第56話 砺波山の戦い


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 斎藤朝信。

 上杉謙信から大いに信頼されたという柿崎景家と共に、謙信の関東管領職の就任式の際には太刀持ちを務め、各地で武功を上げること数知れず、景家と共に奉行職をも務めるなど、文武両道に通じた名将である。


 その片翼であった景家を天正二年十一月に亡くして以降は、謙信の信頼を一身に背負う重鎮の一人であった。


「朝倉勢の動きは?」

「今のところありませぬ。どうやらこちらを警戒して動けぬようですな」


 朝信に答えたのは、本庄繁長。

 勇猛さで知られる上杉方の将で、かつて謙信に対して謀反したことのある人物である。


 さしもの謙信も、上杉家に鬼神ありとまで言われた繁長の武勇の前には手古摺りはしたものの、最終的には繁長に味方する周囲の者を順に攻略し、孤立したところを蘆名盛氏の仲介によって降伏させ、嫡男の千代丸を人質に出すことで許されて帰順した経緯があった。


 ともあれその後は謙信に従って各地を転戦し、功を挙げている。


「であれば良いが……」


 色葉が予想したように、朝信が率いた上杉勢は約三千足らずであり、とてもではないが万余の大軍とはいかない規模だった。

 それに対する朝倉勢は、実に二万近い大軍と号し、越中へと出陣したことはすでに知られている。


 その先陣が越中国境を侵したのはつい先日のことで、謙信は朝信に命じ、この砺波山の出口を塞ぐ形で迎撃する構えを取ったのである。

 その際にわざと旗指物を増やし、陣容を大きくみせ、いかにも大軍をもって迎撃に来たようにみせかけさせたのであるが、それは当然敵の大軍を相手に平地決戦の愚を悟っていたからに他ならない。


 今のところその策は功を奏し、朝倉勢の動きは止まって、砺波山にて陣を張ったようだった。


「朝倉勢など一捻り。拙者にお任せあれ。今夜のうちに壊滅させてご覧に入れますぞ」


 繁長の勇猛さは朝信も承知しており、朝倉の諸将に勝っても劣るものではないことは、重々に承知している。

 それでもどこか不安が拭えないのは、昨今の朝倉の躍進にあった。


 天正元年に織田信長によって滅ぼされた朝倉家であったが、いつの間にやら再興を果たし、越前を回復。

 また武田と強固な同盟を結んでまず飛騨国を手に入れ、昨年にはあっという間に加賀国を平定してしまう手際の良さ。


 さらにその後は本願寺とも同盟を結んで一向一揆の発生を防ぐなど、外交手腕にも長けている。

 そして今度は越中だ。


 どうやら事前に朝倉の手の者が相当数入り込んでいたようで、すでに滅びた神保氏や椎名氏の残党は朝倉に味方する構えであるし、能登の畠山氏も通じていたようで、今回の侵攻の大義名分を許す羽目になってしまった。


 さらには一向一揆である。

 越中国も一向一揆の頻発する地域であり、上杉家にとっては宿敵だ。


 それは朝倉家にとっても同様であったのであるが、かの家は本願寺と結んでおり、彼らがどちらに味方するかは明白である。

 そのため各地に配置している兵を減らすわけにもいかず、この越中国境に派遣できたのは、僅か三千という兵力に過ぎなかった。


 問題は、誰がこのような状況を現出したか、である。


「のう、繁長。朝倉とはこのように積極的な家であったか? 朝倉義景が治めていた頃に比べて、まるで比較にならん」

「拙者は朝倉のことには詳しくはありませぬが、織田如きにことごとく敗れた者どもでしょう。心配には及ばぬかとも思いますが」

「しかしその織田は、武田に勝っているぞ。そなたも長篠の一戦は聞き及んでいるだろう」


 長篠の戦いで武田が織田に敗れたことは、上杉と織田の関係を一変させた。

 それまで織田は、武田に対する備えなど利害関係の一致から、同盟を結ぶに至っていたのである。

 しかもどちらかといえば、織田家の方がへりくだる形でだ。


 ところが武田信玄が死に、その子である武田勝頼が長篠で敗れたことで、織田は武田に対する脅威判定を引き下げる。

 これにより上杉との同盟関係は、さほど重要ではなくなってしまったのだ。


 さらに敗れた武田は武田で、上杉との同盟を望み、両家はこれを成立。

 これに加えて足利義昭からの呼びかけにより、信長包囲網の結成のために上杉家もこれに参加することを決めたことで、織田との同盟はすでに破綻していたのだった。


 今回の越中、能登平定の目的は北陸道を手中に収め、上洛するための足掛かりにするためのものである。

 しかしここに立ちふさがったのが、朝倉家であった。


「今の朝倉の当主は、朝倉義景の従兄弟なる人物と聞き及んでおりますが、その者は義景を裏切ったとも聞いております。まあ拙者が言うのも何ですが、機をみるに敏なのかもしれませぬな」

「朝倉景鏡か……」


 元々朝倉家一門の中では筆頭であり、軍を率いて織田と幾度も戦ったことのある将ではあるが、やはり主君を裏切ったという悪評の方がつきまとう人物でもある。

 しかし結果として、衰退して一度は滅亡した朝倉家を、ここまで盛り返したこともまた事実である。


「その景鏡自身は北ノ庄を動かず、今回の出兵を率いる総大将は、朝倉晴景とのこと。これは武田勝頼の弟を養子として迎えたらしいので、武田の軍制についても知り得る人物ということになります。なれば、弱兵の朝倉兵も、多少はましになったというところでしょうな」


 繁長の言うように、上杉をして武田勢はやはり今でも強敵である。

 その武田の軍制が取り入られたとするならば、ここ最近の朝倉勢の強さも多少は説明がつくだろう。


「ともあれ、奇襲は早ければ早いほどよろしいかと。折角敵を足止めしたというのに、敵の本隊の到着を待たせてしまっては本末転倒ですからな」

「げにも」


 朝信は頷き、かねてからの計画通り、朝倉勢への夜半への奇襲が敢行されることになった。


 繁長が密かに手勢を率いて朝倉勢の背後に回り、退路を遮断。

 しかるのちに朝信率いる本隊が夜襲を仕掛け、敵を混乱させた上で砺波山にある俱利伽羅峠の谷底に追い立てて、突き落とすというものである。


 作戦は決行され、まずは繁長の隊が峠道を迂回するために、先行。

 しかし夜を待たずに、異変が起こったのである。


「敵襲!」


 にわかに陣の中が慌ただしくなり、何事かと朝信は躍り出る。

 見れば眼前には敵が殺到しており、それを慌てて上杉勢が防いでいるといった有様だった。


「怯むな! 敵は一度には攻めかかれん! 確実に眼前の敵を討て!」


 先手を打たれたことに舌打ちしつつも、朝信は即座に指示を出し、体勢を立て直す。

 事実、峠道は狭く、敵兵は次から次へと溢れてはくるが、勢いは限られていた。

 上杉方も夜襲のため出陣の態勢を整えていたこともあり、動揺はあったもののいきなり崩れるということもなく、また朝信の統率力もあって、徐々に押し返すことに成功しつつあった。


 しかしそれでも出鼻を挫かれたことで、士気に影響していることは間違いない。

 また繁長を先行させたことで、兵数の減少に留まらず、指揮の負担が朝信にのしかかっていたことも、挽回の可能性を難しくしている。


「陣を張ったようにみせたのは偽りだったか。誰だか知らぬが、厄介な者が朝倉にはいるようだな」


 先手の大将は堀江景実と聞いているが、無名であったことから最低限の警戒しかしていなかったことを食いつつ、認識を改める。

 やはり先陣を任される以上、それなりの者であるとして構えるべきだったのだ。


「良いか! このまま敵を押し返した上、かねてからの予定通り追撃をかけるぞ! 決死の覚悟で臨め!」


 現状を打開するには、無理をしてでも当初の予定にもっていくしかない。

 いったん押し返した後に距離をとって態勢を立て直すという選択肢もあったが、それでは先行させた本庄隊を見捨てることになってしまう。


 もし首尾よく長繁が敵の背後を遮断できたならば、やはり挟撃の好機は変わらない。

 となれば、ここは押し返して攻めに攻めることで活路を見出すべきだろう。

 こういった判断を的確にし、またそれを実行できる手腕を持っていることが、斎藤朝信の名将たる所以である。


 虚は突かれたものの、決して敗北必死な状況ではない。

 しかしそんな朝信の意思とは別に、戦局は悪い方に傾きだす。


「申し上げます! 側面より敵襲です!」

「なんだと!」


 正面の敵に全力を上げて対抗していた斎藤勢の横面を、いきなり誰かが強襲を仕掛けたというのだ。

 もちろんこれこそ、杉浦玄任率いる朝倉勢には違いない。

 つまり――


「敵にも同じことを考えた者がいたということか」


 これはまずいと朝信は唇を噛み締める。

 このまま強硬に押し出すことが難しくなったからだ。

 それどころか側面を突かれたことで、再び兵たちが浮足だち始めている。


 奇襲してきた部隊は少数であろうが、詳細が分からない以上、兵たちの士気は下がってしまう。

 ここに繁長がいれば、一隊を指揮させて敵の奇襲部隊に対することもできたのだろうが、現状では不可能である。

 事ここに至り。朝信の判断は早かった。


「退却する! 側面の敵を蹴散らしつつ、逃れるぞ!」


 さすがは歴戦の将であり、味方の不利を悟った上は、退却を選ぶことに迷いはなかった。

 敵中に繁長を残すことになるが、このままでは共に壊滅しかねない。


 敵兵の半数は未だ山中であり、その全てが麓に殺到するまでには未だ時がかかるはず。

 そして味方の方は不利とはいえ未だ崩れておらず、統制は生きている。

 退却するならば、今をおいて他に無かった。


 そしてその判断は正しかったが、相手が悪かったのである。


「馬鹿な!」


 側面から攻撃を仕掛けてきた杉浦勢へと吶喊した斎藤勢であったが、中央突破どころか呑み込まれ、前進もままならぬ大混戦に陥ってしまったのだ。

 つまり、横手から奇襲を仕掛けてきた部隊の方が、正面から押してきた敵軍よりも数が多かったのである。


 その数、およそ三千。

 いったいどのような統率力をもってこのような人数を、道無き道をかき分けて、ここまで至ったというか。

 もはや理解不能の域である。


「ほう。お前が噂に名高い越後の鍾馗か。なかなか良い戦をするな?」


 朝信の目に留まったのは、戦場を縦横無尽に駆け抜ける、一人の女武者だった。

 恐れもせずに先頭に立って、手当たり次第にこちらの味方を斬り捨てているのだ。


「何者か!」

「ん、別に名乗るほどの者でもないぞ」


 そうは言うが、とても名も無い将には見えない。

 直感ではあったが、朝信はこの女武者が全ての元凶であると判断していた。


「く……。巴御前でもあるまいに……」

「巴御前? ……ああ、なるほど。やはり倶利伽羅峠の戦いのことを知っていたか。裏目に出たな?」


 その女武者はまだ二十にも至っていないだろうと思われる小娘であったが、浮かべた笑みはもはや悪魔のそれである。


 全身が総毛立ち、悪寒が走る。

 このような気迫は、彼の主君が戦場で見せるものに全く引けをとらない、人外のものだ。


「一応降伏を薦めよう。武器を捨てろ」


 その傲然とした態度の小娘を前に、朝信は必至になって隙を探る。

 この娘が作戦が図に当たったことで増長しているのであれば、突くべき隙があるかもしれない。

 しかしそんなものは無く、娘を囲む将兵は機敏で、油断無くその槍先をこちらに向けていた。


「……名をもう一度伺おう」

「名乗るほどでも、と言ったはずだが……名も無き将に降るのは誇りが許さない口か?」

「いや。私を負かせた相手の名くらい、知っておきたいと思うのは自然なことであろう」

「ああ、そうかもな」


 なるほど、と娘は頷き、それならばと答えたのである。


「わたしの名は朝倉色葉。覚えておくがいい」

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