第221話 僕だけが弱い現実
「あぐっ……いてて」
「あっ、コラ動くな。治療ができないだろ」
その日の夜、俺は自室でシドから治療を受けていた。
覚悟をしてナイフを受け取った俺に、行商人は約束通り徒手空拳での戦い方を師事してくれた。
いや、師事たというよりは、俺を一方的にボコボコにしたというのが適切か。
行商人の実戦訓練とは、文字通りの実戦形式で組み手を行い、技を受けて体で直接覚えろという無茶苦茶なものだった。
これまで格闘技を習ったことなど皆無で、碌に人と喧嘩もしたことがない俺にとって、いきなりの実戦形式というのは、ハードルが高かった。
格闘ゲームをそこそこプレイしたことがある程度では、実際に生身の相手にパンチやキックと繰り出すことなどできず、できたことと言えば、行商人が仕掛けてくる攻撃を必死に防御するだけだった。
「それにしても、派手にやられたな……」
俺の胸に薄汚れた包帯を巻きながら、シドが呆れたように話す。
「なあ、コーイチ。どうしてあいつに、そいつを使って一切攻撃しなかったんだ?」
「どうしてって……」
シドの質問に、俺は困ったように視線を行商人からもらったナイフへと向ける。
組み手の際、行商人から攻撃にはナイフをはじめ、自由に攻撃するように指示されたのだが、トラウマを完全に克服できていない俺は、ナイフを使うことは疎か、一切の攻撃をすることができなかったのだ。
どうして攻撃できなかったのか。そう問われれば理由は明白だ。
「その……さ。なんていうか……ほら、攻撃が当たったら……痛いじゃん?」
「はっ?」
「いや、俺も自分で変なことを言っているのはわかってるよ……ただ、俺はこれまで人を殴ったことなんて……それこそ本気で殴ったことは一度もないんだ」
「……マジか?」
「マジだよ。俺たちの世界は、生きていくだけならそんな荒事は必要ないんだ。何なら生まれてから死ぬまで、一度も暴力を振るわずに死ぬ人だって珍しくないくらいだ」
「マジかよ……信じられないな」
シドは俺の包帯を巻く手を止めると「むむむ」と唸りを上げる。
「そんな一切の暴力がない平和な世界なんて……全然想像つかないな」
「いや、シドはそうかもしれないけど、ソラやミーファはおそらく一生暴力を振るうことなく人生を全うしそうだからね?」
「……何だと?」
俺の余計な一言にシドは三白眼になると、
「どうやらお仕置きがひつようなようだな……」
そう言うと、犬歯を剥き出しにしながら包帯で俺の胸を絞めるように力を込める。
「あだだだだだ……」
ちょ、ちょっと待って。今の俺にその攻撃は洒落にならない。
「シ、シド……ごめ……ギ、ギブ…………」
必死にギブアップ宣言をしようとするが、胸を思いっきり締め上げられているので、思うように声が出ず、俺の叫びがシドに届かない。
その間にも、シドの締め付けはどんどんキツくなり、俺の耳に骨が軋むミシミシという音が聞こえ始める。
このままでは、肋骨の一本か二本は折れてしまうのでは……そう思っていると、パン、という乾いた音がして俺を縛っていた拘束が解かれる。
「……もう、姉さん。コーイチさんは怪我をしているんですから、無茶はしないでください!」
解放されて一息吐いていると、ソラが俺とシドの間に割って入り、彼女からあっという間に包帯を奪い取ってみせる。
「もう、こんなに締め上げて……コーイチさん、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……な、なんとか……」
「もう、姉さんにはお任せできないので、私が包帯巻いちゃいますね?」
「ありがとう。お願いするよ」
俺は大きく息を吐きながらソラに礼を言うと、このままシドの仕事を引き受けてくれそうな彼女に身を委ねる。
「それでは失礼します」
ソラはそう言いながら、俺の左右の脇に手を通しながら包帯を巻きはじめる。
その手つきは、手早い熟練の域に達していたシドと比べると、腫れ物に触るかのように繊細でゆっくりとしたものだが、その腕は確かなようだった。
………………いい匂いがする。
ソラが俺の左右の脇へと手を通す度に彼女の頭が接近し、髪の毛が揺れる度に花の蜜のような甘い匂いがするのだ。
シドもそうだけど、どうして女の子はこうもいい匂いがするのだろうか。
そんなことを思いながらシドの方を見ると、
「…………ん?」
何やらシドが顔をしかめて自分の腕を擦っているのが見えた。
よく見ると、シドの手の甲が何やら赤く腫れており、痛むのか「ふー、ふー」と息を吹きかけていた。
あれ? あの怪我ってもしかして……、
シドが手の甲を怪我する理由に思い当たることは、一つしかない。
まさかと思って下を見ると、
「ん? どうしました?」
可愛らしい顔をした天使が小首を傾げながら見上げてくる。
いやいや、まさかソラに限ってそんなはずはない。
そう思いたいが、
「言っておくが、ソラだって私に負けず劣らずの実力者だぞ」
長女からのまさかの言葉が投げかけられる。
「純粋な力だけでいったら、きっとあたしよりソラの方が上だと思うぞ」
「えっ、そうなの?」
シドの言葉に驚きながら、俺は恥ずかしそうに俯いているソラへと話しかける。
「ソラって……実はかなり強いの?」
「そ、それは……」
ソラは赤い顔をしながら俺を上目遣いで見ると、
「乙女の秘密です」
そう言って可愛らしく舌を出して悪戯っぽく笑って誤魔化すのであった。
ソラ……それは認めているのと同義だよ。
そう言いたかったが、ソラにまでシドと同じように包帯で締め上げられたら、今度こそ肋骨が折れてしまうので、内心ちょっとだけビビりながら彼女に包帯を巻いてもらうのであった。
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