ソフィア

真白燈

1


 男は礼拝堂の扉をそっと開けると、中で一心に神に祈りを捧げている少女に声をかけた。


「熱心なことですね、ソフィア様」


 ソフィアと呼ばれた少女が振り返り、男を仰ぎ見る。ガラス玉のような瞳は、ステンドグラスから差し込む日の光を受けていっそう澄んで見えた。


「こんにちは、クラウディウス様」

 

 少女は姿を見られたことが恥ずかしかったのか、はにかむようにしてクラウディウスに挨拶をした。その純真無垢な表情に、クラウディウスは苛立ちを覚えながらも、しかしその気配を微塵も出さずに挨拶を返したのだった。


***


 もう遠い昔のことなのにクラウディウスは今でも自分の家族と過ごした日々をはっきりと覚えている。それはクラウディウスが忘れることを許さないかのように心の中深く刻みつけられていた。


 心優しかった母は、年老いた祖母だけには冷たかった。まだ若かった頃に言われた冷笑や非難の言葉を、母親は決して忘れてはいなかったのだ。使用人にわざと祖母だけのご飯を粗末なものにするよう指図したり、丁寧な言葉でありながら祖母を邪険に扱っているのを、クラウディウスは幼いながらに敏感に察していた。


 だが彼は祖母に同情せず、何の感情もわかなかった。いや、むしろ当然とすら彼は思っていた。うっすらと禿げている部分が見え隠れしている頭部をかつらで補うように必死に手入れをする姿。皺だらけの皮膚に落ちくぼんだ目。ひん曲がった腰をさすりながら歩く姿は同情よりも恥ずかしさを覚えた。くちゃくちゃと音を立てながら、時にむせて咳をする祖母と食事をする時間が彼には苦痛で仕方がなかった。


 年のせいだとわかっていながら、人に嫌悪感を与えていることにすら気づかない祖母に苛立ちを抑えるのは難しかった。いや、それはまだいい。一番我慢ならなかったのは、あれこれと自分の将来について指図するその傲慢な態度がなによりも彼の癇に障った。


 自分の面倒すらまともに見ることができないものが、どうして他人の将来を心配できるのだろうか。祖母の孫を心配してこそと信じ切っているその精神に、クラウディウスはいい加減にしてくれと何度怒鳴り返したくなったかわからない。


 早く死んでくれ、と彼が思ったのか、はたまた彼の母親の願いが通じたのか、祖母はある日ぽっくりと死んでしまった。


 これでようやく解放されると思ったクラウディウスだったが、それもすぐに崩壊した。原因は父親の浮気だった。ただ愛人がいたというならまだいい。だがその愛人にはすでに多くの子どもができており、彼はその子どもの父親として、もう一つの家族を作り上げていたのだ。これではこちらの方が愛人と言えるのではないかとクラウディウスはその時思った。


 この事実に、母親は発狂した。愛を捧げてきたとばかりに思っていた夫は、何年、いや何十年も前から妻である自分を裏切っていたのだ。父親は決して女にだらしのない性格の人ではなかった。妻一人だけを真剣に愛する真面目な夫だと思っていただけに、母の精神はずたずたに切り裂かれ、もはや修復できないまでに壊れてしまった。


 母がもはや信じられるのは息子のクラウディウスだけだった。ヒステリックな叫び声をあげびながら、彼女は息子に呪いの言葉を吐き続けた。


 それは夫への恨みから姑に対する恨み、多くの子どもを産むことのできなかった自分への恨み、こんな自分を嫁に出した家族の恨みと、ありとあらゆる恨みが込められていた。


 クラウディウスは母の狂気をたった一人で受け止めながら、自分の中にどす黒い何かが生まれていくのを感じていた。それは彼が成長するとともによりはっきりと、抑えようがないほど巨大になっていった。


 結局母親は心労がたたって病気になり、クラウディウスに看取られながら息を引き取った。父親は最期の瞬間まで帰らなかった。


 一人になったクラウディウスは王宮の騎士団に入団することにした。王のためにこの身を捧げるなどの忠義心からでは決してない。騎士団に入団すれば、衣食住が保障されていたからだ。


 母親が亡くなった今、彼は二度とあの城へ帰るつもりはなかった。忌まわしい過去を封じるために、彼はたった一人で王国へと足を運んだ。


 彼の才能はみるみるうちに開花していった。敵に少しも恐れを抱かず、勇敢に立ち向かっていく姿は同胞たちを、名のある騎士を驚かせ、畏敬の念へと導いた。数々の称賛を浴びながら、クラウディウスは胸の内で冷笑した。


 彼はただ己の苛立ちや鬱憤を晴らすために敵を屠っているにすぎなかった。彼にとって無謀にも突っ込んでいく自分もまた獣と同類の存在であった。獣と獣がただ争っている戦いを褒め称える騎士たちはクラウディウスの本当の姿を知らないのだ。


 クラウディウスの戦績は王の耳にも届き、彼は王子の護衛役として抜擢されることになった。彼は正直うんざりしたが、王の命令なので背くことはできなかった。


 このまま自分はどこへ向かうのだろうと、無意味な生活を繰り返している時に一つの出会いがクラウディウスを変えた。


 教会の教えとやらを王子に教えるために毎週神父が城へと訪れる。必然的に護衛の役を任せられているクラウディウスも一緒に彼の話を聞くことになった。


 神父を見た時、クラウディウスは自分とは別世界の人間だと感じた。温厚で、慈愛に満ちた眼差しは、クラウディウスが歩んで来なかった人生を意味していた。神父の慈悲深い心を、教えを、彼は最初は信じなかった。だが、そんな彼も含めて、神父は優しく受け止めてくれた。


「クラウディウス、疑いたいのならいくらでも疑いなさい。その罪を、私がかわりに背負ってあげましょう」


 自分の罪を背負うなら、神父はとっくに罪人になってしまうとクラウディウスは嘲笑ったが、神父は優しく微笑むだけだった。神父の穏やかな性格に、クラウディウスはようやく自分の心に光が差し込むのを感じた。

 彼と一緒なら、自分も清らかな人間になれると、そう思ったのだ。


 だがそれはやはり都合のよい幻想だった。


「ああ、あいつらだ。あいつらがやったに違いない!」


 その歪んだ顔を、怒りに染まった顔を、クラウディウスは鮮明に覚えている。目の前が音を立てて崩れ去っていくのをはっきりと彼は感じた。立っていることができず、彼は地面に膝をついた。


 事の発端は、神父の懇意にしていた友人や仲間が殺されたことだった。異教徒に殺されたのではないかと疑われたものの、確たる証拠は何一つなかった。それなのに神父は彼らに違いないと断言した。憎しみで平静さを忘れていたのかもしれない。殺した犯人を何としても見つけだすことがせめてもの贖罪だと考えたのかもしれない。


 そうだ、だからこそ本当に殺してもいない異教徒を、しかも何の罪もない市民までも、断罪と称して殺すことができたのだ。


 神父の穏やかな表情はもはや見る影もなかった。澄んだ瞳は復讐の目で血走っており、クラウディウスの背を優しく擦ってくれた手には血で濡れた刃物が握られていた。


 吐き気が胃の中からせりあがってくるのを感じ、彼は押さえきれずにぶちまけた。久しく流していなかった涙が彼の目から流れ落ちる。


 祖母が邪魔者扱いされている事実よりも、父親がよそに家族を作っていたことよりも、母親が狂気に陥ったことよりも、何よりクラウディウスの心をうちのめした。


(どうして、どうしてですか、神父。あなたは、あんなにも慈悲深い方ではありませんでしたか、なのに、どうして、よりにもよってあなたが、)


 他の者ならよかった。許してやることができた。気にも止めなかった。だが、神父だけは、クラウディウスを絶望の淵から救い上げてくれた神父にだけはそんなことをして欲しくなかった。

 嗚咽を漏らしながら、彼は自分の心が痛くて堪らなかった。


(結局、人は変わるのだ。どんなに心優しい人間でも、何かをきっかけに醜悪な姿にその身を変えるのだ。ただの一人も、その例外はいない)


 そして自分もその一人なのだと、クラウディウスは痛切に意識した。その事実が彼をよりいっそう絶望させた。泣いて叫びたいと思うものの、すでに彼の心は枯れ果てていた。代わりにしんと冷えていくのを感じた。そしてまたあのどす黒いものが自分の心に蘇ってくるのを、息苦しさとともに認識した。


 それから彼は誰も信じようとしなかった。いや、できなかったのだ。たとえ仲が良くなったとしても、いつしかその人間もいつしか醜悪な側面を自分に垣間見せると思うと、もうその人間の傍にはいられなかった。


 だが同時に信じたい、本当の愛を得たいという飢えにも似た強い感情がクラウディウスを襲う。それはひどく矛盾した心だった。心の底ではそんなものないと身をもって思い知らされたのに、それでももしかしたらという希望を捨てることができなかった。


 彼は手当たりしだいに女を、時には男さえ抱いた。自分を愛していると謳う者ならば、どんな人間でも拒まなかった。体を繋げることが、身も心も許し合うことだというように。


 だが結果は変わらなかった。その最中は飢えを癒すことができても、行為が終わった後は、ただ虚しさだけが残った。けれどその一時の満足感のために彼は何度も同じことを繰り返した。そしてその分だけ何かを失った。彼に抱かれた者の中には、彼の飢えを満たす行為が愛だと勘違いして関係を迫るものもいたが、クラウディウスは冷たく払いのけた。


 信じて絶望して、また今度こそと無意味なことが何年も続き、クラウディウスはやがて何もかも面倒になった。疲れて果ててしまった。もういいと、思考を停止するかのようにクラウディウスは自分の心から目を逸らすことした。


 クラウディウスの枯れ果てた感情を再び激しく揺さぶったのは、ソフィアだった。


 ソフィアがクラウディウスの護衛役であった王子の、現在の王である婚約相手として宛がわれたのは、彼女が13歳の時だった。教会で祈りを捧げる姿が王の琴線に触れたのか、神父や家臣の反対を押し切って彼女を正妃の地位に就かせたのだ。


 だがそれもほんの少しの間だけだった。王はソフィアに永遠の愛をむけることはなかった。年が離れているにせよ、一度手に入れたものにはとたんに興味を失ってしまうのが王の性格だった。そして数カ月も経たないうちに、王は新たな番を求め、ソフィアの存在をいないものとした。


 ソフィアは、そんな王の仕打ちにもなんとも思っていないようだった。幼すぎてわからないのだと、クラウディウスをはじめとする周囲の人間は思った。その純真さに、女官たちはあんまりだと涙を流し、大臣たちは将来を憂い嘆いた。


 それでも成長したソフィアが王にむける眼差しには、態度には、王が愛しいという気持ちが存在していた。愛人といわれる女が何人いようが、時にその女との間に子どもを授かろうが、ソフィアの愛は盲目的なまでに王へ注がれた。


 ソフィアを見ると、クラウディウスは殺意にも似た心情を抱く。


(どうして信じられる? 信じようとする? あの男はお前に何の感情も持ち合わせてはいないのだぞ。これっぽちも、お前のことを愛していない!)


 ソフィアの王を崇拝するかのような愛がクラウディウスの神経を逆なでた。彼の人生を否定するかのようで、気に障って仕方がなかった。


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