第541話 ゆずれない想い
茫然自失の状態でいろ。ネロからそう言われたことを思い出した俺は、できるだけ感情を表に出さないように気を付けながら、ちらと現れた巨漢を見る。
見たところ五十代と思われる巨漢の第一印象は、まるでカエルが人化したらこのような姿になるのではないだろうか? そう思うほど人間離れした顔立ちをしていた。
「グヒヒ……ようやくこの痴れ者を捕まえることができたか」
ニチャア、という音が聞こえてきそうなほど不気味な笑みを浮かべた巨漢は、今にもはち切れんばかりに肥大した腹をポリポリと掻きながら、たらこのように分厚い唇を動かしてネロに尋ねる。
「それでネロよ。手筈通りこのバカに薬を盛ったのだな?」
「はい、食事に例の薬と筋弛緩薬を入れましたので、暫くはまともに動くこともできないかと」
「筋弛緩薬だ? それでは、会話もままならぬではないか!」
驚くほど短い足をバタバタと動かしながら俺の前までやって来た巨漢は、ウインナーのような指を伸ばして俺の髪を掴んで顔を覗き込んでくる。
「んん? 本当に薬が効いているのか?」
「勿論です。今なら指の二、三本折っても、何も反応しませんよ」
「――っ!?」
「ん? 今、何か……」
しれっとネロがとんでもないことを言い出すので、思わず感情が表に出そうになった俺を見て、巨漢が至近距離で酒臭い息を吹きかけてくる。
「…………」
小汚い中年のオッサンから発せられる加齢臭と、酒臭い息に吐き気が込み上げてくるが、地下生活時代の下水道の臭いに比べればマシだと強く思いながら、必死に感情を殺し続ける。
そうして待つこと数秒、
「……………………気のせいか。まあ、指を折ったところで悲鳴の一つも聞けないのなら、何の意味もないな」
努力の甲斐があったのか、巨漢は興味を無くしたように俺を乱暴に突き放すと、クルリと背中を向けてネロに話しかける。
「まあいい、次にこいつが目を覚ましたら、二度とワシに逆らえないよう、きっちりと躾けておけよ」
「……仰せのままに」
ネロが深々と頭を下げると、巨漢はつまらなそうに「フン」と鼻を鳴らして歩き出す。
状況は全く理解できないが、このまま立ち去ってくれると思い密かに安堵の溜息を吐いていると、
「ふみゅう…………」
「…………ん?」
ミーファの可愛らしい寝言が聞こえ、巨漢の足が止まる。
やめろ! そのまま立ち去ってくれ。そんな俺の願いも空しく、くるりと振り返った巨漢は、これまで目もくれなかったミーファを見て顔をしかめる。
「……何だ。あのガキは? ラドロのガキか?」
「い、いえ、違うと思います」
「そうだな。流石に獣人との間に、そう簡単に子供ができるはずがないしな」
そのまま立ち去ってくれればいいのに、巨漢は再びこちらにやって来る。
俺だけならいくらでもこの状況を耐えることはできるが、ミーファが絡むとなると話は変わって来る。
「ふぅ……ふぅ!」
猿ぐつわを噛まされているので言葉を発することはできないが、俺は巨漢の興味がこちらに向くように、手足を動かしながら叫び声を上げる。
「ふおぉ! ふおおおぉぉ!」
「おっ、何だ。この娘の話題になった途端、元気になったじゃないか」
巨漢の後ろで、ネロが頭を抱えながら大袈裟に嘆息する姿が見えたが、そんなことは関係ない。
死んでもミーファのことは守る。
それは今の俺の至上命題であり、絶対に譲れないことができない一線でもあった。
「ふーっ、ふーっ」
俺は巨漢に向かって、ミーファに手を出したら殺すぞ。という念を込めて睨み続ける。
「……フッ」
俺からの視線を受けた巨漢は、鼻で笑いながらどうしてか手に嵌めた指輪を確認したかと思うと、
「フン!」
いきなり俺の顔を思いっきり殴りつけてきた。
「この! ワシに! 反抗的な態度を見せるとは! いい度胸じゃないか! ああん!」
手足を拘束され、回避も防御もできない俺に対し、巨漢は馬乗りになって執拗に殴り続ける。
「全く! 薬が十分に効いていないじゃないか!」
体重が乗った拳が当たる度に、目の中から火花が飛び出したかと思うような衝撃が走る。
目の前が赤く染まり、口内が切れ、鼻の骨が折れたのか、中に血が溜まって呼吸がままならなくなる。
「――っ!?」
陸上にいながら、まるで水中に放り込まれたかのような息苦しさに、俺は空気を求めてジタバタともがく。
だが、その行動が巨漢の不審を買ったのか、奴は血まみれの拳を振り上げてニヤリと笑う。
「どうした!? あの薬を飲まされたはずなのに、まだ反抗的な態度を取るじゃないか!」
「グ、グリード様! このままではラドロ様が死んでしまいます」
尚も執拗に殴ろうとする巨漢、どうやらグリードという名前の男に、ネロが慌てたように手を伸ばして止めに入る。
「このままでは顔の形が変わってしまいます。そうなっては、ラドロ様の仕事に支障が出てしまいます」
「チッ、そうだったな。ワシとしたことがついやり過ぎてしまった」
グリードは最後にもう一発俺の顔を殴りつけると、ふぅ、と肩で大きく息を吐く。
「……だが、薬が十分でなかったのは解せぬな。ここは追加の薬を与えておくか」
「グ、グリード様それは……」
「何だ? このワシに意見するつもりか?」
「い、いえ……そんなことは……」
ネロの怯えたような声音を耳にしながら、俺は赤く染まった視界で俺の上に乗る巨漢を見る。
すると、グリードが胸元のポケットから濃い紫色の小瓶を取り出すのが見えた。
「グヒヒ……この特別製の薬を飲めば、すっかりいつものお前に戻れるぞ」
不気味な笑い声を上げながら、グリードは見るからにヤバイ色をした瓶の蓋を開け、俺の口に付けられた布製の猿ぐつわに薬を浸していく。
一体、何を飲ませるつもりかわからないが、この薬だけは絶対飲んではいけない。
そう思って必死に口を閉じようとするが、しっかりと口に嵌った猿ぐつわが、逃げることを許してくれない。
そうしてジワジワと薬が布越しに染み込み、口の中に信じられないほど苦い液体が入って来る。
「――っ!?」
暫くは飲み込まないように耐えていたが、とうとう耐え切れなくなってほんの少しだけ薬を飲み込んだ瞬間、
「ごがっ……が、があああああああああああああああああああああああああああぁぁぁ!!」
俺は自分の口の中に火の塊を放り込まれたような熱さと痛みを感じ、堪え切れずに喉が潰れるほどの勢いで絶叫した。
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