第262話 鬼は誰か


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 天正十一年五月十七日。


 近江坂本城にあった明智光秀の元にも出陣の命が下り、その準備の最中、来訪者が訪れていた。


 やってきたのは羽柴家臣、黒田孝高。


 しかし深夜。

 あまりに遅い来訪であった。


 そしてその孝高が連れて来た同行者に、光秀は目を丸くすることになる。


「――これはどういうおつもりか」


 毛利家臣・安国寺恵瓊。

 その同行者は、ここにはいてはいけない人物であった。


「明智様にお会いしたく、我が毛利家の……いえ、足利義昭様の使者として参りました」

「義昭様の?」


 光秀はかつて、足利義昭に仕えていた経緯がある。

 途中でこれを見限り、信長についたのであるが。


「まずはこれを」


 渡された書状は義昭直筆の御内書である。

 一読した光秀は、その内容に顔をひきつらせた。


「これは、まことに義昭様がお考えの事か」

「もちろんでございます」


 恵瓊が頭を下げる。


「これには信忠様に、朝倉家包囲の一角を担うよう、仲立ちをせよと書いてある」


 かつて義昭は筆をもって反織田勢力を糾合し、信長を窮地に陥れたことがある。

 そしてその義昭は、毛利家にいる。


 これは窮地にある毛利家が泣きついた結果だろうと、光秀はすぐにも悟った。

 つまりはその程度のものである。


「このようなこと、叶うはずも無い」

「本当に、そうお思いか?」


 不意に孝高の声が滑り込んだ。


「いかなる意味か」

「頭の良い明智様らしくもない。ここに私がいる意味を、ご考慮されましたかな?」


 そうなのだ。

 ここに秀吉の家臣がいる意味。


「まさか、羽柴殿の元にも」

「如何にも。そして私が安国寺殿と同行した意味を、お考え下さいませ」


 つまり、すでに秀吉は受けたということか。


 それは、どういうことなのか。

 身震いがする。


 そんな光秀の様子を眺めながら、孝高は続けた。


「毛利殿、長宗我部殿はすでに同盟を成し遂げ、さらに大友殿とも毛利家は婚姻同盟を結びました。血気盛んな島津に関しては、義昭様が仲立ちをして和睦も相整っております。西国の諸大名、一致団結とはいかずとも、その形は成ったのです。ここで我が羽柴家が翻れば、如何なるか」


 定まりかけていた天下の趨勢が、一気に分からなくなってしまう。


「……そのようなことに、意味はあるのか。天下泰平の世が、遠のくだけではないのか」


 ここで羽柴家が翻り、朝倉政権が早くも瓦解すれば、再び乱世に立ち戻ることだろう。

 天下統一など、遠い先のことになる。


「ただ天下泰平の世が訪れれば良い、というわけにはいかぬのです。誰がこの日ノ本の主となるか、その選定は綺麗ごとではすみますまい」

「それは朝倉晴景様ではないと申すか」

「かのお方は確かに優れたお方です。が、一人のお力ではなかろうというもの」

「……奥方のことか」


 黙って、孝高は肯定の意を示す。


「かの方は人知の及ばないところがあります。乱世ならばこれをまとめる力は確かでありましょうが、泰平の世であれば乱を求めずにはおれない、傾城傾国の者でありましょう」

「それは……」


 否定はできない。

 それはつい昨今、身に染みて思ったことでもあった。

 嬉々として長宗我部を滅ぼすと宣言した時に。


「そして、かの方は人ですらありませぬ」

「―――――」


 そうなのだ。

 人は必ず滅びるもの。

 あの織田信長ですら、あっさりと滅びてしまったのだ。


 しかしかの狐姫は妖。

 どれほどの時を生きながらえるのか、分かったものではない。

 気分次第でこの先、乱世と治世を掌に弄ぶのだろう。


「この日ノ本の歴史において妖は数多くおりましたが、されど国を治めたものなどおらぬのです」

「……だが、姫は善政を心得られておる。あれほど民に慕われている者も、そうはいまい」


 北ノ庄の発展と繁栄ぶりをみれば、嫌でもそれが分かる。


「それは朝倉晴景様の存在あってこそでしょう。かの方に何かあれば、人の世の幸などに共感などしなくなるやもしれませぬ」


 確かにあのような傍若無人な姫が、こうも善政を敷くことは、やや解せぬところではある。

 信長がそうしていたように、絶対的強者として振る舞っていた方が、まだ合点がいくというものだ。


 そこで出てくるのが朝倉晴景である。

 どのような手練手管を用いたのかは知る由も無いが、確かに両者の良好な関係を鑑みれば、晴景が健在なうちは滅多なことはやらないかもしれない。

 そしてたとえ振りであったとしても、善政を敷くのだろう。


「お分かりか? 今この日ノ本は、そのような危うい姫に支配される寸前まできているのですぞ」


 まるで光秀を非難するかのように、孝高は初めて感情を込めてそう言い放つ。

 光秀としては、返す言葉すらない。


「……ここで一時、乱世に立ち戻ったとしても、その先に天下統一を果たす者は誰であれ、かの姫よりはましな存在であるはずです」

「…………。では何故、羽柴殿はこのような連合を提案なされたのか」


 あのような連合政権の発足を提案しなければ、朝倉家の力は一気にあそこまで増大しなかったはずだ。

 そしてそれならば、やりようなどいくらでもあったのではないか。


「賭けにございます」

「賭け?」

「然様。あのままじわじわと朝倉家が諸国を糾合していけば、もはや手が付けられませぬ。が、一度に大きくなれば、綻びも生じやすくなるというもの。あれほどのお方を討ち滅ぼすには、外からだけでは足りぬのです。内外から同時にやらねば、勝機など元よりございませぬ」


 ここで明確に討ち滅ぼすという言葉を孝高が使ったことに、光秀は戦慄した。


「つまり、好機は今しかない……と?」

「そうは思いませぬか?」


 分からない。

 分からないが、その通りかもしれない。

 今を逃せば二度と好機は訪れないのかもしれない。


「されど……されど。信忠様はお受けになるまい。朝倉との戦をむしろ恐れているお方だ。すでに屈してさえおられる。早晩、織田家は朝倉家の臣下に成り下がるであろう……」

「であれば、明智様が自ら動かれる他ありませぬな」

「私を唆すつもりか」

「救国の士は一人でも多ければと思ったまでにて、我が腹の内を打ち明けたのです。ですがこれをけしからぬと思い、かの姫に忠義を尽くすおつもりであるのならば、遠慮なくこの首を刎ね、羽柴の造反を密告し、後世に汚名を残されるがよろしかろう」

「――――」


 またもや光秀は返す言葉を失った。

 十二分に時がたち、ようやく光秀は絞り出すように告げたのである。


「……帰られよ。此度の話、聞かなかったことにする」

「……は」


 孝高は頷き、恵瓊と共に未練もなくその場を退出した。


 一人残された光秀は苦悩しつつ、ふらふらと自室へと引き揚げた。

 そこでぎょっとなる。


 奥の奥に隠すようにしまい込んでいた例のしゃれこうべが、待っていたとばかりに居室に転がっていたのである。

 落ちくぼんだ眼窩は何も言わない。言うはずもない。


 だが、光秀には。


 信長が笑っているように思えてならなかった。


     ◇


「残念ながら失敗であったな」


 帰路を急ぐ孝高へと、恵瓊は苦悩を滲み出してそう洩らす。


「いや、そうでもありますまい」

「されど」

「こうして我々が生きて帰れた時点で、望みはあるというもの」


 むしろほぼ成功であると、孝高は考えていた。

 明智光秀への調略を、である。


 朝倉家臣への調略は、まず成功しないというのが孝高の基本的な考えであった。

 陪臣にまでなればその限りではないかもしれないが、直臣であれば色葉への忠誠心が異様に高く、まず裏切る要素を見いだせないのである。


 それに朝倉家の勢力は今まさに旺盛。

 あえてこれを見限ることもありえない。


 だが光秀は朝倉家臣としては新参衆。

 そして信長に最後まで付き従ったことからも分かるように、その影響が未だ濃く、色葉の影響を受けずにいる。


 そして鈴鹿姫。

 いつぞやの夜に孝高と光秀は招かれ、事細かに色葉の話を聞かされた。


 我が事の誉れのように上機嫌で話す鈴鹿ではあったが、その内容を改めて客観的に振り返れば、聞き捨てならないようなことも多数含まれていたような気もする。

 色葉に毒されていればさほど思わないようなことであっても、光秀であれば違和感を覚えたに違いない。


「種は撒いたのです。ひとまずはこれでよしとしましょう。やや危ない賭けではありましたが、打てる手は全て打っておかねばなりませぬからな」


 孝高とて、光秀を調略して即座にどうこうしようと考えていたわけではない。

 単に朝倉家の内情を知り得るための、より正確な情報源が欲しかったに過ぎなかった。


 そしてどういうわけか、新参衆にも関わらず、光秀のことを色葉は評価しているようで、待遇は悪くない。

 松永久秀が死した後は京を任されるであろうとの、専らの噂があるくらいである。


「ともあれかの姫を戦場に引きずり出し、消耗させるのです。此度の戦には時をかけ、姫自身を疲労させる」

「……何とも消極的な策ではないかと思うがな。そのためだけに、毛利や羽柴、その他の将兵がどれほど犠牲になるか」

「数万程度の犠牲で済むのならば、安いものです」


 その何気ない孝高の言に、恵瓊はぎょっとして見返した。


「かの姫の死を願う以上、数万は必要な生贄でしょう」

「……おぬし」


 生唾を飲み込みながら、恵瓊はそれを口にせずにはおれなかったという。


「おぬしこそが、鬼やもしれぬな」

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