第168話 第二次三増峠の戦い(後編)

 こうしてついに両軍の戦端は開かれるに至った。


 武田方は一気に戦場を駆けのぼる。

 これに対して徳川隊は極力動かずに鉄砲にて牽制。

 また周囲に配置した伏兵をもって、その進軍速度を鈍らせることに専念する。


 序盤は当然のことながら、数で劣る徳川隊の不利に終始した。

 何度も崩れそうになりながらも必死で戦線を支え、やがて北条氏邦隊の到着をもってやや戦局が改善される。


 戦線は峠全体に及び、各地で大激戦が繰り広げられることになった。

 ある隊は押し負け、ある隊は押し返すなど、一進一退の攻防が続く。


「さすがは武田の精鋭! 幾度もわしを死地に追いやっただけのことはある!」


 家康も必死に指揮を執り、時には槍を振るって敵兵と刃を交えた。


 一方、三増峠にて開戦したとの報を知った家康家臣・石川数正は、北条本隊を率いる北条氏直に随伴し、その進軍を急がせていたのである。

 氏直は未だ若くはあったがその判断力は的確で、武田の撤収により即座の追撃を渋った父・氏政を説き伏せて、出陣に至っていた。


 ただその若さゆえに周囲の意見に流されやすい嫌いもあり、だからこそ家康は数正を残し、少しでも進軍を急がせるよう、伴わせたのである。

 道中、武田の伏兵に遭って手痛い被害を出しはしたが、これを数で押しのけ、進軍を優先させた。


 他方、三増峠においては両軍互角の戦いが続いており、思いの外徳川隊が粘ることや、北条氏邦隊の増援などが重なって、難しい判断を迫られようとしていたのである。


 このまま押し進むか。

 それともいったん退いて態勢を立て直し、転進するか。

 戦局は悪くない。

 が、時がかかり過ぎている。


 そんな勝頼の心境を見て取ったかのように、急に徳川隊が崩れ、武田勢はさらに前進した。

 このまま行けるかと思わせたところで手痛い反撃にあって、後退を余儀なくされる。


 戦場は山岳地帯のため把握しにくく、命令も伝わりにくい。

 徐々に乱戦の様相を呈していき、どちらかが総崩れにでもならない限り、収拾がつかないとさえ思えた。


 そのまま刻一刻と時は過ぎ、ついに勝頼の元に北条本隊到着の報がもたらされたのである。


「後背に敵が迫りつつあり!」


 その報せに武田勢は動揺した。

 このまま峠を抜けないようでは挟撃が完成し、武田方は壊滅の恐れが出てきたからだ。


 しかしいったん後退して転進しようにも、東には相模川が行く手を塞いでおり、渡河には時間がかかるし何より危険すぎる。

 峠を西側に迂回しようとしても、志田峠には氏邦の別動隊が目を光らせており、転進を知ればただちにこれを下って攻め寄せ、退路を断ってくるだろう。


「殿、このままでは如何ともし難くあります」

「勝資、如何するか」


 勝頼の問いに、勝資は苦渋の決断をする。


「こうなっては是非も無し。このまま突撃して活路を開くしか他にありませぬ。首尾よく峠を越えることができましたなら津久井城をやり過ごし、八王子城を押さえている小山田殿に殿をお命じになって、甲府へ撤退する他ありますまい」

「だが敵はすでに背後に迫っておる」

「如何にも。全面の徳川勢を突破するにも時間が足りぬでしょう。であればこの私が一隊を率い、迫り来る北条勢を足止めしますゆえ、その間に何としても突破を図られませ」

「それでは勝資は死ぬぞ」

「ゆえに是非も無しと申し上げたのです」


 迷っている時間は無かった。

 勝資は場を辞すとただちに手配をし、峠を下って北条氏直隊に向かって吶喊する。

 急ぎに急いでいた北条本隊は疲労の極みにあったことと、思わぬ逆撃に足並みが乱れ、また若輩であった氏直の経験不足もあってこれを立て直すのに時を要し、一時的な混乱状態に陥った。


 しかし所詮は小勢。

 しかも疲労が蓄積されていたのは武田勢も同様で、高所からの突撃による力は長く持続することはなかった。


 やがて態勢を立て直した北条勢に包囲され、壊滅。

 勝資は槍が折れ、太刀が欠けるまで奮戦したもののついには力尽き、戦場の露と消えたのである。


 この勝資が稼いだ時を無駄にしてはならぬと、勝頼は全力前進を敢行。

 まず徳川隊を抜き、氏邦隊を蹴散らしてついには三増峠の通過に成功するかと思われた。


 ところが眼前に新たな一軍が姿を現したのである。


「武田勝頼よもはやこれまでぞ! 大人しく素っ首置いてゆくが良い!」


 現れたのは北条氏照率いる北条勢であった。


「馬鹿な。信茂は如何したか」

「ははは! 未完の城が欲しければくれてやろうというものよ!」


 この戦を乾坤一擲の大勝負と心得ていた家康は、何としても氏照の増援の必要性を感じていた。

 前回の三増峠の戦いでは、氏照と氏邦の両軍合わせて二万余の大軍をもって信玄の軍勢を迎え撃ったものの敗れている。


 今回、三増峠に着陣できたのは徳川隊と、氏邦隊のみ。

 これでは勝機は掴めないというもの。

 そのため家康は事前に氏照の説得にあたっていたのである。


 それが功を奏し、氏照は機をみて八王子城から全軍をもって打って出、武田別動隊である小山田隊の中央突破を敢行。

 そのまま城からの逃亡を図ったかのようにみせかけ、信茂は空になった八王子城を占拠する。


 しかし氏照はそのまま城を捨て置き、戦場に急行。

 そしてここで勝頼を待ち構えていた、という次第であった。


 退路を断たれ、武田勢の進軍が止まる。

 そこに背後から一度は押しのけられた氏邦隊が殺到し、家康もまた残り少なくなった兵を搔き集めて追い討ちをかけた。


「口惜しきや。武田勝頼もこれまでか!」


 必死に抗戦する武田勢であったが、寄ってたかって攻め立てられ、ついには勝資隊を殲滅した氏直隊が背後に迫ったことで如何ともし難くなり、総崩れとなった。


「名にし負う敵将とお見受け致す!」


 乱戦の中、敵の一将が躍り出て勝頼へと槍を突き出す。

 その若武者を認めて、勝頼は誰何した。


「何者か!」

「徳川家康が家臣! 井伊万千代!」

「我こそ武田が棟梁、武田勝頼! 参るぞ!」


 万千代の振るった槍はかわされ、途中から勝頼の太刀によって切り落とされる。

 その気迫に尻込みしそうになった万千代は、しかし即座に自身の太刀を引き抜いて、勝頼の二の太刀を防ぐ。


 そこに銃声。

 撃たれたと思った万千代は思わず目を閉じてしまっていたが、恐る恐る目を開ければ口の端から血を流す勝頼の姿があった。


「……運の良い奴。我が首をとって手柄にせよ」


 言いながらも勝頼は再び太刀を振るってくる。

 しかし動作はすでに鈍く、力がない。


「わあああああっ!」


 もはやがむしゃらに、万千代は太刀を袈裟懸けに振り下ろす。

 それは勝頼の首筋を捕らえ、鮮血が噴き出す。

 そのまま倒れ込む勝頼に馬なりになると、脇差を抜いて血塗れの首筋に刃を当てる。


「御免!」


 こうして勝頼は三増峠の戦場にて、その首を落とされた。


 享年三十四。

 この勝頼の死が、武田方の大敗を決定付ける。


「武田勝頼討ち取ったり!」


 こうして武田勢は三増峠にて壊滅した。


 敗戦を知った八王子城の小山田隊は即座に城を放棄して、撤退。

 第二次三増峠の戦いは、北条方の大勝にて幕を閉じたのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る