第219話 信忠の覚悟
◇
一方、伊那郡で睨み合っている朝倉、織田両軍の間でも動きがあった。
織田方三万を率いる織田信忠は、突如として伊那郡より兵を下げ、筑摩郡木曾にまで退いたのである。
「そうか。父上は解任すると仰せか」
八月二十三日。
大島城の織田信忠の元を訪れたのは、その側近である斎藤利治である。
主の危機に、病を推して信濃へと入ったのだった。
「未だ正式ではございませぬ」
信長が明智光秀に対し、信忠の総大将の任を解くべく命を出してよりずいぶんと時がたっていたのは、これを聞きつけた利治を始めとする信忠家臣が、信長を諫めて説得にあたったからに他ならない。
利治は信長の義理の弟でもあり、その扱いは一門衆に準じるほどで、その信頼は信長、信忠父子からも厚い存在である。
さしもの信長もその利治に懇願されて、これを無下にすることはできなかったのだ。
「が、来年に殿自ら信濃入りされることは、決定事項です」
長期戦になることを想定してか、これから冬に向かう段階での新たな出兵は、信長も望むところではないのだろう。
「つまり、それまでに朝倉を討ち、功を挙げてみせろ、ということか」
「然様にございます」
無理をすれば、高遠城に拠る朝倉勢は撃退できるかもしれない。
こちらには三倍の兵力があるからである。
しかしその先の新府には、二万の朝倉勢が入っているという。
これは北条に対するためのものであろうが、高遠城に危急が迫れば、即座に援軍を派遣できる位置取りである。
他にも小諸や深志といった近くの重要拠点にも兵を置いており、その連携は強化されているはずだ。
となれば、相当な損害を覚悟せねば、高遠城は落とせないだろう。
何より高遠城には朝倉家当主・朝倉晴景自ら籠城していることもあって、その士気は高い。
「……利治、率直なところを聞かせて欲しい」
「はっ……何なりと」
「この織田家の行く末だ」
そう前置きして、信忠は心の内を、利治へと語った。
それを聞いた利治は如何にも難しい顔になって、唸ってしまう。
「今の織田家は如何にも危ない。北には朝倉、西には羽柴……。東の武田は滅びたものの、朝倉がその手を伸ばしている。仮にこれを撃退できたとしても、北条がいる。周囲をこのような大国に囲まれて、果たして生き残ることができるのか」
西の羽柴家は新興国ではあるものの、畿内を抑えている地盤からその経済力は侮れない。
時を与えれば与えるほど、厄介な存在になるだろう。
北の朝倉家は言うに及ばず、今となっては織田家の周囲全てを席巻する勢いで、その版図を拡大している。
今は北条という敵に直面しているが、織田、北条両家を相手にできるだけの力があることは、間違いない。
「……だからこそ、今勢力を拡大せねば織田家は呑み込まれると、殿はお考えなのでしょう。座視していては滅びを待つに等しいと、分かっておいでなのです」
「それは分かる。しかしそれが、信濃侵攻のみが解決策とは思えないのだ」
「と、おっしゃいますと?」
信忠とて信長に劣る器量の持ち主ではない。
そんなことは、古くから仕えている利治も承知しており、しかしその考え方が違うこともわきまえている。
今、両者の思考の差が顕著になってきていることは危惧すべきことであったが、しかしそれを確かめることを怠る利治でもなかった。
「私は朝倉と結ぶべきだと思う」
それは信忠の、前々からの持論である。
「朝倉と、ですか」
「うむ。今の朝倉家は強い。これと全面戦争に至るは、消耗戦にしかならぬだろう。国力が逆転した今、不利なのは織田の方だ」
「それはそうですが……」
「朝倉強しといえど、今は北条をも相手どっており、厳しい状況には違いないはず。であれば今こそ交渉の好機。応じる可能性も高い。と同時に朝倉と羽柴の関係を切り崩し、朝倉が東に傾注している間を狙って、畿内を取り戻す。羽柴秀吉は元は織田家臣であり、謀反人であれば、これを討つは大義名分も立つというもの」
もしくはこの逆で、朝倉と結び、共に北条を討って東に所領を拡大させ、同時に朝倉家と羽柴家を仲違いする方向にもっていくことも考えたが、信濃や甲斐は長年の同盟国であった武田家の遺領であり、朝倉家がそれをむざむざ織田家にくれてやるはずもないだろう。
「とはいえ京はすでに朝倉家に抑えられておりますし、その道である近江も今や朝倉のもの。殿は、これが気に入らぬのでしょう」
「確かに畿内のうち、山城は朝倉のものであるが、それ以外は秀吉が抑えている。……むしろこのことは、秀吉にとっても面白くないのではないか?」
「つまり、朝倉と羽柴の仲を引き裂く要因はいくらでもある、ということですか」
朝倉家と羽柴家は今のところ協調関係を築いてはいるが、武田家との間に為した婚姻同盟のような、強固なものがあるわけでもない。
あくまで利害が一致しているだけだ。
秀吉自身には子がいないこともあって、それを差し出すことによる婚姻関係は築けないのも、痛いところだろう。
「なるほど、切り崩すのは可能かもしれませぬが、しかしそもそも朝倉はこの織田との交渉自体を受けるのでしょうか。受けたとして、背後を脅かされることなく新たな同盟関係など、今更築けるものなのか……」
利治の杞憂はもっともで、織田家と朝倉家は、朝倉義景の代からの仇敵同士である。
特に朝倉家は信長によって一度滅ぼされており、その怨念の凄まじきは、安土壊滅からも察せられるというものだ。
そんな朝倉家に対し、いったいどのように交渉を持つというのか、それこそか難題に利治は思えたのである。
「……それについてはすでに水面下で交渉を始めている」
「何ですと?」
「そなたの兄が、高遠城の朝倉晴景に会っている」
「!」
思わぬ告白に、利治は身構え、慌てて周囲を見渡した。
周囲の目や耳を気にしたのである。
「信忠様、それは……」
「当然、父上はご存知ない」
独断であると、信忠は素直に白状した。
「噂に聞く狐姫は恐ろしき相手のようであるが、その夫である朝倉晴景は話の分かる者であると、利堯が言っておった。話の通じる相手であるのならば、やり様はある」
「しかし……」
「晴景殿には娘がおられるとか。これを我が子、三法師の正室として迎えるという婚約を、持ち掛けようと考えている」
「なんと」
三法師は昨年生まれたばかりであり、未だ幼子に過ぎない。
婚儀などにはとても耐えられる年齢ではないが、約束ということであるのならば、すでに政略の道具として使えないことは無いのだ。
しかしただの約束だけであっては、両家の関係が強固になったとは言い難い。
「私には未だ正室がいないからな。かの姫には義理ではあるが、妹が二人おられるという。このどちらかを妻として迎えれば、両家の縁は否応なく強まろう」
「お、お待ちを」
利治は慌てた。
かの色葉姫ほどではないが、信忠の言う妹とやらも、朝倉家では有名な存在だったからである。
「噂ではその二人の妹も、ひとではありえぬとのことにございますぞ?」
「覚悟の上よ」
「されど……」
「それにもう一つある。こちらが迎えるだけでは不都合であるからな。織田家からは姉上を朝倉家に人質として送るつもりだ」
「な、まさか、鈴鹿様を、ですか……?」
これこそ利治は驚いた。
信長の長子である鈴鹿姫は、利治にしてみれば姪、という存在になる。
これは利治の姉である帰蝶の産んだとされる娘だからだ。
そしてその利治をして、得体の知れぬと思わせるに十分な姫でもあったのである。
「姫は殿の寵愛を一身に受けておられる方。それを朝倉家に送るなど……」
「姉上はすでに承知されている」
「――――」
どれほど周到に準備を重ねてきたのかと、利治はここで初めて信忠を疑った。
このことは恐らく信長は知らないはず。
となれば信忠のこの独断専行は……。
「……信忠様。いったい何をお考えなのです……?」
不穏な空気を感じ取ったらしい利治の様子に気づいた信忠は、改めて居住まいを正し、告白する。
どの道、ここで利治の協力が得られなければ、事は破れるだろう。
「私は、父上に隠居していただくつもりだ」
「な、そ、それは……!?」
「そなたの助力なくば、叶うはずもないことであるがな。もし、私が父上の後継者として不足と思うのであれば、遠慮する必要は無い。このまま岐阜に取って返し、我が企みを告げよ。私は廃嫡となるだろうが、弟は他にもいる」
利治は唖然とした。
何かよからぬことを考えているだろうとは察したが、ここまでのことを考えていたとは思わなかったからだ。
信長が素直に応じるはずもなく、ならばと引き下がる信忠でも無い。
となれば、事は力づくということになる。
それはつまり……。
「信忠様、早まってはなりませぬぞ。これでは織田家が崩壊しかねませぬ……!」
「ともあれ、いったん兵を木曾まで下げる。追撃の心配はせずとも良い。そういう話はすでにまとまっている」
「――――」
一体織田家はどうなってしまうのか。
この時利治は確かに、戦慄を覚えたのであった。
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