第85話

「はぁ? 記憶喪失?」

「う、うん」


 今わかっていることを説明すると、テンちゃんは、信じられないという顔をしていた。


「じゃあ、あたしのことも覚えてないってこと?」

「う、うん。ごめんなさい」


 すごい剣幕に、少し気圧されてしまったけど、本当のことなので、正直に謝ると、テンちゃんはすごく恐い顔をしながら、何かを我慢するように唇を噛み締めていた。


 そして、そのまま下を向いて、何も言わないテンちゃんは、すごく恐くて、声をかけるのも躊躇ってしまう。


 だけど、それ以上に、テンちゃんがすごく落ち込んでいるように見えて、私はなんとかテンちゃんの名前を呼んだ。


「あ、あの、テン、ちゃん?」

「ふざけんじゃないわよ」

「え?」


 テンちゃんが顔を上げると、その顔には涙とものすごい怒りが滲んでいた。


「テンちゃん? あうっ!」


 テンちゃんはすごい勢いで私の胸ぐらを掴む。

 驚いて声を出しそうになったけど、大きな声を出したら、外にいる女の人に聞こえちゃうから、何とか声を抑えた。


 だけど、テンちゃんは、なおも強い力で私を掴んで、きつく睨み付けている。


 だけど、その表情は、怒っている、というよりも、むしろ、悲しんでいるようだった。


「あたしのこと、友達って言ってくれたじゃない。また会いに来てくれるって、言ってくれたじゃない。なのに、何、簡単に忘れてんのよ! あたしたちの関係は、その程度だった言うの!」

「テ、テンちゃん、声、抑えて、だ、誰か来ちゃう」


 そんなに大きな声を出したら、何かあったのかと思われてみんなが来ちゃうよ。

 私は咄嗟に、部屋の外に音が漏れないように魔法を使ったけど、間に合ったかな。


「そんなの知らないわよ! 今はそんなの関係ない! あんたは、あたしを、その程度にしか思ってなかったのかって聞いてんのよ!」


 それでも、テンちゃんは治まらなくて、悲鳴のような叫びは部屋全体に響いた。


 テンちゃんは顔を真っ赤にして、私を睨んでいる。私の答えを待つように、歯を噛み締めながら。


「えっと」


 正直、私はテンちゃんのことを覚えていない。

 私とテンちゃんが、どんな関係だったのか。どのくらい仲良しだったのか。

 全然思い出せない。


 だから、テンちゃんの質問には答えられない。


 テンちゃんは多分、嘘をついてほしい訳じゃないから。


「ごめんなさい」


 謝ることしかできなかった。


 私が謝ると、テンちゃんは、目を見開いて悔しそうに涙を流す。

 唇から血が出るくらい噛み締めて、私の胸ぐらから力なく手が落ちた。


 悲しそうに肩を落とすテンちゃんを見て、私の視界はひどくぼやけた。


「なんで、あんたまで、泣いてんのよ」

「だって……」


 ポロポロと流れる涙を感じながら、私はその涙を抑えることができなかった。


「だってぇ……」


 テンちゃんが怒っているのが悲しくて。

 テンちゃんが悲しんでいるのが悲しくて。

 テンちゃんを悲しませている自分が情けなくて。


 色んな感情が胸の中で渦巻いて、何がなんだかわからない。


 だけど、ただ1つ言えるのは、私はテンちゃんを悲しませたくなかったのに、ということだけ。


「う、うわあぁぁん」

「ち、ちょっと、泣きたいのは、こっちなのに」


 いきなり泣き出した私に、テンちゃんは慌てたように私の顔を覗き込む。


 その顔を見たら、もっと涙が出てきて、さらに止まらなくなってしまう。


「う、ううぅ」


 声が外に漏れたら、みんなが来ちゃう。

 しかも、私が泣いていたら、みんなが誤解しちゃうかもしれない。


 だから、早く泣き止まないといけないのに。


「う、ううぅ、うぅ」


 何とか声を殺そうとするけど、うまく出来なくて、涙はとどまることなく床に落ちていく。


 テンちゃんはどうすればいいのかわからなくて、あたふたしているみたいだったけど。

 大丈夫だよって言葉を出せなくて、私は下を向いて顔を隠すことしかできなかった。


「もう、なんなのよ」


 テンちゃんの呆れた声が聞こえてくる。


 ああ、もう。テンちゃんに迷惑をかけたい訳じゃないのに。

 私が泣いてる場合じゃないのに。


 どうしても止まらなくて。


 そんな時。


「そんなに泣かれたら、私が悪者みたいじゃない」


 テンちゃんが溜息混じりに言う。


「ち、ちがっ、そう、じ、ひくっ。じゃなく、て」

「ああ、もういいから。とりあえず落ち着きなさいよ」


 テンちゃんは私の手を握ってくれる。


「テン、ちゃん?」

「ほら、いいから、深呼吸」


 テンちゃんは、呆れた声音のまま、すー、はー、と息を吸ったり吐いたりしている。

 ゆっくりと。


 私はそれに合わせて、同じように深呼吸をした。


 泣きながらだから、ひくひく言いながらだったけど、テンちゃんがそれをしばらく続けてくれて、私も少しずつ落ち着くことができた。


 多分、テンちゃんが、優しく私の手を握っていてくれるのも、理由の1つだと思う。



「落ち着いた?」

「う、うん、ひぐっ。うん」


 まだ完全には治まってなかったけど、普通に話せるくらいにはなって、私はやっとテンちゃんの顔を見ることができた。


 テンちゃんは、声の通り呆れた表情で私の方を見ている。


「なんか、気が抜けたわ」

「ごめん、なさい」

「はぁ。もういいわ」


 テンちゃんに呆れられた。見放されたのかもしれない。

 そう思ったら、また泣きたくなってきて、涙が出そうになった。


「私も頭に血が上ってたから。私も、ごめん」

「え? テ、テンちゃんは、悪くないよ。私が、勝手にテンちゃんのこと、忘れちゃったから」


 テンちゃんは、何も悪くない。

 だって、自分のことを忘れられたら、誰だって悲しくなるのは当たり前で、怒っちゃっても仕方がない。


 私が反対の立場だったら、同じように悲しくなって、もしかしたら怒っちゃうかもしれないから。


「別に、あんたも、忘れたくて忘れた訳じゃないんでしょ?」

「う、うん。それはもちろん」

「なら、いいわ」


 テンちゃんは、苦笑いしている。


「あんたがそんなやつじゃないって、わかってたはずなのに。なんか、すごく悔しくてね」

「ごめんなさい」

「もういいって。それより、あたしのこと忘れてたんなら、どうしてあたしを呼んだのよ」


 しんみりとした空気を振り払うように、テンちゃんが明るめの声を出した。

 もうその話題は終わり、そんな目をしていた。


 私はまだ謝り足りないような気もしていたけど、そういえば確かに、まだそのことを伝えてなかったので、頭を切り替えた。


「え、えっと、ね。今日のご飯の時、テンちゃんの作ったビスケットが出てきて、その香りを嗅いだら、テンちゃんの名前が頭に浮かんだの」

「名前が?」

「うん。テンちゃんのことは覚えてないはずだったのに、突然、頭に浮かんだの。だから、会いたいなと思って」


 正直に全部話すと、テンちゃんは、何かを考えるように私を見ていた。


 そして、フッと、優しく笑った。


「なんだ、やっぱり、忘れてなかったんじゃん」

「で、でも、テンちゃんのことは、全然、覚えてなくて……」

「でも、私の名前を思い出した、会いたいと思ったんでしょ?」


 私の言葉に被せるように、テンちゃんが言う。


「それは、そうだけど」

「なら、思い出しかけてるってことでしょ?」

「そう、かも」

「なら、いいわ。その代わり、早く思い出しなさいよ」


 テンちゃんは、それで許してあげる、といたずらっ子みたいに笑った。


 テンちゃんは、すごく優しい子。

 それが、なんか懐かしくて、私はすごく安心できた。


「うん。ありがとう、テンちゃん」

「そういう顔は、変わらないのね」


 テンちゃんは、仕方がないと笑って、私も笑って、2人で笑いあった。


 ◇◇◇◇◇◇


「それで、もう1つ気になってるんだけど、リリルハさんも、ここに来てて、処刑されるって本当?」

「あ、うん。そうなの」


 それから少し他愛ない話をしている中で、テンちゃんが深刻な表情で言った。


「お姉ちゃんが、すごく怒ってて、何を言っても聞き入れてくれないの」


 お姉ちゃんが、竜の巫女であるということは、テンちゃんに説明している。


 竜の巫女、というのが、どんな存在なのか、テンちゃんは、よくわかってないみたいだけど、どういう状況なのかは、わかってくれたと思う。


 そして、どうしてこんな状況になったのかも、説明していた。


「リリルハさんを処刑なんてしたくないけど、どうしたらいいのかわからなくて」

「それは当たり前よ。だけど、うーん」


 テンちゃんも、私と同じように頭を悩ませる。

 気持ちは同じだけど、テンちゃんも、私と同じでどうすればいいのかわからないみたい。


「その、お姉ちゃんは説得できないのよね」

「うん、難しいと思う」


 少なくとも、リリルハさんが処刑されるまで、もう時間がない。

 それまでの間に、お姉ちゃんを説得できるとは思えなかった。


 本当は話し合いで解決したいけど、流石に今の状況で、それでなんとかなる、なんて楽観的なことは言えなかった。


「なら、逃げるしかないってこと?」

「うん。お姉ちゃんに気付かれないように」


 それしかなかった。

 だけど、そんなことができるとも思えない。


 こんなに厳重体制の部屋から、気付かれずに抜け出すなんて。


 だからずっと、困ってた。

 だけど。


「気付かれないように、ね。なら、1つ方法があるわ」


 テンちゃんは、何かを思い付いたように、ニヤッと笑った。


「え? 本当?」

「まあ、成功するかは微妙だけど、試してみる価値はあるわ」


 そして、テンちゃんは、小さな声で、私に作戦を教えてくれた。

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