第562話 記憶はなくとも
「はぁ…………どうにか切り抜けた」
替え玉としての仕事をどうにか終え、グリードの屋敷内にあるラドロの私室に戻って来た浩一は、背後で閉まった扉に背中を預け、ズルズルとその場に座り込む。
すると、
「おにーちゃん!」
部屋の奥からネロに着せられたふりふりのドレスを着たミーファが現れ、浩一の胸の中へと飛び込んでスリスリと頬擦りをする。
「おにーちゃん、おかえりなさい」
「あ、ああ、ただいま。ミーファ……」
浩一はホッと安堵の笑みを浮かべると、ぎこちなく手を伸ばしてミーファの頭を撫でる。
「みゅふふ……」
頭を撫でられたミーファは、気持ちよさそうに双眸を細めながらさらに浩一へと体を密着させる。
「…………フフッ」
そんな幸せそうなミーファを見て、浩一は無事に帰って来られたことを喜ぶ。
どうしてミーファがここまで無条件に自分に懐いてくれるのかわからないが、記憶が戻る前の浩一がこの少女のことを心から大切にしていたことだけは理解できた。
だからこそ……例え悪魔に心を売るような所業をしてでも、ミーファの笑顔は守ってみせると浩一は硬く決意していた。
ミーファが満足するまで彼女の頭を撫で続けた浩一は、広い室内を確認してまだ夕食が残されていることに気付き、胸の中のミーファに尋ねる。
「夕食が残ってるけどどうしたの? もしかして何処か具合悪いの?」
「ううん、そんなことないよ」
小さくかぶりを振ったミーファは、ニコッ、と思わず見惚れるような眩しい笑顔を見せる。
「あのね、ミーファ、おにーちゃんといっしょにごはんたべたいな、っておもったの」
「俺と?」
「うん、その……だめ?」
「――っ!?」
可愛らしく小首を傾げるミーファを見て、思わず浩一は天を仰ぎ見て目を閉じる。
ミーファのあまりの可愛さに、どうにかなってしまいそうだった。
こんな姿を毎日見られるのなら、不謹慎ながらも記憶なんて戻らなくても良い、と思うほどだった。
「……おにーちゃん?」
「あっ、ごめん。何でもないんだ」
浩一は頭に思い浮かんでいた邪念を振り払うように強く頭を振ると、可能な限りの笑顔を浮かべてミーファの頭を再び撫でる。
「もちろんだ。一緒に食べよう。もうお腹ペコペコだろ?」
「うん、ペコペコ~」
ミーファはお腹を抑えると、浩一の胸から飛び出して、とてとてと夕食が並べられたテーブルへと走り、ピョンとジャンプして椅子に座る。
そうして自分の隣にある椅子の背を叩きながら、ミーファは浩一に向かって手招きをする。
「ほら、おにーちゃん。はやくはやく!」
「あ、うん、今行くよ」
浩一はさっきまでの緊張から解放され、自分が笑顔でいられていることに驚きながらも、小さな天使の要望に応えるため、小走りでテーブルへと向かう。
今日、ラドロの店からお見合いパーティーと称して連れて来られた女性たちが、これからどうなるかはわからない。
屋敷内にいる人間の様子から、女性たちに訪れる未来がろくでもないことは承知している。
だが、それを止める術を知らない浩一は、ただひたすら嵐が過ぎ去るのを待つことにする。
今の彼にできるのは、目の前の少女一人を守ることだけで精一杯だから……
「「ごちそうさまでした」」
仲良く手を合わせて食事を終えた浩一は、食器を片付けるために立ち上がる。
「さて、後はお風呂に入って寝ようか」
「うん、あっ、ミーファがもつよ!」
食器をまとめて立ち上がった浩一に、ミーファはピョンピョン跳ねながらお手伝いを申し出る。
そうして浩一の腰に背後から飛び付いたところで、
「…………あれ?」
ミーファは小さく小首を傾げながら、浩一の背中の匂いをスンスン、と嗅ぐ。
「おにーちゃん、ソラおねーちゃんのにおいがする」
「えっ、誰だって?」
「ソラおねーちゃんはミーファのおねーちゃんだよ」
「そう……なんだ」
ソラとミーファの関係を聞いて呆然と立ち尽くす浩一に、小さな少女から疑問の声が上がる。
「ねえ、おにーちゃん。どこでソラおねーちゃんにあったの?」
「ど、何処でって……」
その質問に、浩一は目に見えて狼狽えだす。
浩一の脳裏に思い浮かぶのは、自分の名前を読んで背中に抱き付いてきた一人の少女だった。
自分の記憶が確かならば、ソラという少女もまた、今日のお見合いパーティーに呼ばれていたはずだ。
ただいたずらに貴族たちの食い物にされるだけの筆舌に尽くしがたい最悪の宴に、ミーファの姉が巻き込まれる。
このまま全てを忘れて、後はこの少女との甘い蜜月を過ごすつもりだった。
だが、もしそれでソラが死に、後にミーファがそれを知ってしまったら? 知っていながら浩一が見捨てたことを知ったら、どのような反応を見せるだろうか?
「……おにーちゃん?」
顔中に脂汗を浮かべて苦しそうな顔をする浩一を見て、何かを察したミーファが彼の手を取って静かに尋ねる。
「ねえ、ソラおねーちゃんとあったの?」
「…………うん」
これ以上は嘘を吐くのは良くないと察した浩一は、静かに頷く。
「その……今日行った酒場で働いていたんだ」
「そうなんだ。ソラおねーちゃん、おにーちゃんとあってよろこんでなかった?」
「ゴメン、実はちょっとしたトラブルがあって、特に話をしてはいないんだ」
「そーなんだ……」
肩を落として謝罪する浩一を見て、ミーファは彼を元気づけるために正面に回ってギュッ、と腰に抱きつく。
「でも、だいじょーぶだよ」
「えっ?」
「ソラおねーちゃんも、おにーちゃんことだいすきだもん。きっと、つぎにあったときにごめんなさいすれば、おねーちゃん、ゆるしてくれるよ」
「――っ!?」
再びニコッ、と満面の笑みを浮かべるミーファを見て、浩一は雷に打たれたような衝撃を受ける。
浩一の様子からきっと何か失敗をしたのと察したのか、ミーファはわざわざ元気づけるように振る舞ってくれているのに気付いたのだ。
こんな年端もいかない少女が、自分を必死に励まそうとしてくれているのに、自分はそんな少女の想いを裏切るような真似をしていいのだろうか。
記憶はなくとも、自分で守ると誓った少女の想いを裏切るような真似はできなかった。
「ミーファ……」
浩一は手にした食器をテーブルへと戻すと、彼女と目線を合わせて真摯な表情で語りかける。
「実はね。その……ソラお姉ちゃんだけど、実は今、この屋敷にいるんだ」
「ほんとに!?」
「本当だよ。だから、今から迎えに行ってくるけど、それまで待っててくれるかい?」
「うん! ミーファ、まってるよ」
「ありがとう」
浩一はミーファの体の熱を確かめるように、小さな体をきつく抱き締める。
そのまま数秒間静止して、ミーファから勇気を貰った浩一は、彼女に向かって精一杯の笑顔を浮かべる。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい。ソラおねーちゃんと、なかなおりできるといいね」
「うん、そうだね」
無邪気に笑顔で手を振って送り出してくれるミーファに、浩一は力強く頷いてみせながらラドロの私室から退出していった。
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