第249話 雲散霧消
ど、どうしてエイラさんがここに?
思わぬ人物の登場に驚いていると、エイラさんの顔が霧散して次の顔へと移り変わる。
次に現れたのは、エイラさんと同じ孤児院出身の冒険者、テオさんだった。
――モット、モットイキタカッタノニ……コーイチタチヲ、タスケタセイデ、シンダ
テ、テオさん。俺は……
俺が何かを言う前にさらに黒い霧は姿を変え、今度は雄二の姿になる。
――イタイ、イタイヨ。コーイチ、タスケテクレ
雄二……、
次々と知り合いに姿を変えては俺に恨みの言葉を吐いていくのを見て、俺は黒い霧の正体に思い至る。
この黒い霧は、おそらく俺のトラウマ……それが具現化した亡霊だ。
今までナイフを手にしようとする度に、俺の精神を抉り取っていった奴が、ここ一番のタイミングで俺の目に見える形で現れ、足を引っ張ってきたのだ。
クソッ、こんなところで……、
これが実体のない幻だとわかっても、それを振り払えるかというとまた別問題だ。
まるで水中にいるかのように全身が重くなり、さらには平衡感覚にまで支障をきたし、自分が立っているのか寝ているのかもわからなくなり、俺は焦りを覚える。
こんなところで、止まるわけにはいかないんだ。
早く、早く動かないとソラが、ミーファが、大切な家族が死んでしまうのだ。
俺は目から涙が溢れてくるのを自覚しながら、必死に黒い霧から逃れようともがく。
だが、
――ムダダ
――オマエハダレモスクエナイ。コレマデモ……ソシテコレカラモ
抗う俺に、黒い霧が俺の耳元で知り合いの姿となって嘲笑う。
あの優しいエイラさんが、頼もしいテオさんが、親友の雄二がこんな酷いことを言うはずがない。
そう必死に言い聞かせながらもがくが、黒い霧はますます濃度を増して俺を縛る。
全身を包む黒い霧が体中の毛穴まで塞いでしまったかのような感覚に、俺は堪らず膝を付き、うつ伏せに倒れる。
体は鉛のように重く、腕一つまともに上げられなくなり、黒い霧が肺の中まで浸食したのか、息をするのもやっとという有様だが、それでも俺はソラたちの下へと行こうと、這ってでも進もうとする。
霧の隙間からかろうじて見えるリザードマンは、まるで俺の存在になど気付いていないのか、悠然と余裕を見せつけながらソラたちに迫っていた。
やめろ! やめてくれ!
もうこれ以上、俺から大切な人を奪わないでくれ!
俺は自分が見つかり、殺されてしまう可能性も忘れて叫ぼうとするが、口の中に入っている黒い霧が邪魔をして、俺の言葉は声にすらならない。
――ドウシタ、ウゴカナイノカ?
――タイセツナヒトガ、マタシンデシマウゾ?
何もできない俺に、黒い霧がケタケタと不気味な笑い声を上げながら至近距離で捲し立ててくる。
俺だって……俺だって好きでこんなことをしているんじゃないんだ!
黒い霧の煽りに、俺は声にならない声で黒い霧に向かって叫ぶ。
今だって、すぐにでも立ち上がり、ソラたちに襲いかかろとするリザードマンを倒してやりたい。
それなのに……俺はどうしてこんなところで躓いているのだ。
動け……動けよ! ここで動かなきゃいつ動くんだよ。
俺はいうことを聞かない体に鞭打つように、地面に何度も頭を打ち付ける。
頭を打ち付ける度に星が散り、鈍痛が走り、視界が赤く染まっていく。
自暴自棄になってひたすら頭を打ち続けた所為か、意識が朦朧としてきた。
すると、
――よう、浩一。どうしてナイフを抜かないんだ?
雄二の顔になった黒い霧が俺の眼前にやって、これまでよりハッキリとした声で話しかけてくる。
――さっきから泣いてばかりだけど、戦う気はないのか?
そんなことない。俺は今すぐにでもあいつを殺してやりたいと思ってる!
――じゃあ、どうして試さないんだ? 言っておくが、俺は邪魔なんてしていないからな
……えっ?
雄二のまさかの一言に我に返った俺は、試しに右手を動かしてみる。
「――っ!?」
すると、さっきまで感じていた右手の重みが、嘘のように消えていた。
どうして? と思わずにはいられなかったが、せっかく巡ってきた千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかなかった。
俺は自由になった右手でナイフの柄を握り、そのまま引き抜こうとするが、
「…………」
どうしても引き抜けなかった。
――どうした? やっぱり抜けないんだろう?
すると、こうなることがわかっていたように、雄二の顔をした黒い霧が鼻で笑ってみせる。
――それはな、浩一。お前がビビってるからだよ
お、俺がビビってるだって?
――そうだ。お前は罪を犯したくないという我が身の可愛さに、他人を理由にして逃げているんだよ
違う! 俺は……、
――いいや、違わないね。いい加減、認めろ。お前を縛るものなんて、はじめっからなかったんだよ。いつまでいい子でいるつもりだ。お前に足りないのは、相手の命を奪ってでも生き残る覚悟だ!
かく……ご。
――大切な人を守りたいんだろ。だったら泥をかぶれ! 汚れ役に徹しろ! 大切な人だけを見て生きてみろよ!
鼓舞するような雄二の言葉に、俺は顔を上げてソラたちを見る。
迫りくるリザードマンを前に、ソラたちは真っ直ぐに俺のことを真っ直ぐに見ていた。
距離が離れているのに、不思議と二人が俺に全幅の信頼を寄せてくれているのがわかった。
――あの子たちの期待に応えてみせろ! くだらない倫理観なんて捨てちまえ! 浩一だけがあの子たちを救えるって証明しろ!
こっ、こんのおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!?
雄二の言葉に励まされるように、俺は右手に力を籠めてナイフを一気にケースから引き抜く。
抜けた!?
ナイフを抜くと同時に、全身に絡まっていた黒い霧が一気に霧散して体が自由になる。
俺の右手には、ケースから引き抜かれたナイフが治まっているが、もう体が震えることなければ、吐き気が襲いかかってくることもない。
トラウマを……克服できたのか?
ふと、背中から視線を感じた俺が背後を振り返ると、雄二とエイラさん、そしてテオさんの三人が俺を見ていた。
――やれやれ、死んでも世話の焼ける奴だな
雄二が呆れたように肩を竦めてみせ、
――コーイチさんなら、大丈夫と信じていました
目に涙を浮かべたエイラさんが笑顔で頷いてくれる。
――さあ、後はコーイチの力をあいつに見せつけてやれ。今ならできるだろう?
テオさんの探るような視線に俺は、
…………はい。
力強く頷いてみせると、リザードマンを倒すため、三人に背を向けて走り出した。
あの黒い霧は、俺のトラウマが具現化したものではなく、迷い続ける俺を救うため、雄二たちがあの世から舞い戻ってきてくれたのかもしれなかった。
どうしてそんな奇跡が起こったのかわからないが、一つだけわかったことがある。
俺の背には、俺を救ってくれた三人の暖かな想いが宿っている。
皆から貰った勇気があれば、恐れるものは何もなかった。
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