第4話
―金属のタンブラーに氷と櫛形にカットされたレモンが軽く搾られ、コーラが注がれると爽やかな香気が漂う。
ほんの一手間だと彼女は何気無く言うが、その一手間がなかなか出来ないのが普通だ。
「取り皿、此処に置いとくね」とナイフとフォークが念の為にと置かれ、水出し紅茶が張られたフィンガーボウルがそれぞれ置かれる。
察するに今はナイフとフォークでは無く、手掴みで食べるのが正解であろうと考えを巡らせる。
まだ熱い箱が開けられ、アスパラガスの緑とコーンの黄色、如何にも焼け目が美味そうなベーコンの色彩が鮮やかに目に飛び込む。
そして、半分はハムにポテトサラダが乗った子供も喜びそうな物だった。
共通点はマヨネーズが使われている処かと思案を巡らせる。
「熱い内が華だから試食してみて。無理なら即パンに切り替えるから」と気遣いを見せられ、アスパラガスの乗った一切れを皿に載せる。
「「いただきます」」と一礼して早速口に運ぶ。
シャッキリとしたアスパラガスの歯応えと甘さにベーコンの風味と少し焦げたマヨネーズとコーンの旨味が香ばしい生地によく合っている。
よく咀嚼して飲み込む。
少しくどくなればレモンの風味がするコーラでリセットすれば良いのだと判断を下す。
「どう?」
「これは美味い。イタリア人にしてみればピザにコーンは不思議な取り合わせでしょうが、日式だと言い切ってしまえば日本人の発想勝ちです」と自然に頬が緩むのを感じる。
美味い物を安心出来る環境で恋人と呼べる存在と食卓を囲んで食べる幸せなど、到底自分には縁無き物だと思い込んでいただけにこの幸せは望外であった。
一切れを食べ終えコーラを口にすると随分と久方ぶりの炭酸の手荒い歓迎が舌を刺す。
最初の一口には若干の違和感があったが、二口目からは難無く飲み込めた。
ふと目をやると小動物の様にピザと格闘している彼女が微笑ましく映る。
(これは…葉野菜を与えた兎に似ている)
と連想したが口には出さず、もう一方のポテトサラダとハムが乗った物に手を伸ばす。
温かいポテトサラダは微妙であろうと思ったが、これもまた意外であった。
酒を嗜む者ならば此れでビールだのチュウハイだのと浮かれて喜ぶのであろうし、子供達は子供達で喜んで次へと手を伸ばすのであろう事が想像に難く無い。
「そっちはどう?」
「ポテトサラダが乗っている分、食べ応えがあります。それにこれも日式のチートさが良い。スタンダードなマルゲリータも良いが、こういう捻り技のピザもなかなかどうして」と満足を伝える。
「タバスコもあるから使うのも良いし、カイエンヌペッパーが個人的には水っぽくならないからお勧めかな?」とフィンガーボウルで片指先を洗ってから、キッチンの香辛料棚よりタバスコとカイエンヌペッパーの瓶を器用に握ってテーブルに並べる。
「カイエンヌペッパーは昔馴染みだったお店でタバスコ代わりに使っていてね」
「今、その店は?」
「移転したのだけど屋号も変えたのか幾ら検索しても見つからなくて。
あと移動式の石窯オーブンで焼いてくれて、その場で頂くお店も最近近くに来てくれないなぁ」
「まだまだこの先二人で見付ければ良いだけの事です。これから先は永いですよ?」と不敵に笑いかけると彼女は驚いた様な表情で真っ赤になっていた。
「可愛らしい人だ、貴女は。そんなに大したことなど言っていないのに」
「いや。そんな顔で不意討ちされたらそりゃ赤くもなりますって」
「だからいじめたくもなる。だがそれでは嫌われてしまいますから」と受け流す。
「はぁ〜もうやっぱり勝てる気がしないよ、人鬼さんには」と彼女が首を竦める。
「何故今頃『さん』など付けるのですか」
「敵わないから。どんな勝負しても勝てやしないだろうし、だから敬称付けよっかなって」
「そんな事ですか。それなら私は貴女に勝てない事が沢山あります」
「え?」
「私には他人に共感する感情がほぼ欠落しています。それに誰かを和ませる事も出来ない。だが貴女にはそれが出来る。私自身が貴女に救われている。だからWin-Winの関係でありたい」
「Win-Winじゃなくていいよ。貴方が貴方であればそれでいいから。私は人鬼とか人喰いって呼ばれる貴方も含めて愛しているから」
「私が私である…ですか。
今、こうして貴女と共に食卓を囲んでいる幸せを噛み締めている私も私です。
そして人鬼や人喰い、凶王、怪異などと呼ばれる私も間違いなく私です。
以前と違うとすれば貴女を愛した故の強さと脆さが生まれた事、でしょうか。いけませんか?」
「いけないだなんて思わない。嬉しい。幸せだよ、私も」
「ならば良い。さぁ冷めますよ、折角のピザが」
「うん」
―これから先、彼女と過ごす未来は陽の当たる穏やかな日ばかりでは無いだろう。
だが互いを尊重する気持ちと思い遣りさえ忘れなければ幸せは続く。
それを願いながらまた一切れに手を伸ばした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「そのスープはどうするのですか?」と問うと。
「明日の朝にでもと思ったけど、夜に回しても構わないよ」
と応えが返る。
「明日、起きるのが楽しみです」と率直な感想を述べると彼女は洗い物を済ませた手を拭きながら、良かったと笑う。
「夜は肉じゃがかすじコンかな。すじは以前下拵えした物を冷凍してあるから」
「すじコンですか。関東ではあまり見掛けないものです」
「そうなんだ?美味しいと思うよ。すじ肉文化は多分西のものだと思うから関東では馴染みが無くても当たり前かな。後、すじ肉でスープとか作っても美味しいよ」と語る。
ピーピーと電子音が聞こえると彼女は立ち上がって洗濯機のある場所に向かう。
パンパンと洗濯物を伸ばす音が響く。
洗濯籠に先程洗ったインナーやシャツが積まれたものを抱えてまた現れる。
そのままベランダに向かうとサッシを開け、手際良く干してゆく。
ただ黒いドレスシャツだけは籠の中で、押入れからアイロンとアイロン台を出し、此れもまた手際良く仕上げてゆく。
ハンガーに掛け、ベランダへとまた向かい干し終わるとアイロン台などを端に避け、戻って来る腰を片腕で攫う。
「ふぁっ!?」
「そんなに驚きましたか」
「いきなりだもの、そりゃ驚くよ〜もぉ」とされるがままになっている。
「着替えてシャツの替えなど買いに行きがてらデートなど如何でしょうか」と提案してみる。
「こんな田舎の百貨店だから、寧ろ名古屋のタカシマヤとかのがちゃんとしたものが買えると思うけど。
それかAmazonとか、ブランドさえ決まっているなら即日配達とか出来るサイトとか」
「此処からですとタクシーで駅に向かって電車が妥当ですか。そのままタクシーで名古屋迄向かっても構いませんが」
「せめてそこはμスカイの指定席位にしようよ」
「ミュースカイ?」
「そう。東海地区の私鉄である名鉄が誇る快速電車。JRよりお高い割に遅かったりもするけどね。でも本数だけは多いから」
「では着替えを手伝いましょうか」
「着物でも無いんだから大丈夫よ?」
「ただ触れる口実が欲しいだけです」
「もう…好きに触れて構わないから、ちょっとだけ待って?」
「左肩、痛めておいででしょう?ブラのホック位はとめさせて下さい」
「やっぱりバレてたみたいね。有難う、助かる」と彼女は簡単に無防備な背中を見せる。
信頼されているのであろう事に胸が温まる。
しかし随分と白い肌だ。しかも年齢的に不相応な木目の細やかさと滑らかさで弛みも無く。実に手触りが良い。
其処に黒のコントラストが加われば挑発的に見えるのは仕方も無い。
「留め終わりました」
「うん。ありがとう」と言いながら彼女は前傾姿勢でカップの調整に入る。
こういった下準備がかかる点で女というものは大変なのだと見て取れる。
―そして黒のレース使いが繊細かつ大胆な首と手首迄を隠すが、隠しているよりもヌーディーな透け感のある、胸元からは裏地に隠されたトップスを身に纏い、マーメイドラインの黒いミモレ丈のスカートを合わせた。
一歩間違えば下品になるが、彼女の持つ気品と上質なレースが実にエレガントに映る。
其処に随分と大粒のアメジストの雫が胸元を飾り、イヤリングはやはり僅かに淡い雫形のアメジストだ。
癖なのだろう、左の薬指に琅玕翡翠の様にとろりとした新緑の様な石が光る指輪を挿そうとするのをそっと手を添えて止める。
「この指は心臓に繋がる大切な物。ならば私がその心臓に繋がる者として、飾る印を贈らせて頂きましょう」と手を取って薬指に口付けを落とすと一瞬、薔薇の花の様な紋様が浮かんで消えた。
「…貴方となら、契約を交わしても構わないよ?」と一瞬の逡巡の後に彼女は断じた。
「やはり貴女は何らかの存在に護られていましたか」
「まだ詳しくは言えないけれどね」
「そうですか。私はノスフェラトゥの扱いになります。不死だけでは無い天運を持つ者。故に時の移ろいに彩りなど無くなっていました。今迄は」
「常若の呪い?」
「その考えでほぼ合っています」
「私が、共に歩む事を赦されるなら」と彼女が微笑む。
「貴女でなければ」と笑みを返して抱き締める。
この体温が愛おしい。
生まれた先の一族郎党はもう居ない。
生き残ったのは自分だけ、そして生きるに困らぬ天運が付き従った。
『人喰い』『人鬼』『凶王』『怪異』様々な名で呼ばれ、元の名など忘れたに等しい。
純粋に発音が『カイ』であるだけで彼女からは何等悪意は感じられず、名前として呼ばれる事に抵抗はこれからは無くなりそうだ。
「どうしたの?」
「いえ、この温もりがただ愛おしくて」
「私はこれからずっと傍に居るから大丈夫」と抱き締め返して来る事が胸に灯りを点した様に温かみを伝えて来る。
「指輪は揃いでしょうか?」
「無くても構わないよ」
「私の気が済みません」
「じゃあ一緒に選べばいいね。タクシー呼ぶよ?」
彼女の声は楽しげに響き、僅かな時間で来たタクシーに乗り、移動が始まった。
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