第109話 飛騨松倉城の戦い(前編)
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七月二日。
美濃岩村城を進発した徳川勢八千は、飛騨国へと侵入すると高山盆地に至り、武藤昌幸の籠る松倉城を包囲すべく松倉山に進軍。
その松倉城は松倉山に築かれた山城で、昌幸は山全体を要塞化し、屈指の堅城に仕立て上げていた。
また松倉山からは足元である高山盆地を容易に見下ろすことができ、北の越中や南の岐阜、東の木曽や西の郡上に至る主要な街道を全て一望することができるといった立地である。
「ふむ。どうやらやって来たのは家康のみのようだな」
これは幸い、とばかりに眼下を一望していた昌幸は笑う。
今回、飛騨に対して侵攻したのは徳川勢八千と、織田勢一万。計一万八千である。
しかし織田信忠率いる一万の軍勢は、どうやら岩村城から動いていないらしい。
つまり実際に飛騨に侵攻してきた部隊は、徳川勢のみ、ということになるのだ。
「背後を突かれることを恐れたのかもしれません」
家臣である大熊常光の言に、さもありなん、と昌幸は頷く。
「妻籠城の木曾殿を警戒しているのだろう。迂闊に動けば侵攻を許してしまうからな」
現在、武田家と織田家の国境である木曾谷には木曾義昌が拠っていた。
この地は信濃国と美濃国の国境地帯でもあり、どちらに属するのかはっきりとせず、しばしば争われた経緯がある。
この木曾谷は信濃側から見て美濃はもちろんのこと、飛騨にも通じる要衝である。
その木曾谷を治めていたのが木曾氏で、現在の当主は木曾義昌。
そのため信玄はこの木曾氏を重視し、義昌に対して自身の娘である真理姫を正室として嫁がせ、木曾氏を武田氏の親族衆に迎えるなど十全に手を尽くしていたといえる。
連合軍として参加した織田勢が岩村城に留まったのは、この木曾義昌を警戒してのことなのは疑いようも無い。
「本気で織田と事を構えるつもりであるのなら、ここで一気に岩村城を攻め落とし、美濃攻略の足掛かりにしたいところではあるが、まずは徳川だな」
実際に織田勢が飛騨に侵攻しなかったのは、もちろん岩村城守備のこともあるだろうが、単に武田と事を構えるつもりがないとも取ることができる。
この飛騨国は一応は朝倉家が領有している地。
治めているのは昌幸であるが、あくまで朝倉家に対して侵攻したと織田は言い張ることも可能だ。
聞くところによれば、朝倉の上洛は早速周囲に火種をばら撒いたようである。
恐らく色葉が謀略を駆使したのだろうが、あの噂に聞く松永久秀が朝倉家に臣従。
これをもって朝倉家と織田家は敵対関係を明確にし、この飛騨侵攻の遠因にもなったわけであるのだが。
ちなみに今回の騒乱を巻き起こしている色葉は、自ら若狭に攻め込んでこれを蹂躙しているという。
若狭は越前と丹波を繋ぐ生命線であるから、これを落とすことは必須である。
そのために手薄であったこの機を逃すはずもなく、その勢いや野牛の群れの如きであったらしいが、色葉に従った諸将にはやや同情を禁じ得なくもない。
とはいえそれはこちらも同じこと。
飛騨を与えられたのはいいが、これを失陥でもしようものならあの姫に何をされるか分かったものではない。
それを思えばぞくりと寒気がして、昌幸は思わず身を震わせていた。
「いかんいかん……。夏だというのにこの悪寒。まことに恐ろしきは色葉様であるな」
しかしそれに比べれば、眼下の徳川勢など何ほどのものかというのか。
「殿、このまま籠城するので?」
大熊の問いに、まさかと昌幸は首を振る。
「守りに徹すれば一年でも二年でも容易に耐えられようが」
この松倉城は銭にものを言わせて築城させたこともあり、それこそ難攻不落を誇っている。
色葉は築城に関しては太っ腹で、金銭的な支援も惜しまなかった。
昌幸が感心するほどである。
また兵糧に関しても、すでに二年分が運び込まれている。
何より心強かったのが、五百丁の鉄砲だ。弾薬についても問題無い。
これが朝倉家の誇る経済力の強みである。
そして色葉はそれを全く惜しまない。
これでは色葉のことを信頼するなという方が無理なほどである。
「ここまで用意していただいて、ただ籠るだけではあまりに能が無い。それに徳川どもに長居されて田を荒らされるのも不愉快だ。一気に追い払うぞ」
この松倉山から徳川勢の動きは、手に取るように分かる。
「では、如何様にされると?」
「山を下りる」
「な、なんと?」
驚く大熊へと、昌幸は笑う。
「こっそりとではあるがな」
◇
松倉城へと進軍した徳川勢八千余。
総大将であった徳川家康は副将の鳥居元忠を先鋒として、まずは軽く城を攻めさせた。
鳥居元忠は家康が幼き頃から仕える側近で、忠誠無私の人物だ。
家康に従って各地を転戦し、戦の最中に銃撃にあって足をやや悪くしたものの、変わらずに戦場に臨んでいる武将である。
しかしその元忠による松倉城攻めの結果は散々なもので、最初の城門を突破することすら叶わずに、一時撤退を余儀無くされてしまったのだった。
「これはいかにも攻めにくい城であるな」
「は……申し訳ありませぬ」
夜になり、家康の本陣にて元忠は頭を下げていた。
「いや、これは仕方なかろう。こうまで守りが堅いとはな」
一度攻めて分かったことであるが、まず単純に城の守りが堅い。
それだけでも難儀するというのに、また厄介なのが鉄砲の存在だった。
その数が予想以上に多い。
これでは前に進むことすらおぼつかないのである。
元忠も銃撃を腕に浴び、軽傷ではあったものの手傷を負ってしまっていた。
「力攻めをするにも、兵力が足りん」
徳川勢は八千。
これではあまりに力不足である。
「では包囲して兵糧攻めとしますか」
「それも難しい」
家康は唸る。
「あの城……というか、山全体を包囲するには、今の兵力ではまず不可能だ。無理をして包囲などすれば、薄くなった陣を容易に破られる。第一兵糧が尽きるのはこちらが先だろう」
徳川勢は遠征軍である。
そのため兵站に不安があった。
無論、同盟国である織田家からも供与される手筈にはなっているものの、やはりどうしても遠慮してしまう。
家康としては速攻にて攻め落としたかったのであったが、現実に目にしてそれが難しいことを認めざるを得なくなっていたのである。
「わしはの、元忠。今回の遠征は乗り気ではなかったのだ」
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