第430話 マイペースな巨大羊
雨はさらに強くなり、シドが懸念した嵐になるのも時間の問題ではなないかと思うどしゃ降りの中、声の少女を助けると決めた俺とシドは、急ぎ足で窪地に向けて駆けていた。
ソラとミーファを馬車に残したのは、以前よりも健康になったとはいえ、やはり体調に不安があるソラや、万が一荒事になったらミーファを守り切るのが難しいという判断だ。
それに、馬車には荷物と馬を守るためのロキもいるので、俺とシドといるより遥かに安全というのもあった。
だが、どうやら荒事になる心配だけはなさそうだった。
その理由は、距離を詰めて影の正体が露わになったことで明らかになった。
「でかっ…………」
俺は声の主である少女よりも、少女の後ろで豪雨の中でも悠然と草を食んでいる巨大な生物に釘付けになる。
面長の顔の左右に巻き貝を思わせるようなグルグルと巻かれた二つの角を持ち、全身を白いモコモコの厚い毛皮に覆われた生物は、俺がよく知るある生物を思い起こさせる。
「も、もしかして羊……なのか?」
「これはギガントシープって種類の羊です。めちゃくちゃ大きいですよね」
巨大な羊に圧倒されていると、羊の前にいた少女が俺たちの前までやって来て、ペコリと頭を下げる。
「こんにちは、私はニーナっていいます」
ニーナと名乗った少女は、長い金色の髪を頭の左右で二房にまとめた、所謂ツインテールがトレードマークの可愛らしい少女だった。
着ている服装もチェックのシャツに、オーバーオールといういかにも牧場の娘と思わせるような服装で、あどけない笑顔に浮かぶそばかすと併せて、何だかカントリーソングの世界から抜け出して来たかのような印象を伺わせた。
「あの……助けに来てくれたってことでいいんですよね?」
人を呼び寄せといて野盗の可能性があると思ったのか、笑顔のままのニーナちゃんは及び腰で探るように尋ねてくる。
「勿論、そのつもりだよ」
そんなニーナちゃんに苦笑しながら、俺は笑顔を見せて頷きながら自己紹介をする。
「俺はコーイチ、そしてこっちはシド。それでニーナちゃん、俺たちは何をすればいいのかな?」
「あっ、はい。コーイチさんにシドさんですね。ありがとうございます。実は……」
俺たちが言うことを素直に信じてくれたニーナちゃんは、相変わらず座ったまま草を食んでいるギガントシープの腹部を押しながら頼みごとを話す。
「実はこのギガントシープのトニーを、パパの言いつけで嵐が来る前に小屋まで連れて行かなきゃいけないんですけど……全然言うことを聞いてくれないし、雨も降ってきたりで途方に暮れていたんです」
「なるほど……」
顔を真っ赤にしてニーナちゃんがトニーの体を押すが、彼女の非力な力では、全長は優に三メートル、体重は数百キロありそうなギガントシープにはなしのつぶてのようだった。
「なるほど、こいつを動かせばいいんだな」
すると、力仕事なら任せとけ、とシドがぐるぐると腕を回しながらニーナちゃんのすぐ隣に立つ。
「ちなみにだが、思いっきり押してしまっていいんだな?」
「は、はい……でも、傷付けるようなことはやめて下さいね?」
「大丈夫だ。ただ、押すだけだからな」
余程トニーを動かす自信があるのか、シドは力強く頷いてみせながらトニーの柔らかそうな腹部へと手を当て、ニーナちゃんへと目を向ける。
「いくぞ…………」
「は、はい……」
「「せーの!」」
そうして二人同時に力を籠めるが、残念ながらトニーが動く様子は見えない。
「ふぬ……ぬぬ…………ぬぬぬ」
シドは動かないトニーを動かそうと顔を真っ赤にして姿勢を変えながら押し続けると、不思議なことにトニーのモフモフの毛の中にどんどん埋まっていくが、その巨体はビクともしない。
それどころか、トニーがくすぐったそうに身を捩ると、
「うわっ!?」
「キャッ!!」
その衝撃で、シドとニーナちゃんの二人は軽々と濡れた草の上へと吹き飛ばされる。
「…………メエェェ」
するとトニーが「…………くすぐったい」と物凄く眠たそうな声で鳴き声を上げると、再び緩慢な動作で頭を下げ、もそもそと草を食べ始める。
どうやらこのギガントシープにも、アニマルテイムのスキルは有効なようだ。
トニーの言うことが理解できるということは、俺の言葉も通じるはずだ。
「なあ、トニー……」
俺は寝転がったまま草を食んでいるトニーに向かって刺激しないように、静かに話しかける。
「食べているところ悪いんだけど、少し話を聞いてくれるかい?」
「…………」
「ニーナちゃんが困っているだろう? 食べるならこんな雨の中じゃなくても、晴れた時に存分に食べてもいいんじゃないのか?」
「…………」
「なあ、俺の声、聞こえているんだろ?」
「…………」
三度話しかけてみたが、トニーはまるでこちらの声が聞こえていないかのように、黙々と草を食べ続けている。
「コ、コーイチさん。あ、あの……ギガントシープとはお話できませんよ?」
それどころか、話が通じない動物とコミュニケーションを取ろうとする不審者と思われたのか、ニーナちゃんに心配されてしまった。
「い、いや……その……だね」
傍から見れば怪しい人間にしか見えないのは確かだが、それでも俺はどうにか冷静を装いながらニーナちゃんに説明する。
「こう見えて俺、動物と話す能力があるんだ」
「コーイチさん、お気持ちはわかりますが……」
「い、いやいや、本当なんだって」
このままだと完全に危ない奴認定されてしまうので、俺は雨の中、何かを考えるように目を閉じて草を咀嚼しているトニーの顔を掴むと、眼前で捲し立てる。
「おい、トニー……俺の声が聞こえているんだろう。食べるなとは言わないが、少しは話を聞く姿勢を見せたらどうだ?」
その言葉に、トニーはようやく目をゆっくりと開けながら俺と視線を合わせる。
「…………」
一体何を言うのかとじっくりとトニーと睨み合いを続けていると、
「…………ペッ」
「うわっ!?」
いきなり唾を吐きかけられたと思ったら、それを顔面にまともに受けてしまう。
「き、汚っ……うわっ、く、臭ッ!」
慌てて唾を拭った瞬間から、今まで嗅いだことがないような悪臭が鼻を突き、俺は苦悶の表情を浮かべながら、濡れた草原に顔を突っ込んで少しでも臭気を取り除こうと試みる。
「メエェェ……」
まるでアルパカのように唾を飛ばしてきたトニーは「眠い……」とまるで俺のことなど歯牙にもかけていない様子で大きな欠伸をする。
「こ、この野郎……」
今の唾がわざとなのか、本能的な防衛反応によるものなのかはわからないが、どうやらこのギガントシープは俺たちのことを完全に舐めているようだ。
トニーがこっちの言うことを完全に無視するつもりなら、俺にも考えがある。
「ニーナちゃん……」
「は、はい、なんでしょう」
唾の臭気が気になるのか、若干距離を置きながら可愛そうな目をしているニーナちゃんに、俺はある確認を取る。
「このトニーが動いてくれないと、ニーナちゃんはここから動けないんだよね?」
「あっ、はい……パパは他の子を牧場に急いで連れ戻すためにあちこち回っていますので、まだ数時間はここには来られません」
「そうか……」
やはりというか、ニーナちゃんは牧場の娘のようだ。
だが、いくら仕事とはいえ、数時間もこんな雨の中にいたら確実に風邪をひいてしまうだろう。
ここはシドではないが、ニーナちゃんに恩を売ってどうにか嵐になりつつあるこの雨を凌げる場所を提供してもらおう。
そんな打算的なことを考えながら、俺はニーナちゃんにある提案をする。
「実は、トニーが絶対に動くであろうとっておきの方法があるんだけど……」
「えっ、そんな方法があるのですか?」
「ああ、でもそれはちょっと荒っぽい方法になるんだ。一応、トニーが怪我をしないように万全を期すつもりだけど、その方法を試してみてもいいかな?」
「えっ……」
荒っぽい方法と聞いて、ニーナちゃんは少し考える素振りを見せるが、
「大丈夫です。やってください」
色々思うところがあったのか、少し怒った様子のニーナちゃんは鼻息荒く捲し立てる。
「このトニー、いっつも自分勝手でちっとも言うことを聞いてくれなくて困っていたんです。だから、たまには酷い目に遭うべきです……でも、大怪我はさせないでくださいね」
「わかった」
力強く頷いた俺は、親指と人差し指を咥えて大きく息を吸い込むと、豪雨にも負けない音量で響き渡る指笛を吹いた。
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