第6話

 市営地下鉄東山線のコンコースに繋がる道を歩いて行く。

 ふと気付けば香ばしい焙じ茶の香りが徐々に棚引き始める。

 何処か懐かしく芳しい。

 暫く歩くと角地に煎茶道具や茶葉がワゴンに載ってディスプレイされているのを見て其処だと判る。

 “妙高園”と書かれた看板と店内の従業員の多さ、ゆったりと買い物をする御老体が目立つ。

 店内レジの背後に書かれた木製の品書きには茶のランク分けと価格が記されている。


「御注文はお決まりでしょうか?」と彼女の表情から把握出来るのか声が掛かる。

「お抹茶の妙高を25gと煎茶で何かお薦めの処と雁金に落雁を一つずつお願いします」


「おかけになって一服どうぞ」


「有難う御座います」と彼女がかけた隣に座ると正面に丁度釜から柄杓で茶碗に湯を注いで茶を点てる様子が伺える。


「これはまた風流な」


「しかも店名を冠した妙高を点ててくれるからね。初めて買い物しに来た時に一服戴いて『探してたのは、これだ』って買い足しちゃった位美味しいの」


 そして供された盆の上、一口分のぐい呑みに入った冷茶に点てられた一服が映える黒い碗と。

 小皿に乗った小指の爪程の落雁は和三盆糖だと彼女が教えてくれた。

 茶の前に口にするとすぅっと涼し気な甘さが広がる。

 充分に甘さを堪能すると甘過ぎず、疲れた体に染み入る事を実感した。

 其処に一口目を喫する。

 程良い熱さと共に香り高さと旨味が広がり、安い抹茶に有りがちな化学調味料を甘さの代用として持って来た様な味では無い。

良い碾茶のみを石臼で挽いた、混じりっ気無しの実に質が良い物だと茶の湯に通じていなくとも判る。

 

 二口半程で終わる量は後を引く。 

 試飲も兼ねているだろう事が良く解る。

 確かにこれは、購買欲を刺激してくる物だ。

 碗の口元を彼女から渡された懐紙で拭い、冷茶を喫すると清々しさを愉しめた。


「大抵お点前に金箔が入ってると吃驚されるのだけど、買う時に頼めば箔抜きを出して貰えるよ。茶席で箔入りだとちょっと面倒になるからね。でも名古屋の派手好き文化だって言えば、まぁ大体がね」


「なるほど」


「でも上手く点てると碗の中に星空が見えるから悪くはないんだけど」


「碗の中の夜空、ですか。茶の湯の哲学にも通ずる処がありそうですね」


 「御品物は此方で御座います。御会計は」と店員が紙袋を運んで来た。

「これで足りますか?」と彼女よりも早く財布から万券を出す。

 そして釣り銭は彼女に手渡す。

「え?なんでお釣りを?」


「あれこれ必要でしょうから持っておいて下さい。あと生活費もこれからは私が持ちます、いいですね?」


「否とは言えないパターンね?了解」


 冷茶を干して彼女は「ありがとう、御馳走様です」と立ち上がる。


「荷物は私が」

「うん、ありがとう」


◇◇◇◇◇◇◇


 確かにブランド店なら単純明快に名古屋が圧倒的に多いが、地元の腕利きの番頭が居る個人商店や、拘りのある個人商店に石の取り寄せやデザインを1から立ち上げるのも悪くは無い、と人通りを避けた壁際で話を纏めると、預けたままのスラックスやジャケットなどをピックしにタカシマヤに戻る事となった。

 彼女の歩くスピードが若干遅くなっている事と少し顔色が悪い事に気付く。


「少し休みましょう、私も人に酔った様です」

「うん…ぁ…」


 軽く目眩が来たのか、一瞬フラついた彼女に手を貸す。

 恐らくは睡眠不足と蓄積された疲労だと判断したが、念の為にかかりつけ医は近いのかを問う。

 「内科なら近いよ。早めに寝て、明日また調子が悪かったら行くから大丈夫」と応えが返るが、どうにも心配だ。

 連れ回すのは得策では無いと判断し、マリオットアソシアのラウンジで暫く休ませている間、タカシマヤに荷物を取りに戻る。


「すぐ戻ります。ゆっくりしていて下さい」

「うん、ごめんね」


 詫びる事は無いと額に口付けを落とすと席を立ち、早足で向かう。


 その背中を見送るとメニューに目を落とす。

 

 (あ、期間限定のハーブティー)

 

 レモングラスの文字に惹かれ、オーダーする。


 然程待たずにハーブティーのポットが砂時計と共に運ばれて来た。

 爽やかな香気に癒やされる。

 砂時計の砂粒の最後が落ちるのを待って、ティーカップの半分程を注ぐ。

 湯気と共に立ち上るレモングラスの香りと時間が経過すると共に薄い青色から琥珀色に変わる水色が、目にも楽しい。

 喉が乾きを訴えているが、猫舌にこの温度はちょっと辛い。

 先に出されていた水で喉を潤す。

 小さな氷の欠片を口に含み、転がすと僅かにひりつき始めていた喉にじんわりと染み入る。


 それから暫くして、干したグラスにウェイターが水を注ぎに来た辺りでハーブティーは飲める温度に近付いていたので、漸く喫する。

 ゆっくりと香りを吸い込みながら一口。

 独特の爽やかさと微かに刈りたての青さが残る風味が広がった。

 生の物では無いが、充分に美味しい。

 半分程を飲むとカップをソーサーに置いて、軽く目を閉じる。

 存外に身体が疲れている事もそうだが、左の薬指と先程額に落とされた口付けの跡がぽわんと僅かな熱を発している様に感じる。


 (もしかして、あれだけで仮の契約が?)


 身体の中に不思議な何かが感じられ、今迄感じた事の無い『気』の流れが体内に生まれている事が微かに解る。


 それは決して嫌な物では無く、ほんのりと暖かで。

 これ迄自分が知っていた《神》という概念から与えられた物よりも、遥かに好ましく思えた。

 (ノスフェラトゥか…ブラムストーカーよりも古の。陽の光を浴びていても何のダメージも受けていないし、多分今の私に干渉出来るなら始祖か神クラス。闇の眷族になるのも悪く無いか。もう元から似た様なモノだし)

 と、己自身に付いて回る加護にあっさりと決別する事を決めた。

 閉じていた目を開き、ポットから飲みかけのカップに注ぎ足して適度な温度よりもぬるくなったハーブティーを優雅に干す。

 面倒なのは神同士の巫の奪い合いだけで、巫自体の意思など取り合っては貰えない点だが、其の点で負ける人鬼では無い。

 儀式立てすら無くとも、他からの干渉をシャットアウトして、この身を護ってくれていると何故だか断じる事が出来ていた。


 夜の香りを纏う、漆黒よりも尚黑い姿の男。

 見る角度と機嫌次第でアレクサンドライトの様に色が変わる鋭く、強い意思が灯るあの眼と、漆黒の髪はクセのある質で。

 深い夜を切り取ればこれ程迄にしなやかで強く美しい存在になるのだと言われても納得出来てしまう。

 そんな男と情を交わす事になったのはまさに奇跡的だと思い返す。


「お待たせ致しました。行きましょうか?」と何故か手ぶらで、彼は戻って来た。

 

「あら、品物は?」


「今日中に宅配の手続きを済ませて明日には届く予定です。身軽な方が万が一の場合は助かりますから」


「なるほど。あとは帰るだけなんだし、何か飲んでから動いても良いんじゃない?」


「ならば、エスプレッソをダブルで」


 視線でウェイターを呼び、注文を済ませるとデミタスカップでそれは運ばれて来た。

 見ただけでも濃厚そうなエスプレッソを喫する姿すらも、様になっている。


「少しは楽になりましたか?」とカップを置きながら流れる様に問われる。

「うん、有難う。かなり良い感じ」と笑う。


「これからの時刻ですとJRの急行がある様ですが、座席の確保が分かりません」


「急がないから多分反対側ホームの普通列車にすれば二人でゆっくり帰れるよ」


「貴女に問題が無いなら、そのプランで参りましょう」

 

 共に最後の一口を喫して、ラウンジを出る。

 其処からは順調に快速列車の席が空いているのを確かめて乗り込む。

 名鉄よりも速いJRのお蔭でスピーディーに地元に戻る。

 自宅に戻ると緊張の糸が切れたのか、溜息と共に力が抜けた。

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