第34話 長篠への道
/色葉
翌日には予定通り飛騨へと入り、久しぶりに白川郷の帰雲城にて内ヶ島氏理の出迎えともてなしを受けた。
数日をかけて現状の報告などをお互いにやり取りし、また向牧戸城の直澄とも再会できた。
どうやら飛騨は特に問題無く、平穏無事といった様子である。
ただ氏理には事前に通達して、信濃の状況を探らせていたのだが、現状は物々しい雰囲気になっているらしい。
どうやら新たな出兵準備が進められており、各地に動員がかけられたという。
「恐らく長篠城攻めだな」
「長篠城、ですか?」
わたしの結論に首を傾げたのは景成である。
まだ若いせいもあってか、各地の状況にはあまり詳しくはないらしい。
剣術もいいが、それだけでは世の中渡ってはいけないのである。
そういった意味では、まだ若い景成を同行させたのは正解だっただろう。
「三河の設楽郡にある城だ。今は武田を裏切った奥平の親子が武田の最前線として籠っている。今回武田はそこを落とす気だろう」
わたしの言葉に、白川郷のわたしの館に集まっていた家臣どもがざわついた。
「……ねえ、貞宗。どうして色葉様ってあんなに他国の情勢に詳しいわけ?」
「色葉様は情報を最重視されているからな。しかしまあ、それにしても、と思うところもあるが」
いつの間に仲良くなったのか、乙葉はよく貞宗にくっついて色々と教示されているようだった。
というか馴染むのが早いな……。
景成なんかはすでに顎で使われているようだし、道場でのあの生意気ぶりはどこにいったのやらという感じだ。
まあ相手が四百年ものの妖では相手が悪いのだろうが、その点貞宗はさすがである。
乙葉はひとに対してあまり良い感情を抱いていないようだけど、貞宗に対しては一定の敬意を抱いているのが見えるからだ。
「その通りですな、姫。動員兵力は一万五千ほどになるとのことです」
「それはなかなかの大軍ですな」
氏理に補足に、貞宗がうなった。
ちなみに長篠城に籠る兵力は、確か五百足らずだったはず。
圧倒的兵力差といえるだろう。
しかしこの戦いに武田勢は苦戦することになるのが、わたしの知る史実である。
「武田はそのまま三河を飲み込むつもりでしょうか?」
「武田勝頼はその気かもしれないが、すぐに援軍が来る。織田の大軍がな」
これが世にいう長篠の戦いに至る経緯である。
武田勢は長篠城攻略に手間取り、その間に織田・徳川連合軍が援軍として到着。
設楽原にて決戦に及び、武田は大敗してしまう。
「武田は負けるぞ」
「されど……武田勢は精強をもって知られています。いかに大軍とはいえ、弱兵の織田勢とならば十分に互角に戦えるかと思いますが」
「俺もそう思いますが」
そう反論したのは貞宗である。
これには氏理も頷いていた。
武田軍の強さは十分に知れ渡っているらしい。
反対に、織田軍の弱兵ぶりもよく知られているようだった。
一般的に織田軍は弱兵であったといわれるが、それには理由がある。それは織田兵が農兵よりも雇われの足軽が多く、土地に根差していないために国を守るという意識が低いことが原因の一つ。
つまり勝っている時はいいが、負けている時は脆いのである。
それを率いていた織田信長もそのことはよく分かっていたようで、例えば元亀元年に朝倉義景と織田信長の間で行われた金ヶ崎の戦いでは、当初織田勢優勢で朝倉方は金ヶ崎城を陥落するなど押されていたものの、近江の浅井長政が義理の兄であった信長を裏切ったことで織田勢は挟撃の憂き目に遭い、潰走して敗北した。
世にいう金ヶ崎の退き口である。
この時不利を悟った信長は、即座に撤退を決めたという。
自身の兵力では数はあっても脆いことを知っていたのである。
これは兵農分離をした結果であるが、完全に機能していないがための弊害だろう。
実際にこれが機能し、常備軍が存在すればその軍は練度も士気も装備も動員力も優れており、農兵の比ではないはずだ。
将来的にわたしがやろうとしていることでもあるので、その利点は大きい。
ただし中途半端だと、寄せ集めのただの雇われ兵になってしまうわけである。
もっとも織田勢がそこまでの弱兵とは、わたしは思っていない。
金ヶ崎の退き口などでは歴史的な敗北を喫したとはいえ、その撤退は織田諸将の活躍で被害を最小限に食い止めたというのだから。
例え羊であっても、一匹の獅子に率いられれば十分に軍として機能する、ということである。
そういった意味で、織田家には優れた武将が多い。
「その織田に朝倉は負けて滅ぼされたわけだが」
「それは……」
「敵を侮るな。織田は強いぞ」
わたしの言葉に、場は静まり返った。
「ここで武田に負けてもらっては困るからな。だからわたしがわざわざ甲斐に向かっている」
もちろん、そう簡単にうまくいくとは思っていない。
事はすでに差し迫っており、容易には運ばないだろう。
「少し、急いだ方がいいかもな」
◇
飛騨である程度の情報収集をすませた後、わたしたちは信濃に向かって出立した。
飛騨高山から安房峠を越えて、信濃の筑摩郡へと入る。
これも一度通ったことのある道のりだ。
これまで険しい山岳地帯であったが、ここでようやく盆地となり、大地が開けることになる。
この筑摩郡一帯を治めているのが、武田の重臣で、深志城の城代である馬場信春だ。
齢六十くらいの老臣ではあるが、不死身の鬼美濃とかいわれていて、生涯で七十ほどの戦場に出ていながら、一度も傷を負ったことが無いという化け物である。
その馬場美濃守も、今回の動員に応じて出陣する様子で、深志城下はすでに殺気立っていた。
ここから諏訪湖を越えて、甲斐へと入ることになる予定である。
だがその前に、この馬場なる人物には会っておく必要があった。
この先、武田当主の武田勝頼に取り次ぎをしてもらうためである。
ところが深志城下に入る寸前に、まるで狙っていたかのように、わたし達一行は武田兵に囲まれてしまったのだった。
「――待て! 無礼な真似はするな」
緊張が高まる一行の前に現れたのは、三十代くらいの若い武将だった。
完全武装というわけではなく、比較的軽装である。
「朝倉殿よりの使者の御一行とお見受けするが如何か?」
馬上から誰何というよりは確認するような問いに、少しだけ首をひねる。
わたし達が武田に向かうことは知られていないはず、だが。
「その通りだ」
わたしに代わって貞宗が答える。
その武将は頷き、こちらの全員の顔を見渡した上で、明らかにわたしを見て視線が止まった。
「では貴殿が――朝倉色葉殿か?」
「――はい。そうです」
わたしは頷き、しおらしく前に出た。
え? という感じで振り返る貞宗の顔が可笑しかったが、とりあえずは無視である。
「馬上から失礼した」
その武将はすぐに下馬すると、わたしの前に来て軽く一礼する。
「それがしは武藤喜兵衛昌幸と申す。望月殿より貴殿の来訪をうかがっていたため、こうしてお迎えに上がった次第である」
望月って……千代女か?
確かにあの女ならわたしが甲斐に向かうことを知っている。わざわざ乙葉を寄越したくらいだ。
「それはありがたく……。朝倉色葉と申します。以後、お見知り置きを」
「ふむ……噂通りのご容姿であるな。しかし供回りの者がそれだけで、よく無事にここまで参られた」
「この者達はみな屈強でありますから」
そう言って軽く後ろを振り返ったら、どういうわけか皆が皆して引いていた。
例外は雪葉くらいで……いや、お前ら、何なんだその反応は。
「い、色葉様が綺麗な言葉で喋ってるぞ……?」
「お身体の調子でも崩されたのか……?」
「狐にでも憑かれたのではないでしょうか……?」
「もともと狐じゃないの?」
「じゃあ狸か」
「何だか気持ち悪いわねえ」
「みなさん、何をおっしゃっているんです……?」
小声でひそひそやっているが、わたしの聴覚はしっかりと家臣どもの妄言が聞こえている。
どうやらわたしが丁寧語で話したことに、ドン引きしたらしい。
雪葉だけは動じていないみたいだけど、あとの連中の反応は酷いものだ。
何だかイラっとなって、わたしはゆっくりと振り返ると、にこりと笑ってみせた。
それだけで景成などはひっと悲鳴を上げる始末で、以外の者どもも静かになる。
うん……後で少し問い質してやるか。
そう思いつつ、再び武藤とやらへ視線を戻した。
「しかし武藤様。よくお分かりになりましたね。わたしどもがこの日にここに参ると」
「今は戦時ゆえ、国境沿いは警備が厳重になっている。飛騨方面は比較的緩いが、その分忍びが多く放たれておってな。それで、というわけだ」
なるほど。
忍びというのは信濃巫のことだろう。
道中はさほど気にしていなかったけど、ずっと監視されていたというわけだ。
そう――監視。
この武藤が出迎えたのは善意などではなく、どちらかといえばわたしを警戒して、だろう。
下手に領内をうろつかれるよりも、手元に置いて案内した方がいい――といったところか。
「聞けばこの武田と誼を結びたいとか。つまり御館様に面会されるために参られたと、そう考えてよろしいか?」
「然様であります」
「ふむ……。しかし今は戦支度の真っ最中であってな。御館様はご多忙であられるのだ。そう簡単にお会いできぬかもしれぬが……」
ほら。
早速牽制してきたな。
わたしは憂いを帯びた表情を作って、真摯な瞳で訴えかけるようにして、口を開く。
「いつまでも待つ……と、そう申し上げたいところですが、時が無いのです」
「ほう。時が無い、とは?」
わたしの言葉に反応する武藤。
そもそもこの武藤という武将は、どういった人物なのだろうか。
ざっと自分の記憶を漁ってみるけど、武田家臣の有名どころの中では記憶に無い。
とはいえわたしが事前に軽く勉強した武田家臣についての知識は、本当に大したものではないので、もしかすると重要な人物かもしれないし、そうでないかもしれない。
それが分からない以上、慎重に対応すべきだろう。
何よりこの男、その眼光からしてどうにも油断ができない。
千代女が武藤に直接あの経緯を話していたとした上でここにいるのであれば、ただの木っ端武者とは考えない方が良さそうだ。
「その時とはわたしの時ではありません。武田勝頼様の……ということになるでしょうか」
「……不吉なことをおっしゃる」
武藤の目つきが鋭くなる。
よし……食いついたな。
ここで一気に確信を話してしまった方がいいだろう。
下手に焦らしても、時間の無駄だ。
「此度の出陣はお止めになるべきです。でなくては、武田にとって大きな災いとなるでしょう。わたしはそれを防ぎたく思い、ここに参ったのです」
「ほう……。つまり貴殿は、この戦、武田が負けるとおっしゃるわけか」
わたしは声には出さず、頷くだけに留める。
そんなわたしの様子を武藤はしばらく眺めていたが、やがて大きな唸り声を上げた。
「その、根拠は?」
どうやらこの男、やはり猪武者というわけではないらしい。
むしろ合点のいくところもあったのだろう。
「単純な、戦力の問題です。衆寡敵せず。寡戦は兵法の忌むところでしょう」
「……寡兵をもって大軍を制した戦は古今東西、いくらでも例があると思うが」
「そうですね。ここ最近では桶狭間の戦いや、砥石崩れなどもそうでしょう。しかしそれらの戦はまるで奇跡のようにもてはやされています。つまり、本来ならば勝てるはずのない戦だったからです」
こういった寡戦で勝利した例は、勝つべくして勝ったともいえなくない。
兵力の差が全てではないからだ。
しかしそれでも、兵力というものは最も基本的な力である。
相手に勝る兵数を揃えることも、また力のはずだ。
「相手から攻められた際に寡戦となるのはやむを得ないことですが、寡兵をもって攻め込むなど……それは危ういものであると思われませんか?」
「…………」
「少なければ則ちよくこれを逃がる……。わたしもそう思います」
「……朝倉殿は孫子の心得があるようだな。しかし、だ。今は国力を蓄える時とは心得てはいるが、それをしていては敵が更に巨大になってしまう場合にあっては、無理をしてでも攻め入るべきではないか」
「だからこそ、我が国との同盟を提案させていただきたく思っているのです」
なるほど、と武藤は頷いた。
「利はあると認めよう。しかし……失礼を承知で言わせていただくが、今の朝倉殿に我らの同盟者たる力はおありか? 一度織田に滅ぼされ、此の度再興したとはいえ、一向一揆によって越前は荒れに荒れたと聞いているが」
「それもだからこそ、です。わたしもまた、時が欲しいのです」
「ふむ……。なるほど、なるほど」
敢えてこちらの弱味を見せることで、こちらの意図も分かりやすく伝わったことだろう。
持ちつ持たれつの関係を望むとすれば、一方的な疑念を抱かれずにすむというものだ。
「あいわかった。それがしの一存でどうにかなることでもないが、武田にとって悪い話でもなさそうだ。御館様に取り次ぐのもやぶさかではない。されどその前に、いったん深志城に入っていただく。馬場様のご協力を仰ぐがよろしかろうからな」
どうやらうまくいったらしい。
とはいえ最初の関門を突破したに過ぎず、武田勝頼に至るまでには相当の時間と根回しが必要になるだろう。
しかしここにきて信濃巫のあの性悪女がきっかけになるとは……世の中というのはよく分からないものである。
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