第8話 飛騨にて
◇
天正元年七月。
わたし達が信濃国を出て飛騨国に入ってから、約三ヵ月近くが経とうとしている。
今日は天候が穏やかで、街道にはちらほらと人の気配もある。
そんな中、わたしは街道の脇に建てられた茶屋で団子をかじりながら、のんびりとして空を眺めていた。
三ヵ月ほど暮らして分かったが、やはり空気も水も綺麗で、緑も多い。
今は季節的に過ごしやすいが、それでも環境はそれなりに過酷だ。
外的環境の変化に耐えるための建築物などが、やはり現代に比べて貧弱だからである。
わたし自身は身体的に強化されたせいか、以前よりも環境の変化に対して痛痒は感じなくなったものの、普通の人間はなかなか大変だろうとも思う。
そうこうしているうちに、先行させて情報を集めさせていた貞宗が戻ってきた。
足早に駆け寄り、仰々しく礼を取る。
もちろん心からのものではないことは承知している。
脅して従わせたのだから、当然だ。
「お待たせしたようで申し訳ありませぬ。色葉様」
「ん、どうだった?」
「はっ……。それが、その……」
何やら歯切れが悪い。
「何かあったのか?」
気になって、わたしはいったん食べかけの団子を皿へと戻した。
――貞宗に向かわせたのは、この先にある帰雲城下であり、数日前に先行させて偵察を行わせていたのだ。
今日落ち合う約束になっていたので、その待ち合わせに指定してあったこの茶屋で、のんびりと戻ってくるのを待っていたという次第である。
ちなみにこの大日方貞宗という男、まだ二十代半ばくらいの青年であり、真面目で腕もたつ、というのがわたしの感想だった。
特に弓矢の腕前はなかなかのもので、初めて出会った時にわたしの心臓を射抜いてくれたのは、貞宗だったらしい。
そして今ではわたしに脅されて従う羽目になった身の上なのだが、言ったことはそつなくこなすし、性格が真面目なせいか、どこかに逃亡することなく必ず戻ってくる。
例えはこの偵察任務がいい例で、逃げようと思えばいくらでも逃げることはできたはずだ。
わたしに対してかなり恐れを抱いているから、というのもあるが、それ以上に根が誠実なのだろう。
そんな貞宗がやや遠慮がちに、報告してくる。
「城下の方では……その、噂になっておりました」
「噂?」
「は……色葉様のことが」
「はい?」
意味が分からず首を傾げる。
わたしが噂って……何なんだ、それは。
「街道を通った者どもが、触れていたようです。色葉様のことを」
どういうことかというと、どうやら飛騨を通った旅人でわたしを見かけた何人かが、とんでもない美女がいると噂を振りまいたのが原因だそうだ。
つまり、わたしが物凄く目立っているのだと、貞宗はそう言いたいのだろう。
「うーん……。そう言われてもな?」
困ったように、わたしは自身を振り返ってみた。
さすがにもう素っ裸でもなく、襤褸をまとっているわけでもない。
白衣に黒の掛襟、そして黒の切袴。上から羽織った黒の千早は裾を長くした仕立てで尻尾を、さらに塗笠をかぶって耳を隠している。
これで緋色だったならば完全に巫女装束なのだが、それはそれで目立つので黒にしたという次第だ。
貞宗に先々の情報を集めさせつつ、その後をわたしが歩き回って物見遊山……もとい、更なる情報収集に努めていたわけである。
ところがその情報収集の過程でわたしのことが噂になったらしく、行く先々まですでに伝わっているという始末とのことだった。
「情報に関してはお任せ下されば」
控え目に貞宗がそう言ってくる。
わたしには邪魔だから出しゃばるな、と言われている気分だ。
とはいえ日中に動き回れて人間相手に話を聞けるのは、わたしと貞宗くらいなのだ。
直隆らは見た目が骸骨なので、いっぺんに騒ぎになってしまう。
なのでわたし自ら動き回っていたのだが……どうも貞宗は迷惑そうである。
骸骨とは別の意味で、わたしの容姿は目立つらしい。
特徴的な尻尾や耳は隠しているものの、まず髪の色が黒でなく、それがまず目立つ。
そして容貌。
わたしもあとから確認してびっくりしたのだけど、相当なものだった。
あの夜に見た少女の面影がどことなくある様子から、アカシアが創造主を参考にして作ったことは想像に難くない。
「却下だ。じっとしているのはつまらない」
「はあ……」
「たまにはいいだろう? 普段はそれなりに大人しくしているんだから」
歩いて情報収集する一方で、わたしは本を読むことにも時間を費やしている。
アカシアには相当な歴史資料も記録されており、それを任意にあの本に映し出すことができるのだ。
そういうわけもあって、わたしは暇さえあれば、この時代に関する本を読み漁り、勉強していたのである。
自分で得た情報と、本からの情報。
二つを総合すると、やはりこの世界は俺のいた世界の過去に酷似しているとしか言いようがない。
ほぼ同じといってもいいくらいだ。
「それで? 他に何か情報は?」
「……芳しくありませんな」
やや暗い面持ちになって、貞宗は説明した。
「お館様が亡くなられたことで、織田や徳川が息を吹き返し、特に織田信長は京に入って足利義昭様と対立しているとのことですが、幕府側の旗色は悪いという噂です」
どうやら史実通りに進んでいるらしいと、貞宗の報告を聞いてわたしはそう思う。
この後の歴史の流れはというと、将軍・足利義昭は槇島城にて信長と戦い、敗北。義昭は京を追放されて室町幕府は事実上の滅亡。元亀の元号も終わり、天正へと変わることになる。
ちなみに貞宗の大日方氏は信濃国水内郡に本拠を置いた豪族で、現在の当主である大日方直親の従兄弟に貞宗は当たるらしい。
その大日方氏は甲斐の武田氏に臣従することで、北信濃にそれなりの勢力を維持していたとのことだ。
つまり先の甲斐武田氏当主・武田信玄は貞宗にとっての主君であり、それと敵対していた徳川や織田は敵ということになる。
そしてその織田信長は、強敵であった武田信玄にいったんは追い詰められていたにも関わらず、その信玄が死んだことで態勢を立て直していた。
武田信玄の死去は、信長を大きく飛躍させる要因になったといっても、過言ではないだろう。
「となると、朝倉もそろそろまずいな」
直隆が気にしていた朝倉氏は、実を言えば風前の灯火だった。
足利義昭を追放した信長は、三好三人衆の一人・岩成友通を討伐させ、その上で義理の弟である近江の浅井長政を攻めることになる。
その浅井氏の盟友である朝倉氏は、当主である朝倉義景自ら援軍を率いるも、信長は奇襲でこれを撃破。
敗走する朝倉勢を執拗に追撃し、刀根坂の戦いと呼ばれる激戦でこれを壊滅させて、朝倉氏の本拠である一乗谷に侵攻する。
結果、一乗谷は灰燼に帰して、逃走した朝倉義景は身内に裏切られて敢え無く自刃し、朝倉氏は滅亡する、というのが歴史の流れだ。
そしてその日が目の間に迫っている、というのが現状である。
正直今すぐにでも信長を暗殺でもしない限り、この流れを変えることは至難だろう。
「うーん……」
考えてしまうのは、直隆らのことだ。
あの三人にとって、今やわたしが創造主みたいなものらしく、命令には絶対的に従う。
だから朝倉のことを無視しろと言えば、そうするだろう。
しかし、とも思うのだ。
「一つ、お伺いしてもよろしいですか」
悶々としていたら、そんな様子のわたしを眺めていた貞宗が、意を決したように尋ねてくる。
「ん、なんだ?」
「色葉様は……何を目的とされているのです? こうやって私に各地の情報を探らせているのも、何か目的があってのことと見受けますが」
目的、ね。
正直なところ、わたし自身、そんな大層なものは今のところ持ち合わせていない。
やっているのは現状把握。
その程度のことだ。
「言っただろう? わたしはこの世界に呼び出されて右も左も分からないんだ。だというのに、いきなりお前には殺されかけるし」
「そ、それは……」
「だから、色々と確認している。この世界で生きていくにあたって、まず必要なものは知識だろう? 幸いにしてわたしは食事らしい食事も必要のない身体のようだから、それを心配する必要も無いし」
「生きていく、と仰せられるか」
「そうだ。……何かおかしなことか?」
わたしはごく当たり前のことを言ったつもりなのだが、貞宗はというと、どうにも承服しかねる複雑な表情が、その顔に浮かんでいた。
「しかしそれは、静かに、という意味ではありますまい」
「うん? 別に騒がしく生きているつもりもないが?」
「ならば、なにゆえあのような亡者の群れを率いておられる? そのようなお方が静かな生などと……ただちには解せませぬ」
いや、それはただの成り行きなんだけど。
「つまりお前は……わたしが何か悪巧みをしていて、そのためにお前を利用している――利用されているかも、と心配なわけか」
「そ、そうは申しておりませんが」
どうやら図星らしい。
まあそうかもしれない。
貞宗にとってのわたしは、まさに悪魔のような所業をしてみせたわけだし、そして無理に従わせているのだから、そんな風に思うのは当然だ。
「ふうん。なら聞くが、わたしがただただ生きるために足掻いた結果、仮に死体の山ができてしまったとして……それは罪悪なのか?」
「それは……」
「もしそうなら、生きていること、存在していること自体が罪になってしまうな。まあわたしみたいな存在は、お前らにとってはそうなのかもしれないが。――まあいい。どうせお前はわたしのものだ。仮に悪行に手を染めることになっても、その時は染めてもらう。わたしが生きるために。異論があるなら聞いてやるが、きっとわたしは不機嫌になるぞ?」
というか、すでに現時点で苛々し始めていた。
貞宗の心境も分からないでもないが、問答無用でわたしを射殺そうとしたあたりについては文句もあるし、それに対する罪は償ってもらう。
そもそもわたしは自分のことは、まだ人であると思っている。
本当に悪魔にでもなってしまったのなら、生存競争ということで文句も出ないだろうが、わたしは人間だ。
それを一方的に殺そうとする輩は、同じ目かそれ以上の目に遭ってもらう。
「……! つまらぬことをお聞きしました。お許しを」
わたしの不快を感じ取ってか、貞宗は慌てて頭を下げて、この話題を打ち切った。
「ん、許す。しかしまあ安心しろ、と言っていいのかどうかは分からないけど、別にわたしは好んで悪行をするつもりもない。そんな趣味はないからな」
「……は」
まったく信じてはいないようだけど、貞宗は了承の意を伝えてくる。
どうも初対面の時にやりすぎたせいか、本当にわたしのことを悪魔か何かかと思っているんだよな……。
やれやれ、と思った時だった。
「色葉様、お下がりを」
不意に緊張を帯びた声で、貞宗がわたしの前に立ちはだかる。
その手は腰に帯びた太刀の束へと伸びており、警戒感がありありと伝わってきた。
少し遅れて、わたしも気づく。
周囲に複数の男が現れており、じりじりとわたし達の方に近づいてきているのだ。
「またか」
わたしはわたしで全く緊張感の無い声で、いい加減飽きたとぼやく。
茶屋を囲むようにして迫ってくる連中は、明らかに山賊とか野盗の類である。
こうやって野盗に遭遇することは、実は日常茶飯事だった。
この時代、とにかく治安が悪い。
戦国時代と名の付くくらいだから、その悪さは折り紙つきだ。
そもそもこの時代の旅が容易でなかった理由は、こういった連中によるものが大きかったらしい。
さらにこの飛騨国は現在、以前よりも治安が悪くなっているという。
それというのもこの飛騨国は、今現在姉小路氏が治めているのであるが、信濃の武田や美濃の織田に領国を接しており、その狭間で独立的な勢力をこれまで築いていたらしい。
ただ一応は武田氏に従っていたようで、その武田氏の当主・武田信玄が死んだことで、飛騨国は親織田派と親上杉派とに分かれての抗争が顕著になってきており、それが治安の更なる悪化の原因になってしまっている。
「おい見ろよ――本当にいたぜ?」
「ああ……確かに上玉じゃねえか」
何人かがわたしを見て、なかなか下品な笑みをこぼしてくれる。
……いい加減慣れたが、不快極まりない。
「貞宗、場所を変える」
「は――しかし」
「ここの茶屋、けっこう気に入っているんだ。その周りを汚したくないだろう?」
見れば茶屋の中で主人が、目を丸くして縮こまってしまっている。
この前聞いた話では、ここはわたし達が一時的に拠点としている向牧戸城下にほど近く、この先の帰雲城主・内ヶ島氏の手勢が巡回していることもあって、悪い治安の中でも比較的まだ良い方だとのことだった。
だというのにこの真昼間に、しかも明らかにわたしを指向して現れたということは、先ほど貞宗がぼやいていたわたしの噂とやらが、野党連中にも伝わっているからだろう。
ここの茶屋は一軒というわけではなく、数軒が軒を並べており、旅人の姿もちらほらある。
にも関わらず白昼堂々押し寄せてきたということは、それほどわたしのことが魅力的に映ったんだろうが……本当に不愉快な事実だった。
「丁度苛々していたし、少し発散させてもらうぞ?」
「……畏まりました」
当然貞宗に否やはない。
ないが、これから起こるであろう惨劇に、複雑な表情になっていた。
……一応正当防衛とはいえ、こういうことを率先してやってしまうから、貞宗もなかなかわたしのことを普通として見られないんだろうけどな。
もっとも、だからどうというものでもない。
わたしは特段の抵抗をすることもなく野盗共に連れ去られ、そのねぐらは当然、地獄と化すのだった。
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