23.見えない幸せ
日もすっかり落ち、暗闇と月明りに囲われた宿屋で、ミコは仕事を進めていた。
にゃーん。
「おや……?」
どこからか、猫の鳴き声が聞こえた。
どことなく不思議に思い、声のした方へ行ってみると、そこは建物裏の洗濯物を干すスペースだった。
「どうしたんですか猫さん~って、もう。畳んだ服の上に乗っちゃダメですよー」
また洗い直さなきゃいけないなぁ。
なんて考えつつも、黒猫を責める気持ちはこれっぽっちも無かった。
洗濯ものを置きっぱなしにしていた自分に落ち度がある。
ミコは、そのように考える子であった。
黒猫を抱え語りかける。
にゃーん、にゃーん。
「ご飯ならさっき上げたでしょう。どうしたんですか?」
お腹が空いた時によく鳴く黒猫だったが、今日は何やら様子がおかしい。
抱え上げても鳴きやまないのだ。
困ったなぁ。まだ仕事はあるけど、この子の事もほおっておけない。
誰か呼ぼうか、それともサラに見てもらおうか。
そんな事を考えていたその時だった。
「ひっ!?」
地響きと共に、どこからか衝撃にも似た轟音が聞こえてきた。
ミコは思わず驚いて声を漏らす。
「……な、何の音でしょうか?」
商店街から宿屋への森は、普段なら魔物は生息していない。
どこかの冒険者が特訓でもしているのかな。
宿屋の近くでやられるのは困るし、黒猫が落ち着かない事にも繋がっていそうだ。
一度注意しに行かないと。そう思い、一歩外へ出た。
瞬間。
聴覚が壊れそうなほどの轟音がまた聞こえた。
「え……?」
森から伸びる、水柱と共に。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
でも、その水柱は良く知っていた。知っていたからこそ、瞬時に悟った。
「サラ……ッ!!」
黒猫を下ろし飛び出す。
すれ違った従業員や宿泊客の呼び止める声も聞こえないほどに、ミコはただひたすら、森を目指し駆け出した。
────────────────────
月明りを浴びた水は、似つかわしくないほど綺麗に輝いていた。
「
「ぐはぁっっっ!?」
その水は、豪雨のように激しく。
その水は、大滝のように力強く。
その水は、湖に潜む主のように狂暴であった。
一瞬の隙も与えず、巨大な水の柱はシキを目掛けて飛び出し続ける。
「クソッ!!」
「
何とかかわした先に、不気味な透明の液体が糸のように細く伸び襲い掛かる。
死に物狂いで避けるが、衣服には既に数ヵ所穴が空いていた。
(劇薬……あれだけは絶対に直撃してはならない)
しかしシキの思考を読んでいるかのように、逃げたい場所へは水の柱が襲い掛かってくる。
「シキ……いい加減諦めてくれ。私は別にお前を殺したい訳じゃないんだ。ミコのために、私の邪魔をしないでほしい。そう言っているだけなんだよ」
「ふざけるな。ミコのためだと……? その行為のどこがミコを思っての行動なんだ」
「……ッ、知ったような事をッ!!」
サラは感情的に水の柱をムチのように振り回す。
何度も衝撃を与えられるうちにいくつもの木々が折れ、身を隠せる場所も減っていた。
「どうして通り魔などという方法を取った!? なぜ人を傷つける!! そんな力があればもっと他の方法だってあるだろうに!!」
残された木から木へと身を隠しながら、シキはサラへと語りかける。
「黙れッ!! これが師匠への一番の近道だからだ!! 冒険者を襲い記憶を見る、その記憶をたどりに次の記憶を探す!! そうやってやっと、やっと記憶を奪う使い手を見つけたんだぞ……!!」
サラは二つの水塊を逆巻かせながら、ギラついた目で木の影に潜んでいるシキを睨む。
「確かにそうかもしれない。その方法でお前の師匠へたどり着けるかもしれない。だがなサラ、お前まで通り魔になってしまったら意味が無いだろう!!」
「私の事などどうでもいい!! 私はもう、ミコの悲しい顔など見たくないんだ!! やっと、やっとまた明るくなって、宿も上手くいって、彼女は幸せを取り戻していたんだ……!! なのに、なのに師匠が攫われて……クソッ!! どうしてあの子ばかり、不幸にならなきゃいけないんだぁぁぁ!!」
サラは叫ぶ。その声に答えるように二つの水塊と劇薬の球は柱となり、シキを森ごと貫く。
「グッ…………」
「シキ……どうしてそこまで邪魔をする。そんなにネオンが大切か? その感情すら、彼女によって後から植え付けられたものかもしれないんだぞ」
「そうかも……しれない……。私には何もない……。記憶も、過去も、家族も、何もない。……だから、あいつの事を特別に見ていたのも事実だ。だから知ってしまった。また失ってしまう怖さを。だから分かってしまった。お前がミコを思う気持ちも、彼女を大切にしたいという思いも、理解してしまった」
「…………何が言いたい」
「お前は私に言ったな。ミコの力になってほしいと」
「……ああ、言ったさ。けれどここで戦っている以上、それは叶いそうにないけどね」
「お前は私に、何をして欲しかった?」
「別に何も。ネオンを捕える邪魔さえしてくれなければ、それでよかったんだよ」
「……違うな。そんな軽い気持ちで言っていなかったはずだ。あの時お前はもう、覚悟を決めていたんだろう。通り魔として生きる。いずれ罪に問われる事を見越して、私にミコを守るよう託そうとした、そうだろう」
シキは地面に倒れたまま、視線だけはサラへ送っていた。
強く、強く、強く。彼女へ問いかけるために。
「はぁ……」
サラはため息をつく。それはシキに呆れたから。ではない。
「何だ、全部伝わっているじゃないか。だったらどうして、私の邪魔をする? 私はもう決めているんだ。この身がどうなろうとも、必ずミコを幸せにしてやる。それが私の出来る全てだから」
「それは……違う」
「なに?」
シキは起き上がる。
何度倒れても、何度届かなくても、曲げられない目的を掲げた。だから何度でも立ちふさがる。
「ミコの幸せ。それにはサラ、お前がいなくてどうする!!」
「……ッッッ!!」
「お前は……幸せを考えた事はあるか? お前の幸せ、ミコの幸せ、他の誰かの幸せ。どれでもいい。その幸せを考えた時、一番見えていない部分がある。それは自分自身だ。目の前に広がる世界には、自分自身だって含まれているはずだ。それが、お前には見えていなかった」
「……黙れ」
「私だってついさっきまでそうだった。人の考える幸せに、自分が入っている事など考えもしなかった。だがな、付き合いが長いほど、楽しい時間を共有するほど、誰かの中に私という存在が作られていく。特別な存在へと変わっていく」
「黙れ」
「お前だってそうだったのだろう? この私から何かを感じたから、自分が去った後ミコを任せたいと考えた。サラ、お前の描く世界に私が現れたから、だからネオンを連れ、私の知らぬところで事を起こそうとした」
「黙れと言っているだろ……シキィィィ!!」
捩じ切れるような水圧を轟かせるこれまでで最大威力の水柱が、交差する竜のようにシキを目掛けて放たれる。
だがシキは、一歩、また一歩と踏み出しサラへ近づく。二本の巨大な水柱の間をすり抜けていく。
「ミコの力になる。そのために、私は何度でもお前の前に立ちふさがるぞ、サラァァァァァ!!」
踏み込む。走り出す。
全身に力を入れ、拳に願いを込めて、睨み付けるサラの視線を切り開く。
「止まれッ!! 溶かされたくなかったら、これ以上私に近づくなァ!!」
水柱はもう追いつかない。
サラは胸の前に残った透明な液体を操り、シキへ向けて放った。
「止まってたまるかあああああ!!」
シキは止まらない。止まってはならない。
向かってくる劇薬の塊を見てなお、シキは止まらない!!
「サラ、お前は私が止めるッッッ!!」
ドガッッッッッ!! と、鈍い音が響いた。
それと同時に、轟く水柱が地面へ崩れ落ちる。
けたたましい音と共に、横に倒れたサラと、右腕を突き出したシキが姿を現す。
「サラ……。お前は優し過ぎる。お前に通り魔など、似合わないんだ」
放たれた劇薬は直前で軌道を変え、シキの服に穴を空け、消え去っていた。
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