第71話 北の脅威


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「ふふ……。秀吉様が、ずいぶんとご憤慨されていたとのことですよ?」

「サルもまだまだ甘い」


 京にあって、鈴鹿の言葉に信長は答える。


「光秀に任せている丹波平定も難儀しているからな。畿内が落ち着かない今、播磨までこのまま騒がせておくわけにはいかんだろう」

「そうですわね。わずか三千ほどの命、何ほどのものがありましょう」


 くすくす、と笑みをこぼす鈴鹿に、信長はやれやれと首を振る。


「そのような言を為すから、嫁の貰い手が無いのではないか?」

「これは異なことを。わたくしが心に決めているお相手は、殿しかいないというのに」

「娘が親と契りをかわしてなんとする」


 信長自身、確信があるわけでもないが、鈴鹿は一応信長の娘である。

 母親そっくりの容貌からして、母である帰蝶の血を引いていることは間違いないのだろうが……よくわからん、というのが本音でもあった。


「ふふ、良いではありませんか」

「戯言はそこまでにしておけ。それにしても、頭の痛いことだ」


 頭痛の種は、信長の懸念材料が一つ、ここにきて大きくなってきたことである。

 それは北陸情勢だ。


 越前の朝倉氏を滅ぼしたのは今から六年前にもなるが、その後すぐに越前一向一揆が発生し、信長は越前を失陥した。

 その時の信長は長島一向一揆の平定や、武田家との争いからしばし越前のことを放置してきたのであるが、その間に朝倉旧臣であり、その一門であった朝倉景鏡が一向一揆を駆逐し、瞬く間に越前国を平定。朝倉家を再興させてしまったのである。


 景鏡はかつて信長に臣従した経緯があったが、今では敵対の姿勢こそはみせていないものの、完全に独立したことは疑いようも無い。

 ところが問題はこの後で、朝倉は武田家と婚姻関係を結び、強力な越甲同盟を締結させた。


 その後すぐに飛騨国を攻略し、加賀国をも平定。

 朝倉家にとって長年の敵であった本願寺とも和睦し、国内での一向一揆発生の可能性は極端に減ってしまった。


 更には越中国に進出し、同じく越中・能登と侵攻していた越後の上杉氏と激突。

 緒戦で勝利した朝倉勢は一気に侵攻し、一度は富山城を落とす勢いをみせたものの、ここで上杉謙信が出張ったことで、朝倉勢は大敗北を喫し、一度は窮地に陥ったという。


 ところが朝倉方はここで粘り強く戦線を維持し、その間にあろうことか、謙信が死去してしまったのだ。

 謙信の死は信長にとっても歓迎すべきことであったが、しかしもっともこれを好機としたのは朝倉であったことは言うまでもない。


 即座に軍を動かした朝倉方は、越後へと撤退する上杉勢を牽制しつつ、越後と越中の国境を封鎖。

 一部の上杉勢が越中に孤立する中、上杉家の家督相続を巡っての後継者騒動が勃発したのである。


 越中に取り残されていた上杉景勝は窮地に陥ったが、即座に朝倉方と和睦することで滅亡を回避し、越後へと帰還して反撃に出たという。

 そしてこの和睦により朝倉が得たものは、越中の支配権である。


 また能登も上杉の撤退に伴い、取り残された畠山旧臣の残党が残るばかりとなり、掃討という形で能登に侵攻した朝倉方は、先月の六月に能登を平定し、北陸一帯を統一してしまったのだった。


 概算ではあるものの、越前五十万石に、加賀三十六万石、能登二十一万石、越中三十八万石、飛騨四万石と、合わせて約百四十九万石という石高を有し、朝倉家は甲斐の武田家にまったく引けを取らない大大名にのし上がってしまったのである。


 表面上の石高だけでもこれだけあるが、信長自身や家臣の分析によれば、その経済力はすでに武田家の比ではなくなっている、というのが大勢の見方だった。


 この時代、海運の中心は北海である。

 そのため武田家に比べて上杉家は各段に経済力に恵まれていた。

 直江津や柏崎の湊を抑えていたからである。

 この二港から得られる関税収入が、上杉家の財政を支えていたと言われている。


 そして朝倉家は北陸一帯を支配することになったため、各湊から得られる収入は巨額なものになると予想された。

 それだけではなく、朝倉家はその復興と同時に税制改革を推し進め、新田の開発を推奨し、更には公共事業として各地で城の普請を行い、流民の流入に努め、人口増加が進んでいる。


 また信長と同様に領国内の関所をことごとく廃止し、人の行き来をし易くしたため、商人らによる商売がし易く、銭も物も流入しているという。

 更には銭そのものを新たに製造し、流通させている点が、信長をして感嘆せしめたのである。


「見よ」


 信長は手にしていた銭の一枚を、鈴鹿へと放った。

 受け取った鈴鹿はそれを眺め、綺麗ですわね、と素直に感想を漏らす。

 天正大宝――朝倉が言うところの五文銭である。


「他にも金でできた銭もある。俺も見たが、あれはなかなかの出来だ」

「金で銭、ですか?」

「そうだ。いわゆる高額貨幣というものだ。朝倉は銭不足の解消のために、金を用いて効率化を図ったというわけだ。まあ金でできた銭ならば、武田の甲州金などもあるが、出来栄えはその比ではない」


 信長が感心したのはただ単に金を銭にしただけでなく、それこそ芸術的ともいえる精緻な意匠をこらし、価値を高めているところにあった。


「これが我が領国の市場にも席巻しつつあってな……手を焼いている」

「手を焼く、ですか?」

「そうだ」


 鈴鹿は信長を唸らせるほどの鬼謀の持ち主ではあるものの、積極的にそれを用いたりはしない。

 助言を求めれば答えてはくれるのだが、それは的を射ている一方で過激な内容が多く、全てを採用するわけにもいかなかった。


 また庶民の暮らしにはまるで興味が無いようで、信長の行っている政治は善政と呼ぶに相応しいものではあり、そのことを理解もしていたが、だからといって関心を持てるわけでもないらしい。


「これだけの出来栄えの貨幣であるからな。当然、人気が出ている。商取引でも活発に用いられるようになっており、これを利用すれば経済を回す上でも役に立つ」

「……? であればよろしいではありませんか。何がお困りなのです?」

「勿論、これを朝倉が流通させているからだ」


 朝倉家はこの新貨幣を製造、流通させているのであるが、旧来の貨幣との価値の差が出ており、旧貨の価値が暴落しているのである。


「朝倉はこの差を利用して旧貨を搔き集めて資源とし、改鋳することで製造しているようだが、当然その利ざやで儲けていることになる。これも莫大な額だろう」


 大したものだと思う一方で、忌々しくもある。

 経済の中心が、少しずつ越前国に傾き始めているのを敏感に感じ取っていたからだ。


「同じものは作れないのですの?」

「それは考えた。家臣にも図らせたが、従来の鋳造では同じ精度のものを作るのは不可能であるそうだ。というよりこれは、鋳造というよりは打刻による鍛造ということだそうだ」


 信長の答えに、鈴鹿は小首を傾げる。

 そんな姿に信長は笑う。


「そなたでもわからぬことがあるのは良いことだ。少し、安心する」


 全てを見通すような鈴鹿の言は、信長でも末恐ろしく思うことがあるが、今のように当然知らぬものもあり、そんな姿はどこか人間臭く――ひとでは無いのかもしれないが――信長はどこか安堵するのである。


「ひとの世の技については、不得手ですので」

「よい、よい。その銭の製造法であるが、どうやら南蛮で使用されているものと同じであるようだ。その南蛮製のものよりも技術的に優れている点がやや引っかかりはするが、できないものでもない。とはいえ、我らでは今のところ不可能なことには変わりないがな」

「では、奪えばよろしいではありませんか」


 こういう意見がさらっと出るあたりが、鈴鹿の恐ろしいところでもある。


「そなたらしい意見だ。が、一理ある」

「どうせ、このまま朝倉は放置できないのでしょう?」


 まさにその通りで、それが信長にとっての大いなる頭痛の種だったのから。


「滅ぼしてしまえばよろしいのです」

「もはやそう簡単にはいかぬほど、あれは大きくなり過ぎた」


 朝倉の経済力がかなりのものになっていることは、疑いようも無い。

 軍事力の方は分からないが、この時世において、富国だけに努めているとは思えない。

 となれば、経済力に比例したものは最低限、備えているとみるべきだろう。


「恐らく朝倉にも足利義昭の手が及んでいるはずだ。本願寺と和睦していることからも、間違いない。丹波の波多野を支援しているという噂もある。これまでは北陸平定を優先させていたようだが、これで満足するとも思えぬ。やはりここは……先手を打つべきだろう」

「やはり戦、なのですわね」


 愉しそうに鈴鹿が笑う。


「播磨状勢を何とかするのが先だが、しかし同時並行的に朝倉討伐の準備も進める。権六に命じてすでに動員はかけさせているがな」

「柴田様、ですか。それは良いですね。鬼柴田のお手並み、是非とも拝見したいものですわ」


 本当の鬼である鈴鹿に言われては皮肉にしか聞こえないが、それでも鬼柴田と呼ばれる柴田勝家が織田家随一の猛将であることは、疑いようのない事実である。


 ともあれこのようにして、北陸方面での朝倉家の飛躍は信長を警戒させ、その討伐のための軍の動きを加速させることになったのである。

 時にして天正六年七月のことであった。

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