第76話 弔問の夜


     ◇


「しかし残念なことです。春日殿といえば、この越後にも名を轟かす名将。武田殿も嘆かれていたことでしょう」


 雪葉と共に武田の陣を訪れ、弔意を示してきた長敦へと、雪葉ははい、と頷く。


「わたくしも姫様も一度お会いしている方でしたので……」


 六月十四日。

 上杉との交渉に当たっていた武田方の重臣である春日虎綱が、居城である海津城にて死去したことが知らされた。


 虎綱は元は農民出身でありながら武田信玄に近習として召し抱えられ、その才覚から武田の重臣にまで出世した人物である。

 武田四名臣の一人にも数えられていたが、史実においては四名臣の中で最後まで存命した。


 しかし長篠の戦いにおいて、色葉が他の三人の命を救ったこともあり、三人が討死を免れたことで虎綱が最初に死去することになったのである。


 これを知った景勝は、弔問として長敦を派遣。

 雪葉もまた、それに同行したという次第であった。


「それにしても見事な手並みですな、朝倉殿は。私はお会いしたことは無いが、一度目通りしたいものです」


 話題を変えて、長敦は色葉の話題を振ってきた。

 重苦しい話題はこれまで、ということに雪葉も賛同し、頷く。


「姫様は事前に準備をされただけで、この度実際に交渉を行われたのは、新発田様や斎藤様です。その手腕こそ、評価されるべきでしょう」

「貴殿にそう言われると、素直に嬉しくはありますな」


 今年四十となった長敦は、未だ二十歳そこそこにしか見えない雪葉の称賛に、年甲斐も無く笑ってみせた。


 この新発田長敦は、かつて上杉謙信に仕え、柿崎景家、本庄繁長、加地春綱、竹俣清綱、色部勝長、中条藤資らと共に七手組大将の一人として称された武将である。


 特に外交手腕に優れていたこともあって、今回の武田との交渉を任されたほどであった。

 雪葉がこの長敦に近づいたのは、別に偶然というわけではなく、当初から色葉に命じられての行動であった。


「そういえば新発田様の弟君の五十公野治長様も、とても優秀な方と窺っています。安田様がどうにか味方に引き入れたいと、おっしゃっておりました」

「治長、ですか」


 五十公野治長とは長敦の弟であり、十歳以上の歳の差はあったものの、上杉謙信に従って川中島で武田勢と戦うなど、武功を上げた人物である。


「まだ若いせいか、未だ立ち位置を決めかねているようでしてな。私としては殿に従って欲しいと思う一方で、しかし何が起こるかわからぬ時世であれば、私とは逆の判断をするのもまた利ありではないか、とも思うのです。……ああ、このようなこと、他の方々にはおっしゃらないで下さると助かります」


 つい口が滑った、とばかりに笑う長敦に、雪葉もまたなるほど、と首肯してみせた。


「つまり、万が一景勝様が敗北されるようなことになった際にも、家名を残せると……そういうわけですか」

「潔しとは思われないでしょうが、これも一つの生き方です」

「そうかもしれませんね」


 頷きつつも、されど、と雪葉は続けた。


「ですが姫様は、是非にも五十公野様のお力が必要であるとおっしゃっておられました。五十公野様や新発田様などの揚北衆は下越を守る要……。伊達や蘆名がこの機に介入を狙ってくるとすれば、それを防げるのは揚北衆を置いて他にはありませんから」

「確かに弟を始めとする揚北衆が景虎様につけば、情勢は一気に傾くでしょう。しかし景勝様につけば、蘆名らと戦うことになり、これもまた困難な道。難しい選択です」

「安田様は、五十公野様を味方に引き入れるため、説得に向かわれるとのことです。これにわたくしも同行しようと考えております」

「なんと」


 やや驚いたように、長敦は雪葉を見返した。


「朝倉殿にしてみれば、この越後での騒乱は所詮は他家のこと。にも拘わらずそこまでしていただけるとは……これも皆、朝倉の姫の御命令なのですか?」

「その通りです。姫様は先の先を見通されている方ですから、五十公野様の存在が不可欠であると見抜いておられるのでしょう。今の内から誼を結ぶべきであると」

「なるほど……。では、この私に近づいてこられたのも、そういう腹があってのことですか」

「はい」



 取り繕うことなく素直に、あるいは馬鹿正直に認めた雪葉へと、長敦は苦笑してみせた。


「朝倉の方々は面白いですな。よろしいでしょう。一筆したためますゆえ、お持ち下され。ただし、最終的に決めるのは弟なれば、私は促しても強制はせぬとお心得下さい」

「いえ、十分でございます」


 その後、安田顕元の説得により五十公野治長は帰趨を明らかにし、景勝方への支持を表明。

 即座に治長は景虎方についた加地秀綱の居城・加地城を落とすなど武功を上げ、さらには越後へと介入を開始した蘆名盛氏や伊達輝宗の軍勢を退けるなど、大いに活躍することになった。


 そんな中、雪葉が密かに治長に接触し、朝倉との誼を通じた意味は、後に分かることになる。


     ◇


 坂戸城。

 ここは上田長尾氏ゆかりの地であり、景勝の実父である長尾政景や、その後を継いだ景勝自身の居城でもある。


 上杉家のお家騒動である御館の乱が勃発してよりこの地は、戦略的に非常に重要な地となっていた。

 この地は関東方面から越後に侵入する際に通過しなければならない地であり、当然坂戸城の奪取は不可欠といえた。


 乱の発生後、景虎支持に回ったのが、上杉家臣で上野国厩橋城代を務めた北条高広、景広父子である。

 相模北条家の援軍を引き入れる目的もあって、北条勢は上野国と越後国の国境である三国峠へと進軍。峠を守る宮野城へと殺到した。

 これが五月のことである。


 景勝方も奮戦したものの、援軍を送る余裕も無く、結果として宮野城は陥落。

 三国峠を制圧され、越後への入口を開かれることになってしまったのだった。

 ここで時を同じくして相模北条勢が動けば、戦局は一気に景虎有利に傾いたかもしれない。


 ところがこの頃、北条氏政は下野国の鬼怒川において佐竹氏や宇都宮氏と対陣中であり、越後へと援軍を送る余裕が無かったのである。

 そのため同盟国であった甲斐の武田勝頼に要請して、景虎援軍の兵を出さすことに成功。

 五月下旬には信越国境に二万余の武田勢が進軍し、景勝方を脅かすことになる。


 しかしこの時点ですでに朝倉氏を通じて景勝と勝頼は繋がっており、更に交渉を活発化させて勝頼は景勝支持へと方針転換し、甲越同盟が締結。


 これにより後背を突かれる恐れの無くなった景勝方は一気に攻勢に打って出、六月十二日には景虎方の直峰城を攻め落とし、春日山城と坂戸城の連絡を確保するに至る。


 この十二日の戦いで景虎方の将・長尾景明を討ち取り、更に翌十三日には山浦国清が上杉景信を討ち取るなど、徐々に戦局は景勝有利に傾いていった。


 この様子を伺っていたのが、武田勝頼である。

 勝頼は一応、景勝と同盟は結んだものの、北条家との関係も考えて中立の立場を維持し、景勝、景虎両者の和議を買って出たのだった。


 当初優勢であった景虎方も徐々にそれを覆されてきたことに焦り、七月に入って勝頼の調停を受けて一応の和平が成立した。

 またこの月、勝頼の妹の菊姫が、景勝へと輿入れを果たしている。


 これによりいったん乱は収束するかに見えたが、八月に入って三河の徳川家康が駿河への侵攻の動きを見せたことにより、和平成立後も調停を続けていた勝頼はこれを断念し、撤兵を余儀無くされた。

 これは即座に景勝、景虎の和平の破綻に繋がってしまう。


 さらに九月に入り、武田の裏切りに激高していた北条氏政が、北条氏照、北条氏邦に命じて越後侵攻を本格的に開始させる。

 越後への入口である三国峠はすでに開かれており、北条勢はこれを通過して坂戸城攻略を開始するも、景勝方は徹底抗戦することになる。


 しかし武田勢の撤退や北条勢の侵攻は景勝方を一気に窮地を追い込むこととなり、ここに至って景勝は朝倉へと援軍を要請。


 色葉はこれに応え、越中にてすでに準備を整えていた朝倉勢一万余は、朝倉晴景を総大将に即座に越後へと進軍。

 坂戸城救援へと駆け付けることになるのである。


 その陣容は、以下の通りであった。



 先 陣:三千余騎 大将・姉小路頼綱

          副将・神保長城

          副将・椎名康胤

 本 陣:五千余騎 総大将・朝倉晴景

          副将・堀江景実

          副将・朝倉景忠

          副将・山崎長徳

          副将・向景友

 後 備:二千余騎 大将・長連龍

          副将・小浦一守

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