第237話 羽柴家の行く末
◇
北条家の衰亡に、織田信長の死。
この情報は瞬く間に周辺諸国にもたらされた。
特に織田領での変事を注視していたのは羽柴秀吉である。
「ううむ。まさか、このようなことになるとはな……」
勢力を縮小したとはいえ、織田家は未だ健在で侮れる存在ではなかった。
しかし今回の一件は、秀吉をして想像できなかったともいえる。
美濃での変事を知った秀吉は、ただちに軍勢を整えて弟の羽柴秀長の居城となった大和郡山城へと進軍。
伊勢方面への進出の機会を伺いつつ、情報の収集を行っていたのだった。
「秀長よ、わしは一体どうすれば良いのじゃ?」
かつての主である信長の死に関しては思うところもあったが、それはそれとして情報を収集すればするほどその複雑さを目の当たりにすることになり、秀吉は自分が如何に動くべきか図りかねていたのである。
「もはや下手に動けませんな、兄上」
難しい顔になって、秀長も唸った。
「織田領での内乱は伊勢進出の好機かとも思いましたが、どうも朝倉殿が関与している様子……。下手に漁夫の利を狙いますと、かの姫の不興を買いかねませぬぞ」
動機はともかくとして、織田信忠が父・信長に対して反旗を翻した――これはいい。
未だに秀吉なども信長は優れた主であったと思っているが、だからこそ謀反という手段を取らなければ、それこそ一生、その上を目指すことは叶わなくなる。
秀吉にとって謀反は一世一代の大博打だった。
そして今のところ、その賭けには負けていない。
一方、信忠は黙っていてもその跡目を継ぐことができたというのに、わざわざ謀反を起こしたとなると、秀吉とはまったく別の心境を動機としたのだろうが、謀反は謀反である。
何が変わるわけでもない。
「伊勢の織田信雄は殿に似ず無能であるからのう……。今頃右往左往しているに違いない。これを奪うに絶好の機会であるのだが」
秀吉にしてみればこの機に伊勢、志摩を平定し、尾張へと進出できればと考えていたのだ。
畿内だけでなく東海道の一部も抑えることで、朝倉家との今後の関係を有利に運びたいという思惑もあったのである。
「状況からして、朝倉は織田信忠についたと見るべきですからな。信雄が信忠に従うのか否か……もし恭順するのであれば、これを討っては朝倉との関係に問題が生じてきますぞ」
「いったいまったくどういう状況でこういう話になったのか……さっぱり分からんわい」
あちこちに手を打つのは如何にもあの姫らしく、やはり油断も隙も無い。
織田家などは朝倉家にとって仇敵であろうに、このような合理的な判断もする。
実際、朝倉家は信濃や甲斐にあって織田・北条家を相手に二正面作戦を強いられ、決して楽な戦では無かったはずなのだ。
秀吉にしてみれば、朝倉家の力が強大になり過ぎないでいてくれるのは、むしろ好都合である。
朝倉が苦戦している間に力を蓄え、状況に応じて織田領をかすめ取り、恩を売りつつ外交上でも有利に事を運ぼうと考えていたというのに、これだ。
終わってみれば、朝倉家にとってもっとも理想的な形で事は終結したとさえ思えてしまう。
さてどうしたものかと秀吉と秀長の兄弟二人は頭を痛めていたのであるが、数日後、遅れて大坂より駆け付けて来たのが黒田孝高であったのである。
「おお、官兵衛。来たか」
孝高は四国の長宗我部の動きを牽制するために、大坂城に残って対応していたのであったが、信長の死を知って慌てて大和郡山城へと秀吉に会うべく馬を走らせてきたのであった。
「――殿、安心致しましたぞ」
会うなり開口一番、そう安堵してみせた孝高に、秀吉などは首をひねってみせる。
「なんじゃ? わしは息災であるぞ?」
「殿の健康など今はどうでも良いのです。軍を進められたのかと心配して参った次第なれば」
「ど、どうでも……」
「――官兵衛よ。どういうことだ?」
何やら狼狽する兄に成り代わり、秀長が孝高へと問い質す。
「大和に入る前に京にて情報を集めましたが、今回の一件で大きく情勢が変わったとみるべきです。迂闊に動いては命取りになりますぞ」
「そのように由々しき事態か」
「はい」
天正の政変により織田信長は死に、北条家はほぼ滅亡した。
まず北条家であるが、これに取って代わって相模、武蔵を平定したのが徳川家康であり、朝倉家はこれを支援しているという。
「小田原での変事についての詳細は未だはっきりとはしませぬが、事前に朝倉と徳川が共謀したのは明白です。今のところ何かしらの盟約が結ばれた気配は無いとはいえ、朝倉家に好意的な勢力が関東に根付きつつあることになります。そして徳川も、北条の残党を殲滅しつつ、関東に勢力を伸ばすには朝倉家の後ろ盾が不可欠ですからな。でなくては佐竹などにかすめ取られかねません」
関東方面はこれに加え、元より朝倉に好意的な上杉家が上野国を得、その影響力を伸ばしている。
恐らくこれは色葉の差し金であり、徳川だけに関東を治めさせる気は無いという証左だろう。
手堅い布石とも言える。
「聞くところによりますと、上杉の領国でも謀反があり、その首謀者をかの姫は朝倉家臣として取り立てたとか」
「なに? それは初耳であるぞ?」
秀吉にしても、遠い越後の情報までは伝わっていなかったのである。
「京で商いをしている商人が、舞鶴湊経由で仕入れた情報なれば、信憑性は高いかと」
「して、どうなったのだ?」
「謀反の首謀者は新発田重家。色葉姫はこれを家臣とし、そのまま本領安堵を上杉景勝に認めさせたとのことです」
「なんと」
秀吉は色葉の所業に戦慄した。
よくぞ景勝はこの要求を容れたものだと、秀吉は身震いする。
「上杉と朝倉の関係は良好なのだろう? にも関わらずこのようなことをするとは……」
「今の上杉家に、朝倉家に対抗する術などありませぬ。もし上杉景勝がこれを受け入れなければ、とうに滅ぼされていた可能性すらあります」
「ううむ……」
「だからこそ、殿もご油断されてはいけませぬ」
朝倉家と羽柴家の関係は悪くない。
悪くないが、だからといってそれが絶対の安心に繋がるかといえば、そんなことはあの姫の前ではあり得ない、ということである。
「そして織田家についてですが」
「おう、そちらは如何なったか」
「織田家臣の大半は、信忠の家督継承を容認しているようです」
「つまり、大きな混乱はこの先起きない、ということか?」
秀長に確認されて、孝高は頷く。
「そうでもありませぬ。美濃や尾張に関しては確かに盤石で、伊勢の織田信雄の動向はいささか不透明ではありますが、滝川一益が信忠の命で兵を率い、伊勢に向かったとの情報もあり、恐らく帰順することでしょう」
「なるほど。下手に動かんで正解であったか」
「はい。しかし三河の柴田勝家の動きが不穏です。独自に兵を集め、信忠の招集に応じる気配が無いとか」
勝家は織田家随一の猛将であり、丹羽長秀が朝倉家に捕らえられたままになっている今、まごうことなき家臣筆頭である。
これが信忠に従わないとなると、一波乱起きる可能性は十分にある、というわけだ。
「これに対し、朝倉晴景殿が三河国境に兵を進めたとか」
「戦になったか」
「いえ、そこまでの情報は未だ届いておりませぬ。とはいえこの動きが信忠の要請に応えたものであるのならば、やはり朝倉は新たな織田家に対し、少なくとも敵視政策を変更したと考えられます。となると、我らとの関係にも影響を及ぼすことになるかと」
「そうか。それはまずいぞ……!」
孝高の言いたいことを察し、秀吉は唇を噛んだ。
今のところ朝倉家と羽柴家は、織田家に対抗するという一点で利害が一致している。
しかし信長が死んだことで朝倉家が態度を変えたとなれば、朝倉にとっての羽柴家の意義が薄らいでしまうのだ。
「関東方面は上杉や徳川に任せたとなると、当然こちらに目を向けてくる。あの姫が天下を目指すのであれば、我らは邪魔ということに……。兄上、これは如何にも危のうございますぞ」
秀長も事の深刻さに気付き、顔を青ざめさせた。
朝倉にしてみても、羽柴家のこれ以上の勢力拡大は望まないはず。
どさくさに紛れて伊勢など狙おうものなら、あの色葉姫のことである。場合によっては気分を害し、あれこれ理由をつけて武に訴えてくるかもしれない。
上杉ですらやられたのだから、関係の浅い羽柴家など歯牙にもかけないだろう。
あれは、そういうことのできる人物である。
そしてその朝倉家は武田家という強力な同盟相手を失いはしたものの、代わりに信濃と甲斐を新たに手に入れ、その遺臣らも家臣としたならば、もはや周囲に単独で抵抗できる勢力は無くなったに等しい。
「今は柴田勝家の件で、まだ朝倉の目はこちらに向いていない可能性が高くあります。その間に戦勝を祝す使者を送り、機嫌をとって、おもねる他ございません。それと同時に情報を集め、かの姫が今後をどう考えているのかを知り、対応していく他無いでしょう」
とにかく今は時を稼ぐのです、と孝高は具申した。
秀吉としても頷く他ない。
「では、誰を遣わすか」
「殿、恐れながらこの官兵衛めをお遣わし下さいませ」
「官兵衛が自ら行くと申すか」
「かの姫はご存知の通り、難しき方。私はいくらか縁がありましたゆえ、それを活かすことでどうにか対応できるかと」
「……確かにあれは恐ろしかったのう。されど美しくもあった。もう一度見たくはあるのだが」
怖い怖いと言いながら、呑気にそんな感想を加えることができるあたり、やはり秀吉も大物なのかもしれない。
「近いうちにその可能性もありますれば」
「なに?」
「そうならぬよう、微力を尽くして参ります」
孝高にしてみても、今回ここまで情勢が大きく動くとは想定外だったのである。
秀吉を天下人に押し上げるのを志す孝高にしてみれば、朝倉の勢力拡大の速度は速すぎた。
このままでは手を尽くす前に呑み込まれてしまう。
これもみな、自身の力不足によるところだろう。
どうすればあの姫に勝つことができるのか。
秀吉に天下を統べてもらえるのか。
しかし今は良案も無く、敢えて色葉の前に飛び込むことで活路を見出すべく、孝高は覚悟を決めたのだった。
時代の流れが加速しつつあったのである。
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