第111話 朽木元綱
/色葉
若狭の完全平定を目にすることの無いまま、わたしは近江へと侵攻開始した。
若狭街道を近江方面に向けて進むと途中で街道は分岐し、そのまま東に行けば近江今津、南下すれば朽木谷に至る。
まず最初の目的は朽木谷だ。
「どうやら丹羽勢は大溝城にて留まり、未だ朽木谷には至っていなようですな。というより色葉様の仕掛けた流言に惑わされて、進軍を決めかねているのやもしれませぬ」
そう言う堀江景忠に、それは祝着至極とばかりにわたしは頷いた。
流言とはすでに若狭は落ちた、というものである。
実際にはまだ落ちていないのであるが、それだと丹羽長秀が必死になって救援に駆け付けてくる可能性があった。
その足を少しでも鈍らせるため、若狭陥落の噂を事前にばら撒いておいたのである。
そしてそれは、思わぬ効果をもたらしてもいた。
それが朽木谷を治めている朽木元綱である。
「で、元綱が会いに来ただと?」
朽木谷は近江国高島郡北部に位置し、北側は若狭国、西は山城国に接している。
ここは若狭小浜から京に至る鯖街道の一つが通っており、古くから街道筋として栄えた地だ。
ここを支配していたのが朽木氏である。
北近江を浅井氏が支配するようになってからも朽木谷に割拠し、かの金ヶ崎の退口においては信長の生死を握ったのが、当主の朽木元綱であった。
「ふうん。邪魔するのなら叩き潰そうと思っていたが、向こうから出てきたのなら話が早い」
「飛んで火にいる夏の虫? 捕らえて殺すの? 色葉様」
などと言うのは乙葉である。
乙葉は武田元明の初陣に付き合っていたが、一戦後、もうお仕事は終わりとばかりにわたしの元に戻ってきたのだ。
まああちらには正信もいるし、大丈夫だろうけど。
「殺しても簡単にはその地は手に入らない。覚えておけ、乙葉」
「そうなの?」
「そうだ」
乙葉の耳を撫でつつ、わたしは頷く。
その地を手に入れたい場合、そこを支配する者を殺してしまうというのは短慮である。
何故なら一人でその地を支配しているわけではないからだ。
当然多くの家臣に支えられた上で、である。
殺せば当然動揺が走り、奪いやすくはなるが、基本的に誰かが引き継ぐ。
また殺した相手が家臣や領民に慕われていた場合、更に面倒なことになる。
後の統治が非常にやりにくくなるからだ。
それよりも当主自体を従わせた方が、手っ取り早い。
わたしがあまり暗殺を用いない理由である。
それにこれは露見すれば、名声を下げる要因になってしまう。
天下を目指す上で、大いなる足枷になることは疑いようも無い。
わたしは筒井順慶を乙葉に命じて暗殺しているが、これが知られると多少は面倒なことになっただろう。
もっとも証拠は残していないし、下手人は久秀であろうというもっぱらの噂になっているので、まず知られることはないだろうけど。
「もっとも気に入らない輩には容赦しないがな」
まあその場合は直接八つ裂きにしてやるまでであるが。
「まあいい。会おう。通せ」
わたしの命により、この陣所を訪れていた元綱がわたしの前まで通されてきた。
現れたのはまだ若い武将だった。
三十には至っていないだろう、そんな青年である。
「朽木元綱にございます」
陣の奥でふんぞり返っているわたしにやや面食らったようではあるが、元綱はまずはそう挨拶してきた。
「名前は聞いている。信長を助けた男だろう」
元亀元年に信長が朝倉攻めを行った際、浅井長政の裏切りにより最悪の撤退戦に及ぶことになるのだが、その時京へと脱出を図っていた信長が通らなければならなかったのが、この朽木谷だったのである。
当時まだ二十かそこらの若造であった元綱は、まさに信長の命運を握っていたというわけだ。
結果的に元綱は、その時信長に同行していた松永久秀の説得によりこれを助け、後に信長に仕えることになったわけである。
「ん、ああ、名乗るのが遅くなったな。わたしが朝倉色葉だ。で、何の用だ?」
「……まずは朝倉殿の真意を伺いたく」
「真意?」
わたしは首をひねる。
「この朽木谷を如何するおつもりなのか」
ああ、なるほど。
元綱はわたしがこの朽木谷を制圧しに来たとでも思っているのだろう。
「別にどうもしない。邪魔をしないのなら素通りだ。わたしの用は京だからな」
「……邪魔をすれば?」
「皆殺しだ」
何でも無いことのように告げてやったにも関わらず、その言には迫力があったのだろう。
元綱はぞっとしたような顔になった。
この朽木谷を守る兵力は、恐らく千程度。
こちらは一万。
数の上では相手にもならない。
「で、わざわざ殺されに来たのか?」
「そうではありませぬ。しかし……邪魔さえしなければ、この朽木谷に手は出さぬと仰せられるのか?」
「そう言っただろう」
千とはいえ、城に籠られれば厄介である。
時間と兵力、兵糧を無駄に消耗することにもなるだろう。
とはいえ言葉通り、邪魔をするのなら徹底的に叩き潰すつもりではあったが。
「…………。では、一つお願いの儀が」
「言ってみろ」
「このまま朝倉様に臣従させていただきたく」
「ほう?」
わたしは目を細めて元綱を見やった。
「戦わずにして降ると言うのか」
「それがしの望みはこの朽木谷の安堵のみ。端からこれを守れぬのであれば、領民のためにも降るのはやむを得ぬこと」
「別に奪うとは言っていないぞ? ただ通るだけだ」
「同じことでしょう」
まあそうである。
何の抵抗もせず朝倉勢の街道通過を許したとなれば、後で信長から責任を追及されることは間違いない。
もちろん、そんなことはわたしの知ったことではないが。
「それに……織田の殿には、少し不信を抱いてもおります」
「ふうん?」
そう言って語り始めた元綱の言は、すでに織田家への忠誠が揺らいでいる証拠でもあった。
浅井家の滅亡後、信長に従った朽木元綱であるが、この朽木谷を含む近江国高島郡を与えられたのは、元浅井家臣であった磯野員昌である。
しかしその員昌は今や朝倉家臣となっており、その原因は家督継承を巡って信長に叱責されたことに起因していた。
現在では員昌の後を引き継いだ津田信澄の配下となっているとか。
ちなみにこの津田信澄とは、信長の甥に当たる人物である。
信長はこの信澄を一門の中では厚遇しており、員昌の失脚もこれに無縁とは言えない節があった。
元綱が危惧するのはまさにそこだろう。
そして元綱はかつて信長を救ったにも関わらず、これまで厚く遇されていたとは言い難い。
また元綱を更に不安にさせたのが、松永久秀の謀反である。
「不信、か」
この時代の倣いとはいえ、史実での信長の末路を思えば、やはり配下の忠誠が揺らぐということは容易に命取りになるということだろう。
勝ち続けていればいいが、どこかで躓けば人心などすぐにも離れるということか。
「いいだろう。お前自ら降伏を申し出てきたことは評価してやる。本領安堵も許す。ただし、一つ功をあげてみせろ」
「と、おっしゃいますと?」
「丹羽長秀はすでに大溝城に入っているのだろう? これをうまく朽木谷に誘い込め。それだけでいい」
丹羽の入った大溝城は津田信澄の居城ではあるものの、信澄自身は有岡城の荒木村重討伐のために明智光秀の軍勢に組み込まれており、現在京にて朝倉・荒木連合軍と睨み合っているはずである。
その大溝城から若狭に至るには、近江今津を経由するか、朽木谷を経由するしかない。
どちらにせよ、途中で若狭街道に合流することにはなるのであるが。
「今のところ、丹羽は若狭が落ちたのかと疑心暗鬼なって進めずにいるが、お前は未だ若狭は落ちておらず、国吉城が健在だと伝えろ。それで丹羽が進めばそれで良し」
丹羽勢がどちらの進路でもって若狭に進むかで、こちらの対応は変わってくる。
進路が分かっていれば当然待ち伏せが可能となり、こちらの勝率は高くなるというものだ。
「丹羽勢は三千程度という話だったな?」
「その程度かと」
当初思っていたよりも小勢である。
逆に言えば、案外若狭に兵を残していたとも言えるだろう。
しかし三千程度の軍勢でここまで来たということは、若狭侵攻軍の数が正確に知れていないと察することができる。
何せこちらは三万で進軍したのだ。
三千程度ではどうにもならない兵力差である。
とはいえ、近江に入った朝倉勢は約一万。
決して侮っていい兵力ではない。
まともにぶつかれば、負けないまでもその消耗は馬鹿にならないだろう。
となれば罠に誘い込み、これを包囲殲滅するなど、策を駆使して効率の良い戦いをすべきなのだ。
そのような局面で元綱が降ってきたことは、天祐といっても良いかもしれない。
「よし。ならば功を立ててみせろ」
「ははっ!」
わたしにとっての上洛戦。
それはまだ始まったばかりであった。
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