第220話 家康と雪葉


     ◇


 天正九年十月十九日。

 冬も差し迫った頃、小田原より江戸にと帰還する徳川家康の一行に、危機が迫っていた。


「こ、このような所で……!」


 供の者が次々に討ち減らされていく中、家康はその場から離脱すべく馬を走らせていたが、やがてその馬が転倒して落馬し、徒歩での逃亡を余儀無くされていたのである。


「殿、お早く!」


 周囲を警戒しつつ、先を促すのは家臣である大久保忠隣と井伊直政の両名のみで、後は散り散りになってしまっていた。


「何者の狼藉か!」

「恐らくは風魔の手の者かと!」


 忠隣の言に、家康は舌打ちする。

 それなりに警戒していたつもりではあったが、こうもう堂々と襲ってくるとは想定外であったからだ。


 家康は甲斐より帰還後、北条氏政の勘気を受けて所領である江戸にて謹慎する身となっていた。

 それが先日解かれ、小田原城に礼を兼ねて挨拶に伺い、その帰り道でこのような有様になったというわけである。


「風魔といえば、北条の乱波ではないか!」


 憤慨したように、直政が叫ぶ。

 直政は家康の小姓時代に武田勝頼の首級をあげるという大戦果を上げ、先日元服して名を直政と改めたばかりの、血気盛んな若武者である。

 すでにその太刀は血に塗れ、幾人かの乱波を葬っているが、多勢に無勢であることもあって、余裕などは微塵も無かった。


「やはり氏政は殿のお命を狙って……!」

「直政、殿をお守りして先行せよ!」

「し、しかし大久保様は!」

「それがしはここで囮となるゆえ、急ぐのだ!」


 だがそうこうしているうちに、次々に周囲を囲まれ、脱出が叶わなくなってしまう。

 賊の数は、およそ十三。


 対してこちらは家康、忠隣、直政の三名のみ。

 絶体絶命の窮地である。


「おのれ、徳川家康もここまでか」


 北条家中において、家康に対する風当たりが強くなっていることは、江戸にて蟄居していた家康の耳にも届いていた。

 家康は従軍を許されなかったものの、氏政は氏直に命じ、朝倉征伐のために四万の兵を甲斐に進ませ、九月の時点で開戦に至ったが、頑強な抵抗にあって新府城を落とせず、戦況は膠着している。

 これも氏政を不機嫌にさせる要因になっていた。


 さらに悪いことに、北関東の諸将、特に佐竹義重の動きが不穏で、こちらにも気を配らねばならなくなっている。

 恐らく朝倉と何らかの繋がりをもったがゆえの動きであると、家康などは察していたが、さりとてどうにもできず、ひたすらに大人しくしていたのだった。


 そして突然、謹慎が解かれ、戦況が不利になってきたことで援軍の命が下るのやと思い、勇んで小田原を訪れてみたところが、その対応はつれなく、むしろ危惧を抱かせることになったのである。


 そうして、この様だ。

 ここまでくれば、氏政が意図的に家康をおびき寄せ、これを道中で討つための謀りであったと思うのは自然であろう。


「忠隣、直政! 時を稼げ。わしは腹を切るぞ!」

「たわけたことを申されますな! これより一角を切り崩しますゆえ、直政と共に突破されよ!」


 そう言って主を励ます忠隣であったが、衆寡敵せず。

 徐々に追い込まれていき、武芸達者な直政でさえ傷を負い、動き回ることすらままならなくなってしまう。


「無念、ぞ……!」


 家康自身、足をもつれさせ、その場にひっくり返り、乱波の刃の前に命を散らそうとしたその瞬間、ありえない勢いでその乱波が真横に吹き飛んでいた。

 見れば、長槍を頭蓋に突き立てられた状態で、そのまま地面に串刺しになっている。

 即死だろう。


 命を拾った家康が慌てて周囲を見やれば、そこに新たな人影が佇んでいた。

 どうやらその者が槍を投擲した結果らしい。


「女子、だと……?」


 忠隣は眉をひそめ、周囲を囲んでいた乱波たちですら動きが止まる。


「助太刀、致します」


 冷たい声音と共に、その女は新たに太刀を引き抜いて。

 ――一方的な殺戮と、なったのだった。


     ◇


「……お礼を申し上げるぞ」


 喧噪が収まり、周りには乱波たちの死体が散乱する中、息一つ乱さずにそれをやってのけた女へと、家康はどうにか声をかけることができていた。

 家康だけでなく、忠隣や直政も疲労の極みにあって、もはや立っているのが精いっぱい、という有様である。


「いえ。このような雑兵、大したことではありません」


 本当に些事とでも思っている様子に、今更ながらに何者であるのかと家康は疑った。

 単に常軌を逸した手練れである、というだけでなく、その存在の在り方がすでに人として外れているような女であったからだ。


「ですが、危ないところでしたね。北条の手の者ですか」

「貴殿は何者か。何を知っておられる?」


 家康同様に懸念を覚えたのだろう。

 疲労を推して主を庇うようにして前に出た忠隣の問いに、女は優雅に一礼して名乗ったのである。


「わたくしは、朝倉雪葉と申します」

「朝倉、だと……?」


 これには皆、一様に驚きを隠せなかった。

 朝倉といえば真っ先に思いつくのは、まさに北条家が今敵として直面している朝倉家である。

 もちろん、ただの偶然でたまたま姓が同じだけ、ということもありえるが。


「失礼だが、越前の朝倉家の者であるのか」

「わたくしの主は我が義姉、朝倉色葉様です」


 その答えに、尋ねた忠隣は瞠目する。

 忠隣であっても、件の朝倉の姫の噂は十二分に知り得ていたからだった。


「……その妹君が、このような場所にたまたま居合わせたわけでもあるまい」

「はい。おっしゃる通りです」


 家康の思ったように、雪葉はあっさりと肯定する。


「いったい、何用で」

「姫様よりの使者として、江戸に向かう最中でした。ここでお会いできたのは、お互いに運が良かったのでしょう」


 何でもないことのように、雪葉はそう答えた。

 そして初めて、問いを投げかけてくる。


「――それで、あなた様が徳川家康様で相違ありませんね?」


 ひやりとした問いかけに、家康は未だ自分達が名乗っていないことにようやく気付いた。


「これは何とも失礼をした。わしが徳川家康である。これらは我が家臣」

「大久保忠隣である」

「井伊直政と申す」


 主に倣い、慌てて二人も名乗りを挙げた。


「やはり、そうでしたか。わたくしは江戸に向かうのは、徳川様に御用あってのこと。このような血生臭いところでは気も落ち着かぬでしょうし、忍びの気配は消えたとはいえ、この先も危のうございますから、江戸までご同行させていただいてよろしいでしょうか」

「わしに、用とな? 朝倉殿……が?」


 にわかには理解し難く、家康は首をひねった。

 徳川家と朝倉家との間には、朝倉義景の代には敵として戦った経緯はあるものの、現在の朝倉家になってからは直接対峙したことは無い。


 例外は飛騨攻めであるが、あれはあくまで武田領に侵攻したという名目である。

 とはいえ良い縁があるわけでもない。


 徳川家は朝倉家の同盟国であった武田家に滅ぼされ、その当主であった武田勝頼は、のちに徳川勢によって討ち取られている。

 直接関わってはいないとはいえ、徳川家は朝倉家にとって敵と認識されてもおかしくない存在だ。


 そして今では北条家に臣従する身。

 本来ならば、朝倉家が交渉を持とうとする相手ではないはずである。


「武田と徳川は互いに滅ぼし合った関係なれば、これにて不倶戴天の敵同士となるのも良いが、遺恨を水に流し去ることもあるいはできるのではないか、と」

「――――」

「どうでしょう? 我が主の元で、徳川の家を再興したくはありませんか?」


 それはこの逆境のどん底に陥りかかっていた家康にとって、蜜よりも甘い囁きであった。

 雪葉は微笑む。


「お話は道中にてゆるりと」


 それは図らずも色葉のみせる悪魔の微笑であり、また誘惑に他ならなかったのである。

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