第191話 鬼美濃の死


     ◇


 織田方は飯田城や大島城を落とした後、五月十九日には高遠城を包囲した。

 織田信忠率いる三万余の大軍である。


 だが即座に攻撃が開始されることは無かった。

 信忠は高遠城に僧を使者として送り、これに黄金を持たせて、降伏勧告を行ったのである。

 朝倉からの援軍待っていた景頼は、時間を稼ぐべく交渉を極力長引かせる方針を取った。


 一方の信忠にも思惑があり、景頼の交渉に付き合うことになる。

 しかし二十八日になり、諏訪衆の一部に動揺する動きを見た景頼は、この僧の耳を削ぎ落して返答とし、城内の覚悟を決めさせた。


 普段は大人しく気配りのできる景頼の思わぬ行動に、周囲は肝を冷やし、やはり色葉の弟であると得心もしたという。

 この景頼の返答が、信忠の開戦を決意させることになった。


「さても見事に囲まれたものだ。やれやれと言う他あるまいのう」


 そう言いながらも不敵な笑みが浮かんでいるは、馬場美濃守こと信春である。


「……全面攻撃が始まれば、一両日持たせられるか、というところですな」


 悲壮感は無いが、しかし覚悟のこもった口調で小山田昌成が言う。

 昌成は信濃佐久郡内山城代であり、今回景頼の相備として弟の大学助と共に救援に駆け付けていたのである。


 他にも諏訪高島城代の今福昌和なども、援軍としてあった。


「朝倉殿の援軍は、間に合いましょうか」


 尋ねるのは諏訪頼忠である。

 それまで諏訪一門衆筆頭であった兄の諏訪頼豊は、先に行われた鳥居峠での迎撃戦に敗れた際に捕らわれ、先日までは交渉材料として生きていたと思われるが、今回景頼が勧告を無視したことで、その生存は絶望視されていた。

 そのため頼忠がその後を継ぎ、諏訪衆を取り仕切っていたのである。


「飛騨で足止めされたそうです。義兄上はお優しいゆえ、昌幸殿が苦戦されているのを見捨てて進むのは忍び難かったのかと」


 景頼の言うように、朝倉からの援軍を阻止するために飛騨侵攻を行った金森長則ら織田方を前に、松倉城は包囲。

 一刻も早く高遠城を目指したかった晴景であったが、思わぬ大軍に苦戦を強いられていた昌幸への助力を決意し、金森勢と決戦に及ぶことになる。


 先を急ぐ晴景は逸り、地の利を得ていたにも関わらず、痛み分けという思わしくない結果となってしまった。

 武田領国への遠征は、いきなりつまずくことになってしまったのである。


 もっともこの決戦は引き分けに終わったものの、金森勢とて損害を受け、その隙を見逃さずに昌幸はこれを急襲。

 これが功を奏し、金森勢は壊滅的な被害を受けて、美濃へと撤退した。

 いわゆる第二次松倉城の戦いは、朝倉方の勝利に終わったのである。


 しかし決戦により少なからず打撃を受けてしまった晴景隊も、態勢を立て直すために即座の進軍は適わなくなった。

 飛騨侵攻を予測していた色葉に、これを無視して進むように言い含められていたことを思い出し、ひどく後悔したという。


 が、ここで晴景にとって思わぬことが起きた。

 越中より姉小路頼綱率いる越中衆が、増援として飛騨へと入ったのである。


 これは晴景の行動を予想していた色葉の指示によるもので、もし晴景がそのまま進軍するならば良し、そのまま昌幸に協力して金森勢を迎撃し、後に色葉率いる本隊と合流して信濃に入る。もし足止めされて損害を受けた場合は、代わって越中衆が先陣となり、晴景の指揮下に入ってそのまま進軍を継続する、というものだった。


 越前衆は飛騨でいったんとどまり、本隊到着後に再編して信濃へと入ることが決定され、晴景はそのまま越中衆を率いて進軍を再開することになる。


「とはいえすでに信濃入りはされているはず。この数日さえ持ち堪えれば、勝機も出てきましょう」

「その数は如何ほどですか」

「八千ほど、と聞いております」


 合わせれば一万余。

 籠城戦であれば、三万の相手でも対等に戦うことができるだろう。


「だが織田方も、朝倉の援軍が近いことは掴んでいるはずじゃろうの」


 信春の言に、然りと周囲は頷く。


「であるから、この数日はお互いに時の勝負とも言える。連中は合流される前に落とそうと、それは熾烈に攻めてくるじゃろうな。血肉湧き踊るとは、まさにこのことであるか」

「馬場殿は年老いてなお、血気盛んであられる」


 昌和は苦笑するが、信春は何のこれしきと笑ってみせた。


「後詰のある戦など、如何にも気楽ではないか。元信殿や昌景殿のことを思えば、な」


 援軍無く壊滅した高天神城や浜松城のことは、すでに知れ渡っている。

 特に高天神城には、上野や信濃、飛騨といったあらゆる地域から将が派遣されていたこともあって、それらが皆討死したことは、武田領全体に無視できない影響を与えてしまったのである。


 ここしばらく続いている相次ぐ離反の動きも、武田家にもはや力無しとみなす国衆らの一つの決断ではあった。


「なるほど。確かに気楽ではある」


 昌成もまた頷いてみせた。


「さて、景頼様。わしは打って出るぞ?」


 それこそ思わぬ言葉である。


「まず出鼻を挫く。敵はこちらが籠るものと思い、油断……はしておらぬであろうが、それでも想定外の行動のはず。時を稼ぐならば意表を突くが最良よ」

「それはあまりに危険では」


 景頼に止められ、何のと信春は笑う。


「わしはとうに隠居した身。わが身一つなどいくらでも替えはきこうというもの。それにともすれば長篠で終わっていた命。それをそなたの姉殿に救っていただいた以上、何らかの形で返さねば、死ぬに死ねんというものよ」

「ならば我らもお供を」

「無用」


 昌和の言葉に、信春は首を横に振る。


「帰り道は無い。わしが打って出たら門は閉じよ。決して開くな。敵が殺到すればまさに狙い目。鉛玉をくれてやるがいい」

「しかしそれでは――!」

「城を枕にするも良いが、どうにも性に合わぬ。これまでいくつも城をこしらえてきた身としては、いささか不謹慎かもしれんが」


 信春の覚悟に、周囲はみな一様に押し黙ってしまう。


「わしと同じ馬鹿者どもは、すでに選抜して終えておる。なに、大した数ではない。守備に影響はせん。それにな、景頼様。このまま甲斐武田家、いや武田武士の力を見せつけることが叶わぬは、如何にも口惜しい」


 甲州征伐が始まってより、今のところ武田方に良い所は一つもなかった。

 高遠城にて徹底抗戦の構えをみせる景頼は、元を辿れば朝倉家の者である。

 これではあまりにも情けないではないかと、信春は言うのだ。


「でなくばあの世で、信玄公にどのようなお叱りを受けるやら、な」


 最後はむしろ朗らかにそう言い残し、信春は戦場へと出たのだった。


 馬場信春。

 元は教来石景政といい、後に馬場氏の名跡を継いで馬場姓を名乗った。


 武田信虎、武田信玄、武田勝頼と三代に渡って仕え、武勇名高い猛将として知られた原虎胤にあやかり、その死後に美濃守の名乗りを許され、虎胤同様、鬼美濃と畏怖された武田家きっての猛将である。


 戦場に出ること数知れず、しかし一度たりともかすり傷一つ負わなかったという。

 この年、実に齢六十六であった。


 攻城戦を開始する寸前であった織田方は、突如飛び出して来た馬場隊に虚を突かれ、大いに搔き乱されて混乱するも、やはり多勢に無勢。

 ついには包囲され、殲滅された。


 しかしこの信春の玉砕覚悟の突撃により、信長の従兄弟に当たる織田信家が、信春によって討ち取られるなど大きな被害も出たのである。

 そのため織田方は二十八日の総攻撃を見合わせることになった。


 そして五月二十九日に入り、織田方は高遠城総攻撃を開始。

 信春の首級が敵の手に渡ったことを見て取っていた高遠城内では、その威に打たれて士気を奮い立たせ、続けて攻めかかって来た織田方に対し、むしろ攻め返す勢いで抗戦に及ぶ。


 各将の働きは存分で、特に諏訪頼忠の兄・諏訪頼辰が織田の猛攻に前に討死する中、その妻は夫に代わって戦装束に身を包み、太刀を抜き放って押し寄せる織田の雑兵を斬っては捨て、比類無き働き前代未聞の次第なり、と織田方にすら評されたという。


 しかし織田方の攻撃は苛烈で、数に物言わせて夜まで続いた。

 これを辛うじて撃退したものの、高遠城はすでに満身創痍であり、翌日に攻撃が再開されれば落城は免れぬほどの痛手を負ってしまっていたのである。


 ところがその夜、城方は目を疑うことになった。

 城を包囲する織田方のかがり火が大いに乱れ、喧噪が沸き起こり、さながら戦場を現出したからである。


 原因は夜襲によるものだった。

 朝倉晴景の援軍が到着し、その勢いのまま夜襲に及んだのである。


「今こそ好機。織田の賊どもを打ち払え」


 晴景にとって高遠の地は土地鑑がある。

 そのため遠征につき疲労を考慮しつつも、賭けに打って出、これを成功させたのだった。


「昼夜を問わずに駆けたか。さすがは武田信玄の子である」


 自身の陣にまで火の手が及ぶ中、信忠はむしろ感心して撤退を指示。

 大島城まで軍勢を引いたのだった。


 晴景も深追いはせず、ただちに高遠城へと入り、防備を固めた。

 これにより高遠城は息を吹き返し、織田勢との戦線は膠着することになる。

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