第236話 天正の政変


     ◇


「光秀よ」

「はっ」


 岐阜城の天守にあって、信長は最後まで仕えた光秀を呼ぶと、おもむろに声をかける。

 信忠謀反により、信長に従った重臣で主だった者は、もはや光秀を残すのみと言って過言ではない状況である。


 光秀を始めとする明智一党はよく戦い、これまでこの城を死守してきたが、それももはやこれまでという瀬戸際まで追い詰められていたことは、確認する必要も無い事実だった。

 あと一度、総攻撃となれば確実に岐阜城は落ちるだろう。


「まさか最後に残ったのが貴様だったとはな」

「まさかとは心外な仰せ。この光秀の忠誠をお疑いか」

「ははは。許せ」


 信長は笑うと、眼下に広がるかがり火を目を細めて見やった。


「今夜、来るな」

「恐らくは」

「そこでだ。今よりこの城を退去せよ」

「な……!?」


 すでに討死を覚悟していた光秀にしてみれば、それはあまりに想定外の言葉であった。

 耳を疑い、目を驚愕に見開く。


「意味が分かりませぬぞ……!?」

「降伏しろと言ったのだ」

「殿よりそのようなお言葉を賜るとは心外! すでにこの岐阜を死地と定めておりますというに、如何なる存念にてそのようなことを……?」

「たわけめ。それではつまらん」


 くそ真面目な奴だと、信長は笑う。


「俺はここで死ぬが、貴様は後を見届けよ」

「お供致しますぞ!」

「いらん。邪魔だ」


 にべもなく言い捨てた後、信長は振り返り、跪く光秀の前にしゃがみ込む。


「この場で俺が死ぬは必定となったが、まあそれはそれで良い。とはいえこのまま土くれに還るのも不愉快だ。せめてこの先どうなるか、見届けたくはあるというもの」

「何故、それを私に」

「さて、何故だろうな」


 俺にもよくわからん、と信長は答え、にやりと笑う。


「だが貴様が最適に思えてな? ――よいか、光秀。俺の首を持って朝倉に走れ」

「な、何と……?」

「この信長の首、何人にもくれてやるつもりは無かったのだがな。所望する輩がおるものだからくれてやることにした」

「だ、誰がそのようなことを……?」

「わたくしですわ。明智様」


 不意に声が響いた。

 あまりに場違いな美声。

 落城の時が迫っているというのに、何一つ恐れていない様子の声に、むしろ光秀が戦慄したほどである。


「姫……?」


 そこにあったのは、信長の長女である鈴鹿姫だった。

 その隣には鈴鹿付きの若武者が控えている。

 確か大嶽丸とか言ったか。


「愛しい殿の首、この鈴鹿が大切に致しますゆえ、欲しいとお願い申し上げたのです」

「し、しかし……!」

「もう決めたことだ。光秀よ、貴様は鈴鹿を伴い、朝倉の陣に行け。それで身の安全は保障される」


 光秀は動揺するばかりであったが、知らぬところで事はすでに定まっていたらしい。


「信忠に貴様はくれてやらん。くれてやるならばあの女狐よ。その方が面白い」


 信長がいったい何を考えているのか、光秀にはこの時皆目見当もつかなかった。

 元より計り知れない主君ではあったが、それは最期まで変わらなかったらしい。


「そして光秀よ。俺の仇を取れとは言わん。だが思うようにしてみせよ。あの女狐の覇業を助けたいと思うのならば、それも良し。だが万が一、隙を見せるようであれば、己が野心に訴えかけるも一興ぞ?」

「――――」

「ははは。最後まで真面目な奴め。好きに生きろと言うておるのだ。ゆえに好きに生きよ」


 そしてこれが、信長から光秀にかけられた最後の言葉となった。

 信長は無造作に太刀を引き抜くと、首筋にあてがう。


「殿っ!」


 光秀の制止の言葉の中、信長は迷うことなく一気に引いた。

 噴き出す鮮血が周囲に飛び散り、しかし信長は一切の苦悶の声を上げず、倒れ伏す。


 時にして 天正十年四月三日。

 享年四十九であった。


「……無念ですぞ」


 絶命した信長の遺体に寄った光秀であったが、その横手から血に塗れた信長の首筋を撫でる白い手が伸びる。


「……姫」

「お下がりを、明智様」


 ひとしきり慈しむように遺体に手を当てていた鈴鹿であったが、やがて落ちていた太刀を取ると、床板ごとその首を斬り落とした。

 迷いなく、しかし人の技とは思えぬ刀捌きに、光秀はまた驚く。


「……さあ、参りましょう。時はあまりありません」


 自身が血に塗れるのも構わずに、鈴鹿は信長の首を抱きしめ、光秀へと促した。


「姫は、いったい……?」


 光秀が改めて鈴鹿のことを不思議に思ったことは言うまでもない。

 そんな光秀に、鈴鹿は笑ったのだった。


「今のわたくしは、殿の娘ですわ。それ以外の何者でも無いのですよ?」


     ◇


 岐阜城を囲んだ織田信忠の軍勢に総攻撃の命が下るよりも早く、城の一角から火の手が上がった。

 まるでそれが合図になったかのように、総攻撃が開始。


 この四月三日の夜に行われた最後の攻撃により、岐阜城は落城した。

 城内では必死の抵抗もあって寄せ手は苦戦したものの、明け方までには抵抗も止み、城方はほぼ全滅したという。


 この稲葉山の変をもって織田家当主であった織田信長は横死。

 同時期に起こった小田原の変と合わせ、これを天正の政変と称し、以降の勢力図が大きく変わる一大事件となったことは言うまでも無かった。

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