第84話 荒木村重謀反
◇
荒木村重謀反。
この報せは驚きをもって織田信長の元に届けられた。
荒木村重は摂津三十七万石を拝領する身である。
織田家中にあっても大身であるといえた。
それが突如反旗を翻したことに、信長は耳を疑ったという。
史実において、何故村重が謀反に至ったのか、その真相は不明である。
石山本願寺と戦ううちに、その惨状を目の当たりにして逆に通じてしまったとか、信長の家臣に対する態度に耐えられなくなったとか、村重が治めていた摂津の領民の間で反信長の機運が高まり、これに排除される前に自ら謀反に至ったとか、様々だ。
ともあれ事の究明のため、信長は明智光秀、松井友閑、万見重元らを有岡城に派遣することになる。
光秀の娘は村重の嫡男・荒木村次の正室であったことから、特に選ばれたのだろう。
使者は丁重にもてなされたものの、説得には至らなかった。
この帰路において、光秀は一人の人物と出会う。
本多正信と名乗った朝倉家臣と知己を得た光秀は、一晩を語り合うことになる。
それが朝倉方からの調略の第一歩だったことは、言うまでもない。
◇
村重の謀反の報は、当然信貴山城の松永久秀の元にも届いていた。
予告されたこととはいえ、実際にそうなるとやはり驚くものである。
筒井順慶の死についてはやはりというか、周囲に疑念を抱かれたものの、村重謀反により織田家中はそれどころではなくなったことで、いったんは据え置きとなっていた。
「で、どんな感じなの?」
信貴山城を我が物顔で闊歩する乙葉の存在にはいい加減慣れたものの、清姫との喧嘩が絶えずに胃を痛めていた久秀は、ようやくの変化にやや前向きな気分になってきたところであった。
「茨木城の中川清秀や高槻城の高山右近など、摂津の諸将は一応は村重に同調したようじゃの」
「一応?」
「人質を取られている者もいるでな」
「ふーん」
なるほど、と乙葉は頷く。
「つまり心から従っているわけじゃなくて、無理やりってこと?」
「であろうな」
「やっぱり。色葉様がおっしゃってたけど、その高山何とかっていうの、放っておくと裏切るんだって」
「ほう」
乙葉の何気ない言葉に、久秀は眼光を鋭くする。
とはいえ清姫の膝枕の上で耳かきをされながらでは、威厳も何もあったものでは無かったが。
「色葉殿はそう言われたか。しかし……」
乙葉が久秀の元を訪れてから、実は居っぱなしである。
にも関わらずそんな発言が出るということは、事前に色葉はそこまで見通していたということ。
それはそれで、いったいどんな洞察力というのか。
「しかし、なに?」
「いや、いや。何でもないわい」
「そ。で、どうなの?」
乙葉は再び質問を繰り返す。
「それは荒木殿が勝てるか、という意味か?」
「そうに決まってるでしょ」
馬鹿なの? と視線で付け加えれば、ぎろりとした視線が返ってくる。
それは当然、清姫のものだ。
「乙葉さん。また燃やされたいのですか?」
「はっ、前にそれで久秀に怒られたくせに、またやるの? 学習できないってことは、あなたも馬鹿なんでしょ?」
「ふふ……。本当に乙葉さんは可愛くていらっしゃる。ええ、もう、本当に……!」
「こら、耳かきを耳に突っ込んだままで、物騒な気配を漂わせるのはやめよ」
危機感を覚えた久秀が叱責すると、渋々といった様子で乙葉から視線を逸らす清姫。
あとは無視、である。
乙葉にしてみても、ずっと黙っていろこの蛇! な気分であったものだから、丁度良かったのであるが。
「やれやれ……。で、なんじゃ。荒木殿のことだったか。まあどうであろうな。有岡城は堅城ゆえ、そう簡単には落とせまいて。そうでなくては困るのじゃろう?」
「そ。色葉様はそうおっしゃってたわ。でも信長のことだから、支城を一つ一つ潰して有岡城を孤立させて、じわじわ攻め立てるだろうから、まずは裏切りを防げって」
「ほう。高山殿の離反を、ということか。しかしのう……高山殿はわしと違い、信仰心に篤く清廉潔白ゆえ、そもそも今回の荒木殿の謀反にも反対していたくらいじゃからな。人質がとられているせいもあって、今は荒木殿に同調はしているが……」
高山右近が天主教の洗礼を受けているのは有名な話で、ジュストという洗礼名を持っている。
「当然信長も知ってるわけでしょ? だからそこら辺の宣教師どもを使って、高山を引き込もうとするはずだから……事前に手を打っちゃえばいいってことよね?」
そこで乙葉が見せた笑みは、およそ容貌に似つかわしくない残忍なものだった。
「……で、如何すると?」
「なによ、分からないの? 高山に繋がりのある宣教師どもを殺していけばいいって話。そうすれば信長からの調略を防げるし……ああ、そうね。ついでに噂もばら撒くの。信長は高山右近の降伏を認めない。そしてその罪を罰するために、異教徒どもを皆殺しにする……ってね」
名案、とばかりに乙葉は満足げな顔になるが、久秀としては世にも恐ろしいことを平然と言う少女に、世も末じゃとぼやく始末であった。
「何ぼやいてるのよ?」
「宗教は敵に回すな。あれは厄介じゃぞ?」
「久秀だって大仏燃やしたんでしょ? 今さら何言ってるのよ」
「あれは失火じゃ」
「誰も信じないし」
「ぬぅ……」
「それに信長だって比叡山燃やしたじゃないの。皆殺しにしたんでしょ? ならみんな信じるんじゃない?」
「とはいえ信長は、伴天連どもと仲が良いからのう……」
はてさてどうしたものか、と久秀は考える。
乙葉の言う方法は、まあ手段を選んではいないが、合理的に考えれば悪くない案でもあった。
実際にはもう少し洗練されたやり方を用いるべきとは思うものの、裏切る可能性の高い高山右近を事前に封じてしまうことは、不可欠とも言えるだろう。
「……まあ、伴天連どもを手にかけるのは置いておいて、単に噂を流すだけでも効果はあろう。少なくとも疑心暗鬼にはなる」
「意外に甘いのね?」
「わしももう歳ゆえな。どうせなら極楽往生したいものよ」
「あははは。それ無理。だって地獄の鬼との方が、相性良さそうだもの」
「失礼なやつじゃのう」
ひとしきり笑った乙葉は不意に笑みを引っ込めて、やや真剣な表情に戻って先を続けた。
「まあ、やり方は久秀に任せるわ。妾はそろそろ次のお仕事があるから、お暇するけど」
「む、もう行くと申すか?」
「正信と落ち合う約束になってるから。ちょっとね、丹波に行かなくちゃならないの。その護衛だって」
「正信、とな?」
久秀は首をひねる。
聞き覚えのある名だったからだ。
「なに、知ってるの?」
「名字は何と申す?」
「本多。本多正信」
「ほう! あやつか」
そこでようやく久秀は身を起こし、真正面から乙葉を見返した。
「今から十五年くらい昔か。あやつはわしに仕えていたことがあってな」
「そうなの?」
乙葉は正信のことはあまり詳しくない。
確か尾山御坊を開城させた後、色葉に仕えるようになった人物で、一向一揆勢の一人だったはず。
どういう理由か色葉は正信のことを気に入ったようで、比較的近くに置いて相談相手にしていることが多い。
色葉に重用されていることは間違いないのだが、その割には知行が少なく、しかし正信には不満が無いようにもみえ、乙葉をして変なの、と思わせたことがある相手である。
ただ頭がいいのは間違いなく、乙葉にはちんぷんかんぷんでもある内政の話などで、色葉はよく相談しているようだった。
「本願寺に与していたかと思っておったが、そうか、朝倉におったか」
「正信って使えるの?」
「ふむ? あやつのことはあまり知らんのか?」
「正信も妾も色葉様の側近っていう意味では同じだけど、畑違い過ぎて今まであまり絡むことが無かったから。でも色葉様は気に入っているみたい」
「であろうの」
さもありなん、と久秀は頷く。
「正信は元々徳川の家臣じゃったが、まあ色々あって出奔した身の上での」
「あ、うん。それは知ってる」
「徳川の者どもは頭の中身と力こぶの中身が同じ奴らばかりじゃが、その中にあって正信は稀な人物じゃな」
「……?」
妙な表現に、乙葉は首を傾げた。
「それ、徳川の連中は馬鹿ばっかりってこと?」
「いやいや、馬鹿とは言うておらん。言うておらんだけじゃがな」
「ふーん。つまり正信はそうじゃない、ってことね。でも久秀に褒められても嬉しくないんじゃない?」
「まことに失礼なやつじゃのう」
久秀はやれやれと思いつつも、一方でこんな自由奔放な狐の妖を従えている色葉とやらは、いったい如何なる人物なのかと興味も湧いてくる。
会ってはみたいがまだ先のことになるだろう。
もちろん、全てがうまくいった上での話になるが。
「しかし丹波に行くとな?」
「そうよ」
「何用で」
「知らない」
丹波国は色葉が久秀に大和国の代わりに与える、と約束した国である。
気になるのは当然だった。
「そうそう。妾は行くけど、代わりに貞宗が戻ってくるから」
「何やら監視でもされているようじゃの」
「さあ……どうかしらね。でも煩わしいからって、貞宗に変なことするんじゃないわよ? 貞宗って堅物で面白味が無い人間だけど、色葉様のお気に入りだから……何かあったら多分、久秀が酷いことになると思うし。それはそれで見て見たいとも思うけど、ね」
それだけを言い残して、乙葉はその日のうちに信貴山城から姿を消した。
「やれやれ……行きおったか」
「あのような狐、殺してしまいましょう」
やや気が抜けたようになった久秀へと、不満も露わに清姫が進言してくる。
「いかんいかん。あれには手を出すな」
「……清があの狐に劣るとでも?」
清姫の不満がさらに増大し、殺意が滲み出す。
その妖気たるや、乙葉のものと比べても遜色無いどころか、それ以上にすら思えるものであった。
「今ならば清の方が強かろう。じゃが楽に殺せる相手ではないぞ? 手傷を負うどころか深手となりかねん。第一利が無い」
「あります。清の溜飲が下がります」
「たわけ」
困ったものだと、久秀は溜息をつく。
これでは徳川の家臣どもだけを悪く言うことはできないではないか、と。
「あの乙葉を従えている色葉なる姫がおることを忘れるでないぞ。あれほどの妖が従う相手じゃ。いったいどれほどの化け物なのかのう……」
それでも会ってみたい、という欲求は日に日に強くなっている。
一時、その色葉の元へと戻っていた貞宗がこちらに帰ってくるということは、新たな動きがあると思って然るべきだ。
実に愉しみである。
年甲斐も無く、久秀はそう思うのだった。
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