第106話 飛騨松倉城にて
◇
時を同じくして、京より離れた飛騨国においても激震が走ることになる。
飛騨松倉城。
ここは朝倉家が飛騨を平定した後、その統治を任された武藤昌幸が、それまで姉小路氏が飛騨国の拠点としていた桜洞城より移って新たに築城した根拠地である。
居館としての役割が強く、さほど防御に優れていたとはいえない桜洞城に比べ、この松倉城は遥かに堅固な山城であった。
六月二十日。
その松倉城の昌幸の下に、一人の客人が訪れていた。
出浦昌相。
信濃国更級郡の上平城主を務める、信濃国人衆の一人である。
「そうか。兄上は息災か」
それは良かったとばかりに昌幸は頷いた。
昌幸の兄で真田家の家督を継いでいる真田昌輝は、今回の朝倉家上洛に呼応するかのように、東上野へ侵攻して沼田城を奪取。上野一国をほぼ支配するに至っている。
もっとも奪われた側の北条家にしてみればそれを許容できるはずもなく、断続的に戦闘が行われているという。
とはいえ今のところ十分に、北条勢を撃退できているとのことだった。
「家中ではこの勢いのまま、小田原に攻め込んではという意見もあるようですな」
「小田原か……」
相模北条家の本拠地である小田原城は、平山城であるが難攻不落と知られている惣構の作りとなっており、かつて上杉謙信や武田信玄が侵攻した際もこれを防ぎきったという経緯がある。
「あれを落とすのは容易ではあるまい。まともに戦ってはこちらの被害が大きすぎる」
「慎重論もあるにはあるのですがな」
昌相の口ぶりから、かつての長篠の戦いを思い出した昌幸は、やれやれと小さくため息をついた。
どうやら主君である勝頼自身が望んでいる節がある、ということだろう。
父・信玄が果たせなかった偉業を成し得ることに、抗い難い魅力を感じているであろうことは、想像に難くない。
とはいえ長篠での敗戦により、より慎重になったこともまた事実である。
「上野の奪取は道半ばであったこともあり、必要な行動であったとは思う。沼田は重要な要地であるしな。あそこを真田が抑えることができた意義は大きい」
上杉との関係が険悪であれば、上野は北条や上杉に挟まれて維持することもなかなかに難しくなるだろうが、しかし上杉家とは現在良好な関係を築けている。
また武田家は朝倉家と非常に関係が深く、その朝倉家と領地を接している上杉家は迂闊な行動は取れない、というわけだ。
「そういえばその朝倉家のことであるが、どうして上杉と盟約を結ばないのかと昌輝殿が不思議がっておりましたぞ」
「ほう、兄上が」
「かつての甲相駿三国同盟ではありませぬが、これが果たせれば周辺国にとっては脅威となるはずです。例え織田家を相手にしたとしても、後れをとるものではないと」
「まあ、そうではあるのだがな……」
現在の外交情勢であるが、武田家はすでに朝倉家と上杉家に対して婚姻同盟を行っており、その関係は強化されている。
問題は朝倉家と上杉家の関係だった。
上杉謙信が健在だった頃は、両家は越中国の覇権を巡って激しく争った経緯がある。朝倉家が大敗を喫したのも、謙信を相手にした時だった。
しかしまもなく謙信は病死。
謙信の死後、その家督を巡って二人の養子が争う御館の乱が勃発すると、朝倉家は即座にこれに介入し、上杉景勝を支援してその家督継承に一役買っていた。
以降、両家の関係は悪くない形で継続している。
「朝倉家とて、上杉と結んだ方が背後を気にせずに畿内に進めるというもの。そうではありませぬか?」
昌相の問いに、昌幸はやや困った顔になった。
「それなのだがな……ううむ」
ここに昌幸の難しい立場があった。
昌幸が預かっている飛騨国は、朝倉家のものである。
しかし昌幸自身は武田家臣である。
この複雑な状況は色葉の提案によって勝頼が承諾したことにより、実現したものだ。
この飛騨を朝倉、武田の緩衝地帯にするためでもある。
内政に関しては基本的に朝倉家のものと同じであるが、軍制に関しては武田家のものが使用されている。
とはいえその所属は曖昧と言っていい。
色葉ですら飛騨衆を遠征軍等には基本的に組み入れず、例えば今回の上洛においても動員はかかっていない。
それは武田にしてみても同様であった。
「それがしは武田の臣ではあるが、朝倉家とも縁続きであり、その評定に参加することも多い。というかたまに行って色葉様のご機嫌をとらないといけないのでな……」
どういうわけか自分はあの色葉に気に入られているらしく、その自覚もある。
でなければ縁組やこの飛騨を与えるという話になど、なるはずもない。
「わしは会ったことはありませぬが、噂はかねがね」
「一度会っておけ。まあ何というか、大したお方だ」
「ほう……昌幸殿がそう言うとはなかなかですな。それは信玄公と比べてならば、どうなのですかな?」
興味本位で尋ねた昌相の問いに、昌幸はまたもや困った顔になる。
「信玄公には大恩ある身。その才覚や他の及ぶところではないとも思うが……。しかしあの姫は底が知れん。あるいは、とも思わないでもない」
「ほほう」
「少なくとも武田はあの姫と結んで正解だった、ということだろう」
色葉は最初から織田家を敵視していたため、必然として武田と結ぶことになったが、これは武田家にとって僥倖と言うべきことだった。
仮に色葉が織田と結んでいた場合、北陸を平定した後の朝倉家は迷わずに信濃に侵攻していたことだろう。
北陸一帯を支配した朝倉家の力は、すでに武田家と同等か、凌ぐところまできている。
少なくとも経済力においては、武田家の及ぶところではなくなってしまっていた。
「まあそれはともかく、上杉との同盟の件だったか。少なくとも現段階で色葉様はそのようなことは考えていない」
「それが不思議なのです。昌幸殿がそれほど評価される姫君が、上杉との同盟の利を考えていないというのはいかにもおかしい」
首をひねる昌相に、昌幸はやや声をひそめて言った。
「まず第一に、色葉様はすでに上杉を脅威として見ていない」
「なんと?」
「この前の乱は、それほど上杉を消耗させたということだ。またそれがしの私見ではあるが、すでに上杉家中は調略によってかなり切り崩されていると見ている」
「調略ですと? それは……その姫が?」
「恐らくな。謙信の死後、上杉景勝から接触があって以降、断続的に続けられているはずだ。何か事が起こった時に、これは朝倉を利することになる一方で、上杉に致命的な打撃を与えることになるだろう」
「事、ですか」
「まあ色葉様にとっては、将来に対する備え程度の軽いお気持ちかもしれぬが、しかし切り崩されている上杉家の方はたまったものではないだろう。勿論、それには気づいていないだろうが」
「……噂以上に恐ろしき方のようですな。その色葉姫は」
「だから苦労が絶えんのだ」
とにかく気の抜けない相手なのである。
時折ふらっと現れては、頭の痛くなるような謀略の相談を持ちかけられることのある昌幸にしてみると、どうしてわざわざ自分の所に……と思わないでもなかったが、相談した結果、満足そうにして帰っていく色葉の顔を見ていると、どうやら自分も大概であるのかもしれない。
もしくは色葉に毒されてしまったからか。
「つまり朝倉は上杉を対等に扱う気は無い、ということですか……」
同盟締結に至らない理由は、これで納得できる。
とはいえ、と昌相も難しい顔になった。
「されどこのことは、武田の外交戦略にも影響を及ぼしますぞ」
「そうだ。故に他言無用」
そこだけははっきりと、昌幸は告げた。
「昌相のことは個人的に信頼しているから此度のことを話したが、できれば兄上にも内密にしておいて欲しい。この手の話は誠実な者からすれば、嫌われる話だ」
「誠実などこの乱世において、飯の種にもならんでしょうに」
「そう言うな。そういった輩もおらねば、この世は果てしなく醜く成り下がるだろうからな」
昌幸がやや自嘲気味にそう答えた時であった。
「殿――!」
慌ただしい足音と共に、家臣の一人が血相を変えて飛び込んできたのである。
「おう、内記か。如何した?」
「一大事ですぞ! おお、これは失礼を」
家臣である高梨内記は昌相の顔を見て来客中であったことを思い出し、一旦頭を下げたもののすぐにも用件を告げることを優先させた。
「徳川家康がこの飛騨に侵攻する気配を見せております!」
「なに、徳川だと?」
その報告は、昌幸にしても意外なものだった。
「織田ではないのか?」
「報せによれば、徳川家康自ら総大将として、この飛騨を目指しているとのこと」
「ふむ、徳川か……」
この報せを聞いた昌幸に、驚きがあったといえばあったし、無かったといえば無かった。
まず飛騨への侵攻であるが、実はこれは想定されていたのである。
色葉が上洛するにあたり、再三注意喚起を昌幸に促していたからだ。
もし織田が手薄になった朝倉領国を突いてくるとするならば、まず飛騨であろうと。
それについては昌幸も同感であったので、すでに備えは整っている。
そのため驚きは無かったのだ。
しかしそれは織田が攻め寄せてくるのであって、徳川であるというのは想定外である。
これが驚いた理由だ。
「信長も一筋縄ではいかんな。家康にこの飛騨を突かせるとは……」
武田家は現在、関東方面で北条との小競り合いが続いており、三河の徳川家康が動きやすい状況にあったことは間違いない。
それを無駄なく利用した、というところだろう。
「家康は岩村城から飛騨を目指してくるか」
「はっ。すでに岩村城に入ったとのこと」
「やれやれ……。やはり岩村城の失陥は痛かったな」
以前は武田が支配していた岩村城は、長篠の敗戦後に織田によって奪還されている。
岩村城は要衝でもある重要な拠点だ。
「で、敵兵は如何ほどか?」
「今のところ不確かではありますが、徳川勢約八千に織田勢約一万」
「二万近くか……やれやれだな」
「ど、どうなさいますか?」
「どうもこうも戦うしかあるまい」
ちなみに松倉城の守備兵は約三千である。
数の上では圧倒的不利であることは、言うに及ばない。
「ただちに援軍の要請を!」
緊迫する高梨を他所に、昌幸は少し考え込む。
「と、殿?」
「うーむ……。まあそれも良いのだが、しかし……ううむ」
「何を考えておられる?」
つい口を挟んでしまったのは、昌相であった。
今この状況下で、援軍要請よりも先にすることなどあるのだろうかと、不思議な顔になっている。
「援軍要請か。まあ、それが定石ではあるが。しかしそれをすると、色葉様に後で文句を言われそうな気がしてな……」
「文句、ですと?」
「どうもあの方はそれがしを過大評価されているようでな。ごく常識的な受け応えではむしろ胡乱げな表情をされるのだ。本当は何を企んでいるんだ、と」
別に何も企んでなどいないのであるが、どうも色葉は昌幸のことを謀略好きだと信じている節があるようで、その期待に応えないと少なからず不機嫌になるのだ。
「それは……何というか、大変ですな」
昌相としては、そうとしか応えようがない。
「というわけで援軍要請はしない。色葉様にあの尻尾で責められるのはかなり恐ろしいからな」
「し、しかし殿!? そのようなことを言っている場合では――」
「もちろん、徳川襲来の報はただちに送れ。深志城の馬場殿と、勝山城の大日方殿にな。あとはお二人に任せておけば良い」
「は、はあ……」
「あと御館様に書状だ。この飛騨は心配御無用。むしろ今こそ三河侵攻の好機である、とでもしたためておくか」
六月二十八日。
徳川家康率いる八千余の徳川勢と、織田信忠率いる一万余の織田勢、計一万八千余の連合軍は家康を総大将として飛騨松倉城に肉薄した。
これを迎え撃つ武藤勢は三千余。
松倉城の戦いである。
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