第182話 内憂外患


     /色葉


 天正九年二月十五日。

 春の兆しが見えてきた一乗谷の館に、飛騨の武藤昌幸が急ぎ訪れていた。


「お前が直接来るとはな。そんなにわたしに会いたかったのか?」

「茶化しておられる場合ではありませぬぞ」


 いつものようにからかい半分でそう聞けば、昌幸は余裕も無いとばかりににわかに真剣な表情をみせる。


 実際のところ昌幸は、極力自ら赴いてわたしのご機嫌取りをよくしていた。

 朝倉と武田の緩衝地帯を預かる身として、わたしの覚えがめでたくあろうと努力するあたりは、なかなか律儀なものである。


 また義弟の孫十郎の舅ということもあって、まあ身内のようなものだったから、わたしも普段はそれなりにもてなしてやっていたのだが、今回はいつになく昌幸に余裕が無い様子だった。


 まあ分からないでもない。

 今の武田家には余裕など微塵も無いはずだからだ。


「事情は大体心得ている」


 昨年、武田家当主であった武田勝頼が討死して以来、とにかく状況は逼迫している。

 勝頼の死は北条と織田の侵攻を招き、まず東海道が狙われた。


 これを牽制するためにわたしは近江に出陣し、これを迎え撃った織田信長と決戦に及んで撃破。

 近江一帯を手中に収め、ついでに大坂の羽柴秀吉と協調して畿内に侵攻。

 京のある山城国も奪取に成功した。


 この時秀吉は大和国に侵攻し、これを得て、織田家は完全に畿内から一掃されたのである。

 それなりの成果ではあるが、しかしこちらとて無傷で済んだわけでもない。


 一門筆頭であった朝倉景建が戦死し、磯野員昌なども討死。

 長浜城も炎上している。

 信長の本拠地だった安土も得たが、これは城下町を含めて徹底的に滅ぼしてやった。

 やや感情的になってしまったようなきらいもあるが、一応予定通りの行動ではある。


 ともあれ信長は美濃の岐阜城に撤退。

 西からの侵攻に対して守りを固めることになる。

 それなりの戦果を得た朝倉も、その余勢を駆って美濃に侵攻するなどといった余裕は、さすがに無かった。


 まずは近江一帯の安定が急務である。

 わたしが荒らしに荒らしたせいもあって、これを回復させるのには時間を要するだろう。

 また京の公家どもを安心させる必要もあった。


 そういった内政には時間がかかる。

 とはいえ手も抜けない。

 わたしは近江や京の慰撫を優先させつつ、信長がずっと手こずっていた伊賀国の国人どもと協調し、朝倉家による支配体制の確立を急がせていた。


 このように一応のところ、織田領への侵攻はまずまずの結果となっている。

 しかし一方で、武田領の雲行きは最悪だった。

 昌幸が泡を食って、わざわざ自らわたしの元にやってくる始末である。


「思っていた以上に脆いものだな」


 わたしの素直な感想に、昌幸は苦虫を嚙み潰したような顔になった。

 反論したいが否定もできないからだろう。

 別に昌幸を苛めるつもりもなかったので、わたしは溜息をついて先を続けた。


「東海はまだ健在か?」

「……遠江がもう、危ういかと」

「だろうな」


 現在の武田家は、東西より北条と織田の侵攻を受けている。

 三河国や駿河国はすでに失陥しており、残るは遠江国だけとなっていたが、これが落ちるのも時間の問題だろう。


 話によれば、武田は遠江において、山県昌景の篭る浜松城と、岡部元信の篭る高天神城の両城に追い込まれているはず。

 西からは織田家の柴田勝家が浜松城を囲み、東からは北条家の徳川家康がこれを攻めているという。


 西からの圧力は、わたしが近江で暴れたこともあってやや動揺が広がり、攻勢が緩んだようであるが、東の北条家は旺盛で、まず高天神城が危ういというのが、わたしの見解だった。


「援軍の派遣はどうなっている?」

「それが……できておらぬのです」

「岡部や山県からの援軍要請は?」

「再三に渡り、新府に届いているはずかと」

「しかし動かない、か」


 動けない、といった方が正しいのかもしれないが、まあ結果は同じことになるだろう。


「遠江はもはや守り切れないのは明白だ。ならば被害を抑えて戦略的撤退に及ぶ、というのならば分かる。東海を失えば、次は甲斐か信濃への侵攻が始まるだろうからな」


 恐らく北条は甲斐を狙うだろうし、織田は信濃侵攻を目論むことになる。


「が、だからといって後詰を送らなくても良い、という話にはならんぞ?」


 撤退はいい。

 だが援軍も送らず味方の壊滅を待てば、周囲はどう思うか。

 見捨てられた、と判断するに決まっている。

 武田家の威信は失墜し、次々に離反を招くことになるだろう。


「信勝は、いや周囲の者どもは何をやっている?」


 勝頼死後、武田家の家督はその嫡男であった武田信勝が正式に継いだ。

 継ぎはしたのだが、信勝による新体制は安定とは程遠かったと言っていい。


 まず信勝自身が幼少であったこと。

 そのため後見として、一門の武田信豊がこれを補佐したが、勝頼の死による混乱を未だ収めることができないでいる。


「すでに浮足立っているのです」


 昌幸の言葉に、わたしはまた嘆息した。

 今思えば勝頼は、それなりに武田家をうまく運用してきたのだろう。

 もちろん、信玄由来の重臣たちの一部との溝が広がるようなこともあったが、これは勝頼だけのせいとも言い難い。

 そもそもにして、嫡男をちゃんと育てられなかった信玄にこそ責があるだろう。


「跡部が死んだのは痛かったな」


 勝頼の側近の一人だった跡部勝資とは、長篠の戦いの際より接触を持ち、あれこれと武田家中の改善のための働きかけをしていた経緯がある。

 一番にさせたのは、勝頼と重臣どもの関係改善だ。


 これはそれなりに功を奏しており、宿老である馬場信春や山県昌景なども、そこまで遠ざけられることもなくなっていたし、本人たちも功を上げて忠誠をみせるなど努力もしていた。

 勝資自身、側近という立場もあって、あちこちで家臣どもと対立していたこともあったが、それを極力改めさせていた。


 もう少し時があれば、武田家は勝頼を中心にもっとまとまっていたことだろう。

 にも関わらず、肝心の勝頼が死んでしまった。

 調整を行ってきた勝資も同様だ。


 武田家はなまじ国土が広いだけに、残された信豊などではとても収拾はつけられないのだろう。

 その証拠に、朝倉家との関係も微妙なものになりつつある。


 景頼が武田家の当主候補として擁立されかかったこともあり――それを止めはしたが――朝倉家に介入されるのを嫌っているのだろう。

 分からないでもないが、このままでは、である。


「――色葉様、それがしが参ったは馬場様より相談があったからです」

「ん?」

「諏訪衆が離反を企てているとのこと」

「なんだと?」


 昌幸がこの情勢下でわざわざ来たことに関しては、やや気になってもいた。


「謀反する、とでも言うのか」

「この機に諏訪家再興を目指す機運が高まっているようです。馬場様はその協力を求められ、対応に苦慮しているとのこと」

「…………」


 諏訪家再興、か。

 なるほどわたしにも無縁でない話、ということになる。


「また景頼を担ぐ気か」

「はい」

「面倒な……」


 武田家の家督継承の際にも、景頼の名は挙がっていた。

 しかしこれはわたしの圧力もあって、抑え込ませたのだ。

 こんな所で武田家が二分してしまえば、それこそ滅亡は免れないからである。

 ところが今度は諏訪家再興ときたらしい。


「ふん。諏訪と血縁関係の無い景頼をわざわざ担ぐということは、どうせわたしの助力をあてにして、ということだろう」

「如何にもその通りです」

「信春はどうした?」

「馬場様は、諏訪への協力と色葉様への口添えを頼まれたそうです」


 武田家臣の中でわたしと関係が深い者といえば、その筆頭は間違いなく昌幸であり、その次が信春だった。

 信春には景頼のことを頼んでもいたので、その後見人という立場もあって、諏訪の者どもからすれば、もっともわたしに口利きをしてもらいやすい人物だったといえる。

 とはいえ信春の性格からすれば、そんな要望を聞くとも思えない。


「で? わざわざお前を寄越したということは」

「は。馬場様は諏訪衆の翻意のため、説得を試みているようですが、なかなか……」

「それはさぞ難儀していることだろうな」


 隠居した身の上で、ご苦労なことである。

 しかし諏訪衆が離反、か。

 諏訪には景頼が当主として赴いたこともあり、あれこれと手を尽くしてやった。


 わたしの夫である晴景もそうだったが、いきなり他家の当主として放り込まれたのである。政略結婚の類であったとはいえ、やや不憫に思ったことも事実だ。

 普段は横暴で通しているわたしが、晴景に対してだけは多少なりとも皆の前で立てているのも、その苦労を慮ってのことである。


 もちろん、その方が事が円滑に進むであろうという打算の上に成り立つ類の感情でしかないが、実際に効果は出ているのだから問題ないだろう。


 そして景頼の場合は遠いこともあって、直接わたしがあれこれしてやることはできない。

 代わりにその手足となる諏訪衆に対しては、色々と恩を売っておいたのだ。

 特に金銭的な支援は惜しまなかった。


 それがどうやら……今回に限って言えば、裏目に出ようとしているのかもしれない。


「勝頼め。自分がかつて当主をやっていた一族くらい、うまく手なずけておけというものだ」


 わたしが適当に支援していただけで、こうも簡単に朝倉に靡くようでは、武田家ももはや……なのかもしれない。

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