第194話 色葉の憂鬱(後編)


     ◇


 新府城落城の報により、にわかに緊張を帯びた深志城内であったが、その日の夜更けになって更なる悲報が届けられた。

 落城と前後して、信濃小諸城に入った武田信豊が、その城代であった下曾根浄喜によって討ち取られたという。


 下曾根浄喜は武田氏庶流の一族で、一門衆の一人である。

 それが同族を討ち果たすのであるから、もはや武田家の滅亡は必定であったのだろう。


 だがこれにより、次の北条方の動きをあらかた察することができた。

 北条勢は織田勢に合力することなく、そのまま北進して小諸に入り、信濃国佐久郡一帯を手中に収める算段だろう。

 佐久郡が落ちれば、上野の武田方は完全に孤立する。


 一方の北条方にとっては、やや苦戦気味の北条氏邦と合流し、一気に上野攻略を果たせるわけだから、意義は大きい。

 織田に助力するよりも、織田が手こずっている間に武田領を極力かすめ取ろうという判断だ。

 合理的ではある。


「……姫様。もうお休みになられた方が」


 夜が更けても地図を広げて思案するわたしの元へと、雪葉が心配そうに声をかけてくる。


「そうしたいが、今夜中に方針を定めておきたい。時はあまりないからな」

「ですが……」


 なお言い募ろうとする雪葉に、わたしも観念したように頷いた。


「ああ、そうだ。確かに疲れてる。武田領に入ってから気苦労が絶えないからだ」


 今回の遠征は楽な遠征ではない。

 情勢は目まぐるしく変わっている。

 これを見極めて先に進むことは、なかなか容易ではない。


 しかも信濃に入ってから、ろくな報告を受けていなかった。

 自身の国ではないとはいえ、こうも味方が負け続けると堪えるというものである。


「少し休む。雪葉、膝を貸せ」


 言うが早いか、わたしはひっくり返って雪葉の膝枕を所望し、雪葉もこれを拒まなかった。


「ん……。そうだ。優しく撫でろ」


 心得たもので、雪葉はそっとわたしの耳を撫でてくれる。

 尻尾も同様で、これがなかなかに気持ちいい。


「……なあ、雪葉。どうしてこうなったんだろうな?」


 軽いまどろみが襲ってくるなか、わたしは他愛も無いことを雪葉へと問い尋ねていた。


「……この武田家のことでしょうか」

「……うん。そうだ。この武田家はわたしなりに気を遣ってやった。援助もした。今もこうして助けに来てやっている。でも恐らく……武田は滅ぶだろう。信勝が死んだのなら、もう滅んだといってもいいかもしれない。わたしはどこかで間違えたんだろうか」


 同格の相手としてではなく、従えるべき相手として見るべきだったのか。

 せっかく景頼を送り込んだのだから、これを利用してとっとと乗っ取っておくべきだったのか。


「武田の滅亡などに、姫様が気を病む必要などありません。武田は弱く、愚かであったから滅ぶのです」

「……雪葉は相変わらず手厳しいな」

「姫様の気遣いを無駄にしたのですから、滅びて当然であるとわたくしなどは思いますが」


 そんな物言いに、わたしは苦笑する。

 一見、柔和で優しい印象の雪葉であるが、基本それはわたしにのみ向けられるものであって、それ以外は冷淡そのものである。

 もちろん、そんな雰囲気は普段、片鱗も見せないのは乙葉と同じであり、二人とも化けるのがうまいものだ。


「その通りではあるんだがな。しかしこうなっては晴景が悲しむからな……」


 それが引っかかるのだ。

 もやもやとなる。


「姫様は本当に、晴景様を好いておいでなのですね」

「む? そうなのか?」


 夫婦ではあるが、政略的な結果であるとわたしは思っていたし、晴景だってわたしに特段の愛情を求めて朝倉家に来たわけでもない。

 ただただ、この世の倣いというものである。


「そうなのです、よ」

「ふむう……」


 自分ではよく分からないけれど、どこかしこ執着があることは、さすがに自覚している。

 何だかんだで子も為したのだから、多少は情も湧くというものかもしれないが。


「ふあぁ……」


 気持ち良さのせいで、どっと睡魔が押し寄せてくる。

 眠い。

 でも、やることはまだまだある……。


「……姫様は働き過ぎなのです。是非ともお休みを」

「そんな暇は……」

「ここでお休みになられたことで、例えどのような惨事を引き起こすことになったとしても、この雪葉は姫様のお側におりますゆえ、御心配には及びません。ですから」

「…………ん、そう、か」


 限界だった。

 意識が途切れ、眠りへと落ちていく。

 最後に雪葉のどこかほっとしたような、そんな顔を見たような気がした。

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