡すソフィアにクラウディウスは声をかけた。
「きみは私の召使いとしてここに住めばいい。もう王の妃ではないのならば、主従関係も何もない。敬語も、これからは使用しないことにする」
「……はい」
クラウディウスはあえて無礼といえるような態度でソフィアに接することにした。今までと同じようなへりくだった態度だと立場が変わったソフィアはどうしても落ち着かないだろうし、何より王の妃だという立場を忘れることができない。
失礼な態度だと怒って、開き直ってほしい。そうすれば、しだいに生きる気力もわいてくるはずだ。そういう不器用な考えがクラウディウスにはあった。
「私はここにくることはめったにないから、その間の掃除や家のなかのことは任せた。ただし、外に出てはだめだ。出るとしても、きみだとわからないようにしろ」
「はい」
「では……もう今日は寝るとよい」
「クラウディウス様」
一瞬クラウディウスは身構えたが、すぐになんだと何でもないように振り返った。
「あの、いろいろとありがとうございます」
「……礼をいわれる筋合いはない」
王妃としての立場から、奴隷のような身分として扱われているのだ。ソフィアにとってこれ以上ない屈辱的な出来事のはずだ。
だが彼女はありがとうとクラウディウスに感謝の念を込めて微笑むのだった。クラウディウスはそれから逃げるように屋敷から立ち去った。
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