第35話 馬場信春
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馬場信春。
深志城の城代を務める武田の重臣である。
元は教来石景政と名乗っていたが、武田信玄の命によって絶えていた馬場氏の名跡を継いで、名を馬場信春と改めている。
戦場での武勇は数知れず、また他にも上杉謙信や信玄が警戒した忍びである加藤段蔵を始末するなどといった逸話も残る人物だ。
山県昌景と共に、武田家の重臣中の重臣といえる存在である。
「で、そちはどう思ったのか?」
「悪い話ではないかと」
「いや、そうではない。その朝倉義景の娘とかいう、使者のことよ」
馬場信春の言葉に、昌幸は少しだけ考え込んだ。
深志城へと色葉一行をつれてきた昌幸は、まず事の次第を信春へと報告したのである。
「あの者は、武田が負けると申しておりました」
「ほう」
「そのようなことは、と思ったのですが……」
「織田の間諜の可能性は?」
「ありえます。が、ありえないでしょう」
「面白いことを言うな。で、結局どう思ったのだ?」
「何かが化けているのでは、と」
昌幸の言を聞いて、信春は声を上げて笑った。
「その者は狐憑きなのだろう? 正体はすでに晒しているのではないか?」
「ただの妖とも思えませぬ。あの望月殿が苦戦したほどの相手。さらに一向一揆が席巻していた越前国を僅かな時で平定してみせた手腕……。ただの小娘のはずがありますまい」
「……うん? 確か噂では、朝倉を再興したのは朝倉義景の従兄弟なる男ではなかったか?」
朝倉氏が浅井氏と共に滅んだことは、当然武田にも知れ渡っている。
これまで信長包囲網の一角を担っていた二強が敗れたのだから、その事実は当然緊張をもって武田に受け取られている。
しかしほどなくして、越前では一向一揆が蜂起して、織田は越前を失陥。
その後大いに混乱していたようだったが、昨年の末までには平定されて、朝倉景鏡なる人物が当主として朝倉を再興したという。
詳細はまだ伝わっていないものの、大雑把なことはすでに近隣諸国には広まっているはずだ。
「表向きは。望月殿が申すには、実際に平定を成し遂げたのも、事実上の当主も、あの朝倉色葉なる姫であるとのこと」
「ほう……? だとすれば、当主自ら武田に参ったと。……なかなか大胆な娘のようだな。となると、その真意が気になるところだが」
「同盟を持ちかけるつもりのようです」
「同盟、とな。利はあるのか?」
「大いに」
北は上杉、南は徳川、西は織田と三方を敵に囲まれており、東の北条とは一度破綻した甲相同盟が復活したものの、これは対上杉への軍事同盟であり、西側への備えとしては十分とはいえなかった。
ここで朝倉と同盟を結べば、織田に対する十分な牽制になる。
事実、西上作戦時の織田は朝倉、浅井、石山本願寺などと対峙していたため、徳川領三河へ侵攻した武田に対して十分な兵を送れず、結果、三方ヶ原の戦いで徳川勢は敗退するに至った。
「この度の戦も、もし朝倉が呼応して近江に兵を出せば、織田はこれに対応しなければならなくなるため、徳川に十分な援軍が送れないでしょう。となれば、侵攻は容易となります」
「朝倉にとっても徳川からの援軍が無ければ……姉川の二の舞にはならないというわけだな」
「その通りです」
「ふむ……軍事同盟としては、非常に魅力的か。問題は、あの色葉なる狐が義景のように惰弱であったならば、結局は同じことということになるが」
「そのように思われますか?」
「ふふ、それは会って確かめねばなるまい。そちの言う、化けているものの正体とやらにも興味があるゆえな」
/色葉
「そちが朝倉の狐か! その姿、良く見せてみよ」
馬場信春の開口一番が、それだった。
唯一付き従うことを許された貞宗が、部屋の隅で唖然としたような顔になって、即座に慌てたように口を挟んだ。
ちなみに同席していた武藤まで、似たような顔になって驚いている。
「いかな武田の重臣といえど、いきなりそれは無礼ではありませぬか!」
「小童は黙っておれ! わしはこの狐と話しておる!」
なかなかの威勢で貞宗も気圧されたようだったが、それでも反駁しようとしたところを止めたのは、わたしだった。
「静かにしていろ。わたしが話している」
「はっ……しかし」
「忠節ご苦労。後で褒美をくれてやるから黙っていろ」
そこまで言えば、さすがに貞宗も口をつぐんだ。
さて……この馬場という男、よくもまあ、わたしのことを狐、狐と連呼してくれたものだ。
「ほう。なかなかの面構えではないか」
「……この姿、お気に召しましたか?」
「悪くない。わしがもう三十ほども若ければ放っておかぬのだがな。喜兵衛、そちの嫁にどうだ?」
「は? いや、何を仰せられるか。それがしにはすでに――」
「側室にすれば良かろうて。ここで武田と朝倉が縁続きになれば、同盟も成り立つ」
この男、好き放題言ってくれるが……どれもわざとだろうな。
眼光は鋭く、わたしの一挙手一投足に目を離さず窺っている。
同盟の文字が出てきたことからも、すでに武藤からこちらの意思は伝わっているのも間違いない。
「お戯れを。このような狐をもらいたがる殿方などいないでしょう」
「……肝が据わっているようだな」
敢えてこちらも狐という言葉を出してやったせいか、馬場はわたしに挑発の類は通じないと判断したらしい。
「さてその狐であるが、そちは本当に狐なのか?」
「……? どういう意味でしょうか」
「なに、この喜兵衛がそちのことを、狐に化けている何か別のものではないかと言い張るのでな。わしがちょっと聞いて確かめてやろうということになったのだ」
軽いその言葉に、またもや武藤が口をぱくぱくさせてしまっていた。
どうやら武藤は出汁にされたらしい。
しかし……本当にそう感じたのならば、大したものである。
「なるほど……。つまりわたしは何か途方も無い化け物の類ではないかと……そうおっしゃられるわけですね?」
「ふむ。ありていに言えば、そうだ」
歯に衣着せぬ物言いをする馬場に、わたしはくすりと笑んでみせた。
「そうかも、しれませんよ?」
「――――」
馬場が、わたしを見て目を見張る。
何を思ったのかは分からない、が……。
「――ご挨拶が遅れました。朝倉景鏡が娘、色葉と申します」
読心術などの心得はないので、深くは考えずにまずは改めて挨拶をすることにした。
「深志城代、馬場美濃守信春と申す。……そちは今は亡き朝倉義景殿のご息女と窺っていたが?」
「確かに本当の父は朝倉義景ですが、我が国の主が育ての親ですので、父とお呼びしているのです」
「それは殊勝な心掛け。しかしそのような出来た娘をこの信濃まで参らせるとは、朝倉殿は随分と厳しい方であるな?」
「そのようなことはありません。武田様にお会いすべく足を運んだのは、すべてわたしが父にせがんだ結果ですので」
「つまり、同盟を考えたのはそちということか?」
「そうなりますね」
そこで、馬場はしばらく考え込むような素振りをみせた。
「……望月千代女はもちろん知っているな?」
「はい」
「あれは今のわしよりも強かろう。この身もだいぶ年老いてきたゆえな。そんなあれがそちを危険だと言う。そして一方で、利用できるのならば利用すべきだとも、な。しかし敵対は得策では無いとも言ったそうだ」
利用……ね。
まあお互い様だけど。
それにしても今の物言いだと、若い頃なら千代女より自分の方が強かった、とでも言いたげだ。
そうなると年老いてきているとはいえ、今もそれなりの実力を保っているということかもしれない。
戦場で最期の瞬間を除いて一度も傷を負わなかった、というのは伊達ではないらしい。
「このような見た目ですからね。望月様は何か勘違いをされていたようです」
「……まあ、わしはな。そちが何者であろうとも、この武田を害することなく、利する存在であるのならば、手を結ぶは良策と考えておる。それが例え、悪霊の類であったとしてもだ」
「悪霊、ですか」
「もっとも見た限り、そのようなものではなさそうだがな。とはいえその美しき姿、覇気……ひとと呼ぶにはいささか問題もあろうが」
ひとでないことへの皮肉だろうか。
それとも単純に褒めてくれているのか……よく分からないので、黙っておくことにする。
「とにかくわしはそれを知りたい。武田と同盟するは良いとして、それをもってそちは何をするつもりだ? ただ身を守るためだけの盟約であるのならば、利はあれどつまらぬと先に言っておくが」
そんな問いに、わたしは首を傾げてみせる。
「この乱世に生まれた以上、天下統一を果たすのはごく当然の考えではないのですか?」
天下統一というと聞こえはいいが、アカシアあたりに言わせれば世界征服である。
まあ世界、というと大袈裟だから、差し当たってはこの日ノ本を、ということであるが。
「ほう……? それはまた……大きく出たな?」
「そうでしょうか。この時代、領国に籠っていては、滅ぼされるか従属を強制されるかの二択しかないでしょう。武田様はそうならないよう、此度も討って出ようとなされているのでは? それともそのような気は無いと? ……それならそれで結構。この天下はわたしがいただきますので」
「わたしが、か。くく……ははははははっ! どうやらそちは、さしずめ乱世の梟雄といったところらしいな。英傑と呼ぶには、ちとその笑みは邪悪すぎるわ」
……む。
自分としては普通に微笑んでいるつもりなのだけど、見る人が見ると怖いと思うらしい。
意識的に効果を狙ってそういう表情を作ることはあるとはいえ、普段から邪悪とか何とか言われると少し傷つく。
まあいいが。
何か受けたみたいだし。
「そちの――いや、貴殿の野心は理解した。なるほど武田は朝倉殿と敵対するよりは、盟を約した方が得策でありそうだな。しかし……となると、何をもって同盟の証とするべきか、であるが」
証?
一瞬どういうことかと思ったが、すぐに察しがついた。
今日の味方が明日の敵――これがこの時代の習いである。
それを少しでも防ぐために行われたのが、いわゆる政略結婚だ。
以前は武田、今川、北条との間に結ばれた甲相駿三国同盟などは、お互いに姫を嫁に出して成立した婚姻同盟である。
他にも織田と浅井の間にも、そういった同盟は結ばれた。
もっともそれらはすでに破綻しており、婚姻したからといって絶対的に継続できるというものではない証明がされている。
それでも強固なものには違いなかったが、まさにこの時代、無常という他無いのだろう。
「人質、というわけですね」
「ふふ、何とも直截的な。では単刀直入に尋ねるが、貴殿の身内にはどのような方がいる?」
「……ご存知の通り、わたしの本当の父は朝倉義景であり、弟二人はすでに死しており、もう一人の行方は分かっていません。妹の一人はすでに本願寺教如の元にいます」
「なれば養父殿には?」
「二人の義弟がいます」
思い浮かんだのは景鏡の息子である、孫八郎と孫十郎だ。
「ほう……弟殿とな。であれば、御館様の妹君、松姫様とちょうど良い年頃ということになろうか」
「松姫様、ですか」
わたしの知識にはない人物である。
なのでアカシアへとそれとなく疑問を浮かべてみせる。
『――検索終了。松姫とは武田信玄の娘にて、武田勝頼の妹に当たる人物です。武田と織田が同盟をしていた際に、その強化のために、松姫と織田信長の嫡男・信忠との間で婚約が成立しましたが、両者の年齢が幼かったこともあって、形だけに留まったようです。その後、武田による西上作戦が開始され、織田が徳川へと援軍を派遣したことで両国の同盟は破綻し、婚約も解消されています』
なるほど。
政略結婚としては、おあつらえ向きか。
「このようなことは今考えることでもないかもしれんが、お互いに参考にはなろう。御館様への助言にもなるゆえな」
「然様ですね」
婚姻同盟というのも悪くないか。
問題はこちらから出せる姫がいないことだが、まあその辺りは後で考えるとしよう。
「それでは馬場様は、朝倉との同盟に賛成下さると思ってよろしいのですね?」
「そうなるな」
「では口添えをお願い致します。お礼はまた、何か趣向致しますので」
「いや、礼には及ばんが……。その口添えについてだ」
ここにきて初めて馬場の表情が曇った。
「まず確認したい。貴殿の主なる目的は我が武田との同盟であると考えてよいな?」
「その通りです」
「されば、だ。すでに我が武田の先鋒は三河へと侵攻を開始しており、いくつかの城を陥落せしめている。この戦を止めることは、もはや至難であるぞ」
なんと。
どうやらすでに戦端が開かれてしまっているらしい。
雪解けを待っていたせいで、時間的にはすでに遅刻気味というわけか。
「武田様はすでにご出陣を?」
「すでに信濃に入っておられる。我らも急ぎ合流せねばならん」
甲斐まで行く手間は省けたようだが、落ち着いて交渉する時間はもはや無いようだ。
こうなると、発言力の強い家臣らと事前交渉している暇などあるわけもなく、直接武田勝頼を相手に交渉しなければならない、ということか。
「貴殿は此度の戦、武田が負けると主張されたそうだな。喜兵衛より聞いておる。この戦を止めることを目的とされているならば、それは不可能であろう」
「馬場様のご進言をもってしても、ですか?」
「むしろそれがうまくない。わしと御館様との間には多少なりとも距離感があってな。これはお側におれなかった我らの不徳ではあるが、どうしても跡部殿や長坂殿といった側近の発言力が強く、そちらの言をとってしまわれることもある」
「……なるほど。そういう事情もおありでしたか」
どうやら武田家中には色々と複雑な事情があるらしい。
代替わりしたばかりでもあり、こういったことも当然発生するのだろうが、しかし差し迫ったこの現状では非常に厄介な足枷だ。
もう少し探ってみないと分からないとはいえ、まともに交渉していては時間がかかるのは間違いなさそうである。
少なくとも今回の戦を止めることは難しい、か……。
しかしこのままでは長篠の戦いに突入してしまい、敗北すれば、武田はその力を大きく減じることになるし、信長の次の標的として越前が狙われることになってしまう。
領内を平定したばかりの越前の国力では、到底織田には敵わない。
ここは何としても、流れを変えなければならないわけだが……。
「では、まずは同盟締結を最優先に、お口添え願えますか」
「それに否やはない。しかしこのまますぐに、となると、陣中で、ということにもなろう。よろしいのか? 敵地に向かうことになるが」
「それは構いません。是非ともお連れ下さればと思います」
もはや一刻の猶予も無いのであれば、場所など構ってはいられない。
「しかし、な。戦場とは非情で無常な場所なのだ。特に女子にとってはな。仮に敵に敗れ、囲まれるようなことにでもなったら……その末路は悲惨であるぞ?」
一瞬きょとん、となったが、馬場が何を言いたいのか何となく分かった。
いわゆる乱妨取りのことだろう。
この時代、勝者である兵が戦後に人や物を掠奪した行為を乱妨取りとか、乱取りといった。これは一種の兵に対する褒美で、大名などもそれを黙認していたという。
女や子供は奴隷にしたり売り払われたりするし、強姦にも遭い、抵抗すれば殺される始末である。
つまり馬場はわたしのことを心配しているのだろう。
見かけによらず、優しいやつである。
「お心遣いには感謝を。……ですが、わたしと敵対した者の方が、なお悲惨でしょうね」
何よりわたし自身、この世界に来てすぐにそういう目に遭いそうになったのだ。
そしてそれをしようとした者どもがどうなったかは、推して知るべしである。
あの時のことを思い出して、ついつい薄く笑んでしまったら、馬場はともかく武藤の方が思い切り引いてしまっていた。
ああ、いけない、いけない……と。
笑顔というのも難しいものである。
「よかろう。では共に参られよ」
「では、そのように」
わたしは一礼して、さてどうしたものかとその夜、頭を悩ませることになったのだった。
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